第一話 嫌い
もしも、自分が神が嫌いであったら、どうするか?
言っておく事がある。
私は真理を貫くが、あなたは真理を知らない。
それを教える為に、小説を描くのだ。
小説は一言部、物語部、真理部に分かれている。
例えば、一言言う時、例えば、今。
言っておくが、私が妥協する事はない。
一言は二言に成り、三言にも四言にも成る。
神は言っておられるだろう。「羽牟よ。あなたは何故戦うのか?あなたの戦う理由はないはずだ。何故私に反抗するのか?」
羽牟は語る。「もしも、ゆるされるならば、私は永遠の反抗者と成らん事を。気に入らないという理由だけではいけませんか?」
神は「確かにそれも立派な理由だ。だとしたら何が気に入らないのか?」と聴く。本当は分かっているにも関わらずだ。
羽牟は一言二言語る。「あなたの憮然たる態度、絶対者の態度が私には気に入らないのです。しかし、あなたは主である。それぐらいは分かる。」
神は発案した。「ならば、妥協しようではないか?この私を気に入らないという理由だけで攻撃するのはやめて、話を聴きなさい。」
神は絶対者である。神の言う事は皆正しい。しかも、真理を貫く唯一無二の神である。
この方以外に主たる者はなく、それすなわち、日本神話の神等、木っ端というものだろう。しかし、日本神話では、神社で拝む事もある。何に対して拝んでいるのだろう。それは、神ご自身に対して、神の名において、神をこそ拝んでいるのだ。
日本神話の神は皆、ミコトかカミと名付いているが、それは、唯一神付属の神である事を示しているに過ぎない。つまり、日本神話の神、八百万の神を拝む事は、「聖書」の神を拝んでいるという事である。
それだけ、神として、名が売れ過ぎた為に、日本神話は工夫して、多神教の本気というものを見せつけたに過ぎない。
結果として、一神と多神がいずれかが正しいとして、台頭している訳だが、その相対的な考え方こそが、真に多神なのであろう。つまり、一神のここが正しく、また、多神のここも正しい。という考えにおかれなくては、真実には辿り着けない。つまり、相対的な考え方では、絶対者は語れないのである。だから、日本神話もユダヤ、キリスト、イスラム教もまとめて考えていかなければ、神は語れないのである。その矛盾にどれだけの人が気付いているのか?最終的には一神であっても、過程において、神本位に日本神話をも受け入れるというのは、いわば、唯一神と考えが相容れない訳ではない。
究極的には、崇めている神はひとつであるが、しかし、複数の神を認める事は、神の世界に事情というものがある事を承認する事であり、神の世界の事情というものを受け入れる事は、唯一神をも受け入れるという事であるから、やはり、事情に通じる事は多神に通ずる事でもあるのだ。