彼女と春雨
まばらに通り過ぎる人の中、彼女だけはいつもこちらを見て会釈をして去っていった。
年は15、6だろう。近くの高校の制服を着ている。
その、制服に着られているような初々しい姿を見送るたびに目礼を返していた。
この稲荷神社に住み着いて早数十年。
生物としての生を続けているうちに妖怪と呼ばれる分野に片足どころか肩まで浸かっていた。もとは、ただの狐だったはずだ。仲間の中でも長く生きることができただけだった。
そんな中で、人間という生き物は遠くから見る生物だった。
けして近寄らず、けして近付けず、まして姿を見せるなどしてこなかった。
自身は妖狐と呼ばれる類のものだと認識していた。だが、こうやって神社という一種の聖域に入ることができることを考えるに、すでに神格化しつつあるようだった。
その、人との接触を拒んでいた自身が。ここ数週間、彼女に挨拶をされるようになっていた。
そもそも、彼女に自身がしっかりと見えている気はしない。単に彼女が信心深く、神社を通る、その度に奥に見える社に頭を下げているだけかもしれない。
そう、思っていた。
だが、今。
彼女は拝殿の脇に立ち尽くしたまま、ぼんやりと雨雲を見上げている。
参拝範囲である社の中央から外れ、その階段に腰かけることもなくさらさらと弱く続く雨を凌いでいた。
何故、彼女がもっと屋根の張っている中央に入ってこないのか。
その中央に座している俺を避けているからだ。
境内に駆け込んできた彼女は、拝殿に座る俺を見て一呼吸だけ足を止めた。
その目と、合ってしまったのだ。
彼女は、少し顔を曇らせてから頭を下げた。そのまま顔を上げることなく、屋根の端に入って雨宿りを始めた。
見えていないと思っていた彼女は、明らかに俺を俺として見ていた。
そこからずっと、雨が止まないかじいっと空を見上げている。
その背中は小さく、座っていても彼女のつむじが見えそうだった。寒いのか、ずっと両腕を抱えている。
俺は、その小さな肩を見ていた。
望めば与えようと、耳は天に向けていた。
寒さをしのぎたい、雨が止んでほしい、このキツネがどこかにいってほしい。
望めば、与えようと思っていた。
だが、彼女は一言も声を洩らさなかった。
その目が俺を見ることもなかった。雨が止むまでずぅっと、空だけを見ていた。
一時よりも弱まった降りに、彼女はぱっと軒先から出て鳥居を降りていった。しっかりと真ん中を開けて。
久しぶりに、面白いものを見た気がする。
即興小説トレーニングというサイトの、ランダムに出てくるお題「彼女と春雨」30分制限で書いたものを加筆訂正してあります。