1.虚無
それから私は長い間研究室にて様々な実験を行った。
……何回年が変わっただろうか
実験で偶然発見した魔力は暗ければ暗いほど集まる性質があることが分かった。
死体を使った実験も数知れないほど行った。もちろん、時には生身の人間でも行った。老若男女問わず、泣き叫ぶ奴らの手足をちぎったりもした。
世界から死さえなければ私は普通に暮らせる。そう思ってのことだ。
だがそれでも、死から逃れることができていない。
できていない。
できていないのだ。
もはや老いぼれの身になって死が近づいてもなお私は何一つわかっていない。魂を他の肉体に移したところで知性もない肉体。これでは地魔法のゴーレムの劣化版でしかない。
このまま死ぬのだろうか?
死
……死
…………死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
全てを捨てて実験してきたのに、結局能天気に一生を生きてきた人達と同じように老いて死ぬのか。はっはは……笑えるな…………。
拳に自然と力が入るのを感じる。取り敢えず、目の前の作業台に置いてある殺したばかりの青年の死体の中に手を入れ、臓器を手当たり次第に次から次へと力任せに引きちぎりイラつきを解消する。
肝臓
胃
十二指腸
辺り一面に臓物が散らばっているがもはや私の鼻はとうの昔にこの悪臭に慣れ、何も感じない。
しばらくそれで遊んでいたが、結局は何の解決にも至らない。
洞窟に自分の笑い声がこだまする。
もはや笑うしかない。
数々の時間や人を使って何も分からないなんて、これじゃ何のために今まで生きてきたのか殺してきたのかも分からない。
いずれ来る死から逃げようと思い、ろくに笑うこともなかった。
失うものがないように切り捨ててきた私にはもはや生きるための理由もない。死から逃れるような手立ても時間もない。自分の体がそろそろ限界だということも私には分かっている。もういい、死のう……。
たとえ死後の世界がなくても、無駄に考え、傷つくこともないその無が今の私には魅力にすら感じる。
そんな時だった、帝国が隣国からの侵略を受けているという知らせが届いたのは。私は監視から渡された手紙を読んだが、どうやら各魔法系統の最高責任者が皆動員されるようだ。
……ん? 私はいつ最高責任者になったのだろうか。
そんな話は聞いたこともなかったが、おそらく闇系統魔術の使い手に私以外ロクなのがいなくなったのだろう。
昔、闇系統魔術科の聖堂の中で、死体に向かって腰を振り、性欲を発散させていた人を見たことを思い出した。
「……攻めてきた原因は分かるかね」
「ばい、りんごくがぜっとうやらなんやらとなんぐぜをつけているだけみだいです」
監視の新兵は鼻をつまみながら、苦しそうな表情をしていた。隣国が難癖か……。どちらにせよ、理由なんてもうどうでもいい。私にはもう生きる気力というものがない。ここで最後にしよう。
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見渡す限り視界を遮るものもない草原の上で、私の眼球は左方に隣国の軍隊、右方に部下の魔法部隊を映していた。それぞれの頭上に魔法陣が展開されていく中、私は傍観者のようにその間に立っている。敵の情報も味方の情報も、死にゆく私の興味の対象にはなり得ない。
――生死も勝敗も関係ない、帝国に恩を返す為だけに私はここに生きて立っているだから。
今すぐにでも雨が降りそうな曇り空。薄暗い中で光り輝く火、水、土、風など魔法陣を見ていると小さい頃に見た万華鏡の中にいるようで、とても幻想的な気分になった。
その魔法陣の中に大型の光の魔法陣がないことに気づく。だがしかし、私はそのことを考える余裕はなかった。なぜなら、今ここにある全ての魔法陣が私を狙っている。そう、敵はおろか後ろの部下と聞かされた部隊すら私を狙っていたのだ。
「……裏切り」
そう呟いても誰も返事などしない。
私の左目は死体から剥ぎ取った眼球を埋め込んでいる。これはいつも濁っていて物理的なものは全く見えないのだが、それでも人の魂の濁りだけは見ることができる。試しに死体から引きちぎり自分のと入れ替えた時に偶然発見したものだ。
無数の魔法陣が浮かび上がる中から垣間見える魂は、敵のそれも部下のそれもあまりにも揺らぎがなさすぎている。
裏切りではない。こいつらは全て知っている。動揺や恐怖などは一切感じない。つまり、この場は私を処分するためにだけに整えられたということ。
だがしかし例え部下が敵に回ろうとも私には関係がない。
誰一人、私の心の傷にはなりはしないのだから。
各系統の熟練者はそれに合わせて特定の能力を使える。水魔法の使い手なら水、火魔法の使い手なら火を操作できる。つまるところ私の場合は闇を意のままにできる。薄暗い天気なら、私の能力は最高のポテンシャルを発揮することができる。
自分の影を強く踏む。それだけで私の影は波紋のように広がり一瞬にして草原全体に広がる。
「っ?! 皆の者、もはや魔法の威力など考えず、早く発動しろ!」
自分の足元にも広がる影に気がついた部隊長が声を出したが、もう遅い。
私の影は黒い、光ですら飲み込まれるほどの黒。
先程まで草原だった地面は、今では草の形すら認識できないほど凹凸のない黒に染まっている。魔力というものは暗ければ暗いほど引き寄せられるということは、私の研究ですでに明らかになっている。
そして、魔法陣とは、術者の魔力で作られ大気中の魔力を吸収することで強大な力を生み出すための装置である。つまるところ大気中に放たれた魔力を全て影に取り込めば敵を無力化することは造作もない。
先程まで空に浮かんでた無数の魔法陣が次々に消え、今はもう何も残っていない。
気付かずにいたが、どうやら地中や空気に同化していた奴らもいたようだ。
同化にも魔力が必要だが、それを私の影が吸ってしまったのだろう。周囲の地面や空間から、トマトを握りつぶしたかのように、あるいは噴水のように、勢い良く、臓物だったであろう液体が噴き出す。
先程まで動揺が見えなかった兵士たちも今は魂を震わせていることが、左目で見える。
「くそ! 魔法陣は消えるし、新しく魔法を発動しようにも上手くいかない! あのくそジジィの出したこの黒い奴のせいか!」
「ヤッベェよ…もう逃げるしかないぞ! こんなの見たことも聞いたこともない」
「おいおいおい、地面と空間から血が噴き出てるけど…………まさか伏兵の奴らもやられちまったってことか?」
兵士たちの配列は乱れ、逃げ出す者までいた。だが、ここでこいつらを見逃すほど私は甘くはない。
いつか殺されると彼らも分かっていて覚悟している。それが分からない頭でもあるまい。だが、例え覚悟がない甘い考えの者がいたとしても、そいつは尚更殺さなくてはならない。まともな思考が出来ない奴など生きている価値もないのだから。
私はもう一度強く影を踏み込み、命令を出す。
凹凸の無い黒い影。
そこから出てくる無数の手。
先程まで動揺を見せていた人々は、もうそこにはいない。そこにいるのは無数の手に掴まれ、ただヨダレや糞尿を垂らす死体が転がっているだけである。
魂の秤。
私の影には、私の実験で使い捨てにされた魂たちが入っている。その手に触れた生者が、その魂たちに同情、同調、あるいは共感といった感情を抱けば、魂たちは激怒または懇願し、肉体だけを残して生者の魂を影の中に引きずり込む。
生き残るのは何かを犠牲にしても何かを得ようとする者だけ。
先程まで心地よい風が流れ、色とりどりの魔法陣が浮かび上がっていた草原は、今や見る影もない。薄暗い中、人だったものが転がり糞尿の匂いが爽やかに鼻を刺激する草一つない平原になり果てた。