愛する瞼がシャッターを切る。
「アイカメ入れないの?」
口にしてから、これは前にも聞いた気がするな、と思った。
そして案の定、彼はこれは前にも話した気がするな、という顔で答えた。
「ああ、あんまり好みじゃなくて」
私の恋人は、言葉少ななわけじゃないけど、どことなくぶっきらぼうな調子で話す。付き合い始めのころからずっとそうだから、嫌われたわけじゃないと思う。好きな人を相手に素っ気ない態度を取るのはどういう心理なのかしら、分解させて? そう言えば逃げられてしまいそうだから、言わない。私は専門とプライベートをきっぱり分けられる人間だ。
「どういうところが?」
記憶を探ったけれど、この先を聞いた記憶がなかったので、そのまま話を続けることにした。仮にこれが一度行った会話だったとしても、それはそれで問題ない。恋人同士の会話とは、新規性のある情報の交換会じゃない。甘やかなひとときを記憶に留めていないというのは、やや問題かもしれないが。
「あれは、写真とはちょっと違うから」
彼の趣味は写真だ。だから、アイカメもすぐに入れるものだと思っていたけれど、どうも写真家には写真家のこだわりがあるらしい。
「俺は写真を撮るとき、どう見られるかをちゃんと計算する。アイカメはそういうところ、ただ自分の目に映ったものをそのまま残すだけだから」
アイカメ。
eye camera。そのままにもそのまますぎるネーミングだった。装着型端末界に満を持して登場、コンタクト型カメラ。瞼をちゅっと開閉すればあら不思議。コンタクトレンズが情景を記録して、SNSと連動すれば即座にアップロードまで可能。自撮りしたけりゃ鏡を見てね。今最も熱いウェアラブルデバイスだ。
彼と私の年齢はひとつ違う。だけど大学の同期だ。年が上なのは彼の方で、つまり浪人していたのは彼の方。
合格確実と言われた大学受験で、不慮の事故で試験会場にすら辿り着けずに高校を卒業。燃える前から燃え尽きた彼は日がな一日公園の桜を眺めて過ごし、そこで発見したのが写真という趣味だったらしい。
「ふうん」
彼の写真の腕がいかほどのものか、私は知らない。知らない方が上手くいくこともあるし、たまに見せてくれる写真は必ず私の趣味に合う。足るを知るのも重要なことだ。貪りすぎればすぐに尽きてしまうものである。目の前に空になったコーヒーカップのように。
「じゃあ、私はそろそろ行くわ」
椅子を引いて立ち上がる。紙コップをゴミ箱に入れて立ち上がる。今日のノルマはあと論文二本の要約。時刻は三時半。
「俺もそうする」
立ち上がる彼の今日のノルマはいかほどか。口にしたりは決してしない。自分がどれほど頑張っているか、どれほど怠けているか、なんて人から聞かされるまでもなく知っているものだ。無知のままでいるのも恋人の甲斐性というものである。
「アイカメって今、二万切ってるらしいわよ」
「安いとかえって怖いな」
図書館の入口まで、隣り合って歩く。
じゃあ、と挨拶をすれば、私は薄暗い螺旋階段の中を象牙の塔へ吸い込まれ、彼は冷徹な自動ドアに遮断されて寒空の下に放り出される。
木枯らしが吹くようになって、しみじみと寒くなってきた。
首をすくめた彼の後ろ姿を見ながら、風邪を引かないかしら、なんて心配はしない。
その代わり、彼が風邪を引いたなら、女神様みたいに優しく看病してあげるつもりだ。
電機店にいる。
というと話の流れからして、いかにもアイカメを買いに来たかのように思えてしまうだろうけど、目的は別にある。
今日の目当ては加湿器だ。
最近自室の乾燥がひどい。図書館からコピーしてきた論文集が部屋の容積を圧迫しつつあることと無関係ではない気がするが、おおむね冬が来たせいだと思う。ハンドクリームを塗り続けるだけでその他手遊びをする必要がなくなる季節だ。
一つ一つ、真っ赤な字で「安い!」と喧伝された高額商品たちを吟味していく。私の全身をしっとりさせつつ、一方で部屋の紙類をしっとりさせない、そんな具合の加湿器が良い。ついでに部屋の掃除をしてくれたり、ご飯を作ったりしてくれるとなおいい。
残念ながらそれほど高機能なものは存在していなかった。恋人の成長と関係の発展を待つしかなさそうである。
代わりに目を付けたのは、空気清浄機能付きの加湿器だ。何が良いかといえば、その各機能の中に燦然と輝く「花粉除去」の文字が良い。私は冬は乾燥に苛まれ、その他オールシーズンで花粉に苛まれる。四季のある美しい国では色とりどりの苦難が私を襲うのである。
近場にいた店員さんを呼び寄せて、これをくださいと告げる。即決だ。たとえ手にしたものがあまりよろしくなかったとしても、いずれ愛着が湧いてこの世で一番の加湿器になるのだから、どれを買おうと大して変わらないのである。
「色はどうしますか?」
不意打ち気味の質問だった。まさかバリエーションがあったとは。
ぐぐい、と商品表示に顔を近づけて見ると、ホワイトとベージュとブラックの三色。いまいちベージュとブラックを置いたときの自分の部屋がイメージできない。見本品と同じ、ホワイトに決めた。
レジに行くとポイントカードの提示を勧められた。そして残念ながら私はポイントカードという言葉にこの世で最も縁のない人間である。あえなく首を横に振ると、お作りしますか?の親切心。あえて失われるものに手間をかけていただく必要もない。そうするといずれ終わる人生にいかほどの価値があるのだろう、と深遠な問いが水面から顔を出し、もう一度潜っていった。ウニでも捕りにいったのかもしれない。
商品を包んでもらっている間に、一万円以上お買い上げの方はこちらをお引きになれます、と真っ赤な紙箱を目の前に寄こされた。くじ引きだ。店員さんの口調は控えめであり、当たらなくても怒らないでくださいね、という雰囲気がありありと伝わってきた。悲しいくじ引きである。一体だれを幸せにするために生まれてきたのだろう。
無造作に手を入れた。つかんだ。二枚分の感触がしたので、一枚を紙山に戻して、それから引き抜いた。店員さんがすかさずそれを取って、ぺりぺりと開く。
からんからーん、とベルが鳴った。
「ということで、利き目はどっち?」
「強運だな、相変わらず……」
次の日。
昼時の大学キャンパス、その広場のベンチに座って、手に入れたアイカメを見せびらかしてみると思いのほか彼は素直に自分の利き目を調べ始めた。気温は低く、降り注ぐ陽射しは薄く霞んでいる。
「右」
「はい、それじゃこっちね」
言って、私はアイカメの右目の方を彼に差し出す。左目の方は自分の手元に残す。
それから二人、間に置いた説明書を読み込みながら、アイカメを目にはめ込み始める。
「意外だったわ」
私がそう零しても、彼は説明書に釘づけで、無反応だった。反応を欲していた私は、彼の肩をぺしりと叩いた。それでびくり、と彼は私に目を向ける。
「あ、ごめん。なんだ?」
「意外だった、って言ったの。アイカメをやらないことにこだわりがあるのかと思ってた」
「ん……。そういうわけじゃないんだけどな」
歯切れの悪い答えだった。写真とは別物、と言ったのは覚えているし、単に二万円も出してやるほど興味があるわけでもないとか、そのくらいのことだったのかもしれない。
アイカメをはめ込み終わると、今度は端末へのデータ同期設定が待っていた。これもすぐに終わった。二人とも大してメカに強いわけじゃないけれど、このくらいのことならボタンを二つ三つ押すだけだ。難なく終わる。
試しに、一つ瞬きをしてみる。アイカメの使用方法はいたって簡単だ。ちょっと意識をして瞬きをするだけ。それ以上でもなければ以下でもない。本来両目につけるところを二人で分け合っているわけだから、今は瞬きではなくウインクの恰好になるのだけれど。
ちゅっ、と。
ひとつウインク。
端末を見る。
そこには確かに、すっかり葉を散らした銀杏並木の写真が映っている。このベンチから見える大学の景色だ。
「おお」
「すごいな」
ちゅっ、と隣で彼もひとつウインクする。
そして端末に表示されたのは、私が撮ったのと同じく銀杏並木。
「あら」
「やっぱり個人差が出るな」
同じ風景を撮ったはずなのに、ずいぶんと印象が違った。
座る位置の多少のずれもあるのだろうけど。
「何が違うのかしら」
「視点の置き方の問題だな。似たような構図だって、たとえば敷かれた落ち葉に目を向けるか、葉の落ちた枝に目を向けるか、並木の向こうの空に目を向けるかで印象は違ってくる」
「ふうん」
なるほど。頷いて端末の写真を見比べてみる。私はどちらかと言えば並木道の構造に、彼は冬枯れの枝に目を向けているように思える。
自分の目に映ったものをそのまま残す。
彼がアイカメを評したときの言葉だ。それが今になって理解できる。自分が無意識に注目しているところにそのままピントが合ってしまう、ということだろう。
むくり、と好奇心が湧いてきた。
ちゅっ、と。
「こら」
気付かれてすぐに顔を手で隠される。
「いいじゃない。一枚くらい」
彼の横顔を撮った。
彼は時折、私のことも写真に撮る。出来上がったそれはいつも静物写真のような寂しさを纏っていて、私はそれが好きだったのだけれど、一方で私から彼の写真を撮ったことはない。
「苦手なんだって」
とのことだ。
しかし人のことは撮っておいて自分は嫌、というのもわがままな話である。
「私のことも撮っていいわよ」
「いや、そういうことじゃなくて」
「撮っていいわよ」
これは興味の話である。
確かに彼の言ったとおり、アイカメでは撮影者の意識がそのまま映る。ならアイカメで撮った私の写真というのは、つまり彼の目から見た私の姿そのもの、ということである。
彼はひとつ、諦めたように溜息をつく。
「一枚だけな」
そういって、不意打ちにちゅっ、と瞼を閉じた。なのでうっかり顔を作る時間がなかった。
かさついた唇とかに注目されてたらどうしようかしら。あるいはどうしてくれようかしら。考えている間に彼は端末を操作する。
そして、眉間を押さえて頭を抱えた。
「悪い、撮り直す」
「一回性を大事にしましょう」
手を伸ばす。
彼は私の指先と端末画面の間で、未練がましく視線を往復させる。
「ん」
「……はい」
これは興味の話である。
たとえそこにどれだけ陰険で冷淡で性格の悪そうな人間が映り込んでいようと今後の関係に影響を及ぼしませんと白空に紛れた昼の星に誓いを立てながら、端末を受け取る。
そして、見た。
「……ねえ、ちょっとこれ」
「言うな。……言わないでください」
そこには少女が映っていた。
そこにはいつも彼が撮る私の姿はない。純然たる少女が映っていた。恋愛映画の主役でも張りそうな、儚げで、美しい少女の姿が映っている。
それは実際に私がそうという話ではない。
彼の目に、私がそう映っているということである。
二十を超えた、ごく普通の、どちらかと言えば理屈っぽくて面倒くさいこの色気のない女が、彼にはこのように見えているということである。
「へえー……」
「だからアイカメは嫌だったんだ。俺ひとり、浮かれた恋愛馬鹿みたいじゃないか……!」
言わんとすることはよくわかった。
私たちふたりはややドライだ。だった。付き合い始めた当初から、時間を共有することこそ多かれ、必要以上にべたべたするような関係ではなかった。
意外な事実が発覚してしまった。
思った以上に恋されている。
落ち込む彼。
確かに私も逆の立場だったら恥ずかしくなるだろう。
淡泊と見せかけていた化けの皮が否応なしに暴かれて、これまで平静を装っていただけというのがバレてしまうのだ。相手からしてみればこれほど楽しいことはない、という外道的感想も浮かんでくるが、しかし一方私も茶匙一杯分くらいの優しさは持ち合わせている。
「今度は私の番ね」
ついさっき、私が先に撮った写真のことだ。
まだ見せていなかったそれをさっと見せて、さっと話を流そうと考えたのだ。
端末を落ち込む彼の目の前に見せつけるように掲げてあげて、少しだけ操作する。
「え」
「あ」
そして、そこには青年が映っていた。
浮かれた恋娘が見る白昼夢のような、美しい横顔の青年が。
沈黙。
私がゆっくりと端末を掲げていた手を下ろし、足元の雀がちゅん、と飛び立ち、講堂の大時計がひとつ長針を進めたころに。
私と彼は向き合って。
無言のまま。
ちゅっちゅっちゅ。
ちゅっちゅっちゅっちゅ。
ちゅっちゅっちゅ。
と。
大学の往来で、瞼でキスし合う、バカップルが誕生してしまった。