歪な白い牢獄
廻る、廻る、ぐるぐると廻る。
廻っているのは世界か――、私か――。
目を開ければ、何処か見覚えのある真っ白な天井が映った。私は眼球だけを動かして、辺りを見回した。そして気付いた。白いのは天井だけではない。部屋全体が、真っ白だ。扉、壁、ベッドのシーツ、カーテンに至るまで、全て白で統一されている。左腕には、針が刺さっていて、そこから管が伸びている。ベッド脇の棚に、一輪の赤い花が花瓶に挿さっている。その花だけが、この部屋を鮮やかに彩る。この花の名前は何というのだろう? 穢れのない白い空間に、私一人が不釣り合いに思えた。太陽の光は遮断され、人工的な明 かりが部屋を照らしている。
どうしてこんなところにいるのか。考えても全く思い出せない。でも、私はずっとここにいる気がする。
「おはよう。気分はどう?」
扉が開き、一人の男性が入ってくる。歳はおそらく、二十代前半から半ばだろう。背が高く、色素の薄い髪をしていて、穏和な雰囲気を持つ男性だ。その人はこちらに向かって来て、ベッドに腰掛ける。そして私を支え、ゆっくりと起こしてくれた。身体が重く、酷く気怠い。私はどのくらい眠っていたのだろう。
「何か覚えていることはある?」
私は、静かに首を横に振った。何故か、何も覚えていなかった。思い出そうとすると、米神の辺りがじくじくと痛む。所謂、記憶喪失ってやつなのかもしれない。
「そう、事故の後遺症なのかもしれないね」
事故? 私は不思議に思い首を傾ける。男が私の髪を撫でる。それから私の欠けている部分を教えてくれた。
「お前の名前はリオだよ。果物の梨に桜で、梨桜って書くんだ」
梨桜――?
私は、その単語を飲み込んだ。自分の名前らしいのに、私の中に馴染んでこない。知らないものに聞こえる。奇妙な感覚だ。
「そう、梨桜だよ。お前は交通事故に遭って、今まで眠っていたんだ。記憶がないのは、その後の遺症ってことになるのかな」
私は交通事故に遭って、記憶をなくした。彼の言葉を、頭の中で反芻する。だから両足に、ギプスが巻かれていて動かないのか。シーツ越しの、自分のものとは思えない、感覚が切り離されたような足を見た。
「俺の名前はシズトだよ。静かな人と書いて、静人」
静人――。
私は声を発せず、唇を動かした。何だかよく分からないものが、胃から競り上がってくる。私は、思わず、手を口で押さえた。
「大丈夫?」
彼が私の背中をさする。すると気持ち悪くなったのが、多少は楽になった。私は暫くして、こくりと頷いた。その後、彼が私をベッドに横たえる。横になった私を、彼は上から覗き込む。彼の影が私を覆った。色素の薄い瞳と視線があったけど、なんとなく私は逸らした。
「目が覚めたばかりだし、無理はしなくていいよ」
「あの……、私はどれくらい眠っていたのでしょうか。それに、私と静人さんの関係って――」
私は戸惑いがちに、聞いた。彼は私の家族なんだろうか。歳はそう離れているようには見えない。だとしたら兄だろうか。
「静人でいいよ。前も静人って呼んでいたしね。それから敬語も」
「あ、うん」
「眠っていたのは一ヶ月くらいかな。俺と梨桜は家族だよ。家族と言っても、梨桜と俺は直接血が繋がっているわけじゃないけど。梨桜のご両親が幼い頃に亡くなって、親戚である俺の家に引き取られたんだ」
では私は今、現在進行形で親戚だという静人の家で世話になっているのか。そう思ったら、急に申し訳なくなった。
「迷惑かけてごめんなさい」
「言っただろ? 俺と梨桜は家族なんだから、迷惑だなんて思ってないよ」
静人の大きな手が、私の額に置かれる。この感覚は、初めてではない気がした。以前にもあったのだろうか。記憶はないが、感覚は確かに覚えているようだ。
「あの、静人のご両親は?」
「何だか他人行儀だね。記憶がないから仕方ないのかもしれないけど。俺の両親は、外国に行っているんだ。今――、前かな。俺と梨桜は二人で暮らしていたんだよ」
だから、唯一の家族として彼が来てくれたのか。私は納得した。
「他に聞きたいことはある?」
聞きたいこと――私は考え、ゆっくりと口を開いた。静人は一つ一つ、私の質問にきちんと答えてくれた。私の歳は二十一歳で、大学生らしい。その大学の帰りに事故にあった。それからずっと眠っていたらしい。私がたどたどしく喋っている間も、彼は急かさずに黙って静かに聞いてくれた。その時、静人という名前は、彼にぴったりな名前だと思った。
「自分のことを知って何か思い出したことはある?」
「何も。ごめんなさい」
私は申し訳なさそうに、もう一度謝る。
「いいんだよ、気にしなくて。ゆっくり思い出せばいい」
今日は、何月何日だろう。何もかも、分からないことばかりだった。まるで生まれたての赤ん坊のようだ。
「このまま目を覚まさないんじゃないかって、心配していたから。良かった」
全く実感が湧かない。自分が事故に遭ったのも、一ヶ月も眠っていたのも。それから記憶がないのも。自分のことなのに、他人事のように感じる。自分で自分が、分からない。
「私はこれからどうしたらいいのかな」
「まずはゆっくり身体を休めな。後のことはそれからだ」
私の両目を、静人の手の平が覆った。視界には闇が広がる。眠れということなのだろう。
「お休み、梨桜。良い夢を。また来るよ」
静人が帰った後、私は目を開けた。暗闇から一転して、相変わらず、ここは白いままだった。静人のことを考える。彼が優しい人で良かった。私は彼の家に引き取られたらしいから、彼は兄のような存在だったのかもしれない。
どうして私は、記憶を失ったのだろう。本当に事故のショックだけでなくなるものなのか。強く頭を打ったりしたのだろうか。それとも別の何かがあるのか、いくら考えても何も思い出せない。色々、思考にふけっていたら、眠気が襲ってきて、私はそのまま眠りの世界へと誘われた。
次の日も静人は会いに来てくれた。
「気分はどう?」
昨日と同じように静人は、私がいるベッドに腰をかける。優しげな瞳で、私の顔を覗き込んできた。その端正な顔立ちに見つめれると、頬が熱くなった。家族相手に頬を染めるなんておかしい話だけれど、今はあまり実感が湧かないのだから、仕方がない。
「身体は大丈夫。足は動かないけど」
私は苦笑を漏らした。足以外はいたって健康なようだ。後はずっと眠っていたせいか、少し身体が軋む程度だった。
「記憶は? 何か思い出した?」
昨日、記憶について考えていたらうっかり眠ってしまった。そして目を覚ました後も、静人が来るまでそのことについて考えていたが、何の成果もなかった。脳が記憶を取り戻すことを、拒否しているのだろうか。
「何も。色々、考えてみたんだけど、思い出せない」
私は首を振った。早く思い出さなければいけないと分かってはいるが、私の脳は、全く私の焦りについてこない。
「そう。それだけショックが強かったのかもしれないね。身体が大丈夫なら良かった」
静人の手には、一輪の花があった。初めて目を覚ました時に見た、朱い花と同じものだ。
「気になる?」
私がまじまじと見ていたからだろう。静人が問いかけてくる。
「綺麗だね。静人が好きな花?」
「どうかな。嫌いじゃないけど、好きでもないな」
花瓶から古い花を抜いた。もしかして――
「私が好きだった花?」
「それは梨桜自身で思い出した方がいいよ」
花瓶を持って、静人が病室を出た。水を替えにいくのだろう。
戻ってきた彼の手には、花瓶に挿した一本の花があった。やはりその花には見覚えがある。でも思い出せない。静人の花を見つめる瞳が少し怖い。違うものを見ている気がして、何か底知れぬものを感じたのだ。静人が顔をあげれば、目があった。彼の目に映る私の顔は、少し引き攣っている。それを見たくなくて、私は自然に目をそらした。
「どうかした?」
静人が私の変化に、目敏く気付いた。
「ううん、少し疲れたのかも」
「まだ本調子じゃないのかもね。俺は帰るから、ゆっくり休みな」
私は静人の言葉通りにすることにした。ベッドに身体を横たえる。静人はそれを見届けて、立ち上がった。
「またね、梨桜。良い夢を」
静人の口癖なのだろうか。昨日も同じことを言っていた。私は深く考えず、眠ることにした。
鈍色の雲に覆われた藍色の空からは、ぱらぱらと小雨が降っている。コンクリートで舗装された歩道、白いガードレール、信号は赤色だ。何かに怯え逃げるように、髪を乱し裸足で走っている女の子。見覚えがある。私だ。足の裏には無数の小さな傷が出来ていて、地面を蹴る度に痛んだ。だけど、逃げないと、という想いが私の中に流れ込んでくる。私が車道を渡ろうとしている舗道の横側からは、トラックが来ている。
――危ない!
夢の中の自分に向かって、私は叫ぶ。トラックのライトに照らされる。次の瞬間、クラクションの大きな音が耳を裂いた。
「……っ!」
目を開ければ、昨日と同じ天井と静人の顔が視界に入る。かなり汗を掻いていて、服はびっしょりと濡れている。私は痛む頭を押さえながら、身体を起こした。妙に生々しい夢だった。否、あれは本当に夢?
「大丈夫? 随分と魘されていたようだけど」
静人が私の頬を撫でる。その体温に私は安堵した。良かった、これは現実だ。
「夢を見たの。事故に遇う夢。私の記憶なのかな……」
ぽつり、ぽつりと私は、今見ていた夢の内容を話し出した。
「雨の日の夜――。私は何かから逃げるように、必死で走っていて……横断歩道を渡ろうとしたら、横からトラックが来て――そこで目が覚めた」
それを静人に伝えれば、彼は顔を歪めた。少し静人が考えるように、指を顎に当てる。その後、口を開く。
「そう、そんな事が。……梨桜は事故に遭う少し前から、何かに悩んでいるようだったから。もしかしたら、その事と関係あるのかもしれない」
何かに悩んでいた? 何が私をあそこまで追い詰めたのだろう? その何かから逃げている最中に、事故に遭ったのだろうか。その事を忘れたくて、記憶を閉じ込めたのだろうか。私はただ事故に遭って、記憶をなくした訳ではない? 考えれば、考えるほど、私は混乱した。
「私は何に悩んでいたのかな」
「それは俺も知らないよ。梨桜は何も言ってくれなかったから」
彼に心配を掛けたくなくて、私は相談しなかったのだろうか。それとも別の理由があるのか。
「ごめん、何も出来なくて」
静人が両手で私の手を取った。彼の顔の前で、強く握る。彼の顔は俯いていて、表情は見えない。
「静人のせいじゃないよ」
それでなくとも静人の家庭で世話になっているらしいのに、事故に遭って入院までして、どれほどの迷惑をかけているのか計り知れない。けれど今の私にはどうすることも出来ない。足は動かないし、ほとんど何も覚えていないのだから。
「私こそ、ごめんなさい。早く足が動けばいいんだけど。私の足、いつになったら動くのかな」
私の手を握る、静人の手の力がより強くなる。短い爪が食い込んで、少し痛い。
「大丈夫、折れているだけだからすぐに動くようになるよ」
静人が諭すように言った。彼が大丈夫と言うなら、大丈夫なんだろう。それから他愛のない話をして、静人はまた笑って「またくるよ」と言って帰っていった。
病院では、特に不便な事はなかった。病室の外に出たい時は、ベッドの頭上にあるボタンを押せば、看護師だと思われる人が来て、車椅子に乗せてくれる。外には、出してくれないけど、お風呂や御手洗いに行けるし、病人食もそこそこ美味しかった。一日朝夕二回、白衣を着た人が私の病室を訪れて、軽い問診に来るのは少し憂鬱だったけど。何回も同じようなことを聞かれるので辟易した。いつも「何か思い出しましたか?」と問う。私は「特に何も」と答える。それからいくつか質問をして、私の病室を後にする。同じことの繰り返しだった。それ以外は特に何事もなく、ただ時間だけを浪費する日々だった。こんなことしていていいのか。静人に聞けば、彼は「ずっと眠っていたからまずは体力を回復させないとね」と言った。何だかはぐらかされたような気がしたが、入院なんてしたことが多分なかったし、こんなものなのかな、と思った。
「今日は、とても良い天気だよ」
今日もまた、静人が来てくれた。これで来るのは何度目になるのだろう。静人が、唯一の窓を開ける。外からは爽やかな風が吹き抜ける。私の足はまだ動かないから、ベッドの上からの景色しか見えない。四角い切り取られた窓をから、見えるのは澄み渡る碧空だった。
「風が気持ちいいね。早く歩けるようになりたいな。そうしたら、外に出てもいいんだよね」
「そうだね。歩けるようになったら、梨桜は何処に行きたい?」
私は少し考える。だがいくら考えてみても、答えは同じだ。
「分からない。私は何が好きだったのかな」
静人の声のトーンが、一段下がったような気がした。何か失言をしてしまったのだろうか。静人は窓の側に立って、私に背を向けているので、どんな表情をしているのかは分からない。
「あの……静人は今、何をしているの? 学生? それとも働いているの?」
話題を変えるように、出来るだけ明るく務めた。私自身のことは教えてくれるけど、よく考えたら彼のことはあまり知らない気がするから、彼のことを知りたいと思った。
少しの沈黙の後、静人が振り返った。陽の光に照らさられた淡い髪が煌めく。彼の表情は、逆光で見えなかった。
「ごめん。まずは自分のこと思いださなくちゃだよね」
「俺のことは梨桜自身で思い出して欲しいな」
「そうだね。そうする」
私は俯いた。静人は結局、私の質問には答えてくれなかった。
「私には、友達とかいなかったのかな?」
私が目を覚まして以来、静人以外誰も来ないし、彼以外に見たことのある人間は、病院の人間だけだった。その人達も淡々と私の世話をするだけで、話掛けるのも気が引けた。
義両親は仕事が忙しくて、今は来れないのだと静人が言っていた。迷惑をかけてしまっているから、謝りたかったけど、仕事なら仕方ない。
けれど毎日毎日、閉じられた長方形の部屋に、静人が来るだけの日々に、そろそろおかしくなりそうだった。
「どうかな。俺は梨桜の交友関係は、あまり知らないから。一人だけ知ってるけど……もしかしたら梨桜がこんな事になってるの知らないのかもしれないよ」
その子は今、どうしているのだろう。どんな子なのだろう。少し興味が湧いた。
「……記憶を失くす前の私ってどんな人間だった?」
「努力家で気が強くて、自分の決めたことは絶対に突き通す子だったよ。それに――」
異様に含みを持たせる言い方だった。以前の私は、今の私とは正反対だったらしい。
「とても優しかったかな。悪く言えば、絆されやすい」
にこりと笑う静人に、また底知れない恐怖を抱いた。これ以上この話を続けたくない。
「いつになったら退院出来るかな」
「ここから出たい?」
ここは、不便はなくてもとても退屈な場所だった。何もすることがなく、一日中ベッドに寝そべっているだけだ。それにあまり、ここは好きではない。鼻につく薬品の匂いや、食後毎の薬、気がおかしくなるほどの白い部屋。けれどそれは静人には、言わない方がいい気がする。
「とても退屈なの。何か暇を潰すものがあればいいんだけど……」
出たいとは言わなかった。この答えは、間違ってはいない。誰かが囁く。
「分かった。次来る時は暇を潰せるものを持ってくるよ」
「ありがとう」
そして私もにっこりと笑った。背に汗を滲ませながら。
静人と会えば会うほど彼の事が分からなくなる。優しく笑ったと思ったら、感情の籠らない瞳を私に向けたり。初めは優しいと思っていた静人に、少しずつ違和感を抱き始めていった。何かがおかしい、と。
――静人はどうして、私に毎日会いにくるのだろう? 家族だから? どうしてそんな瞳をするの? 私が悪いの? 間違っているの?
それを静人に聞いても教えてはくれないだろう。だったら、自分で思い出すしかない。けれど、本当に思い出していいの? 後悔しない? 私の中にいる自分が問いかけてくる。後悔するようなことがあるの?問いかけても答えは返ってこない。誰か教えて欲しい。同じ問答の繰り返しで、また振り出しに戻る。結局ここには、私一人しかいない。
両手いっぱいに、朱い花を持った少女が嬉しそうに微笑んでいる。
そうだ、今日は私の誕生日だった。そして静人が誕生日プレゼントにと、香りの良い綺麗な花をくれたんだ。私は嬉しくて、何度も何度も静人にお礼を言った。静人は照れくさそうにしていたけれど、まだ笑っていた。
場面が切り替わる。クリーム色の壁紙、白で統一された家具、花柄のベッドカバー、赤いカーテン、女の子らしい部屋だ。その中に、私はいた。机の上には、朱い花が挿さった花瓶がある。私はそれを悲しそうに見ている。
どうしてあのままじゃいられなかったんだろう。あのままじゃ駄目だったんだろう。あの頃のままでいられたら、私も静人もこんなになることはなかったのに。
――それは本当に?
眼を覚ませば、頬が濡れていた。泣いていたみたいだ。どうして泣いていたのだろう。朧気だったけど、何だか悲しい夢を見ていたような気がする。
視界に入った一輪の朱い花。この花には、見憶えがある。枯らさないように、静人が定期的に替えている花だ。この花に込められた想いは、何なのだろう。そう思い手を伸ばしたら、バランスを崩しベッドから落ちた。這い上がろうとするが、足はまったく動かない。力が入らない。おかしい。折れているだけなのに、こんなに力が入らないものなのか。ギプスが巻かれている足を、私は見た。
「何をしているんだ?」
「え……?」
開いた扉の前に、静人が立っていた。冷たく通る声に動揺を隠せない。静かな怒りを含む声に、私は反射的に震えた。
「何処に行こうとしたんだ?」
どうしてそんなに怒っているの? 今の私は逃げないよ、逃げれないよ。逃げるって何から? どうしてそう思うの? 私の感情ではないものが、内から湧き上がる。この感情は誰のものだろう。
「花を……、花を手に取ろうとしたらバランスを崩して落ちただけだよ……」
私の言葉に、静人は平静を取り戻したようで、床に這いつくばっている私を、軽々抱き上げてベッドに下ろした。そして静人もベッドに腰掛ける。まだ心臓が激しく脈打っている。それを鎮めるために、私は口を開いた。
「その花、見覚えがあるの……。昔、静人がくれた?」
花瓶の花を指さす。声は震えていないだろうか。きちんと笑えているだろうか。微かに取り戻した記憶が確かなら、間違ってはいないはずだ。
「思い出したんだ?」
静人が私の顔を覗き込む。ゆっくり髪を掻き上げる大きな手の平は、酷く冷たかった。
「なんとなくだけど。私、それが嬉しくて――。また欲しいな。両手いっぱいの朱い花」
そうすれば、何故あんなに悲しそうな瞳をして花を見つめていたのか、思い出せるかもしれない。
「じゃあ今度、持ってくるよ」
静人が、私の企みに気付いていたのかは分からない。次の日、彼は約束通り、両手いっぱいの朱い花を持ってきてくれた。けれど、私は何も思い出せなかった。その花の花言葉はなんだったのだろうか。昔、静人に教えてもらった気がするのに、全く思せない。
ベッドに身体を預けたまま、上へと手を伸ばす。掌を握りしめても何も掴めず空虚だけがある。
布団を被りベッドに潜り込み蹲る。空が見たいと思った。この陰鬱な気分を振り払ってくれるような、澄み切った青い空が。唯一、外へと繋がる四角に縁取られた窓にさえこの足は届かない。扉には鍵が掛けられてある。それに私は、最近、気付いた。鍵なんてあって、もなくても同じだ。私は一人では歩けない。
暫くそうしていたら、靴音がした。閑散とした切り取られた場所に、唯一響く音。きっと静人だ。何をするでもなくベッドの上でほうけていたら、いつのまにかもうそんな時間になっていたようだ。でも今日は会いたくない。感傷的になっていたのかもしれない。おそらく大分長い時間ここにいるのに、重要な記憶ほとんど思い出せないし、足も全く動かない。だから私は眠っている振りをすることにした。暗闇に揺蕩う中、足音はどんどん大きくなっていく。扉が開く音がする。足音は私の側に来ると、ぴたりと止んだ。
「眠っているのか?」
問いかけてくる静人の声。私は何も返さない。髪を撫でられる。その手はゆっくりと瞼、頬、唇、顎へと下りていく。擽ったくて、眼を開いてしまいそうになる。そして首まできた。再び撫でられたと思ったら、気管が圧迫された。息が出来ない、苦しい。このまま静人に殺されるのかな。
何故か、唇に柔らかい感触が降ってきた。私は驚愕に目を開きそうになった。どうしてそんなことするのか聞きたかったが、静人を見るのは怖かった。暫く視線を感じた後、遠ざかっていく足音を聞いた。
綺麗に整頓された、広さの割に物が少ない部屋。モノクロで統一されたそこは、少し物悲しく感じる。そこで私は大きなベッドの上で、男の人に抱き締められている。男は静人だった。もしかしたら、ここは静人の部屋なのかもしれない。静人は痛い程、私を抱き締めながら、何か言っている。私はといえば眠そうに、抵抗もせず、されるがまま遠くを見ている。そして静人は私にキスをした。
どうして静人は、夢の中でもキスをしたのだろう。私と静人は恋人同士だったのだろうか。私の胸は高鳴るどころか、これから先に起こることへの不安しかなかった。
「私は静人のことが好きだったの?」
いつもの時間というには、少しおかしいかもしれない。この白い空間に、時計はないので時間は分からない。だがなんとく静人は、いつも同じような時間に、私に会いに来ている。
「どうしてそう思った?」
部屋の温度が、急激に冷えていく。それでも静人は真っ赤な林檎を、果物ナイフで器用に剥いていく。今日は静人が、お土産に林檎を持ってきてくれた。瑞々しく赤く熟れた林檎から、発せられるリズミカルな音だけが、静寂に満ちた部屋に響く。その赤色と銀色には見覚えがあった。どこで見たのかまでは分からないけれど。
「はい、出来た」
そう言ってお皿の上に乗せられた林檎は、上の部分だけ皮が残されていて、その皮は中心から切れ目が入って二つに避けている。
「昔、好きだっただろ? 林檎のウサギ」
そんな事言われても、私には分からない。今の私は覚えていないのだから。はぐらかされたような気がする。だからこれは聞いてはいけないことなんだと理解した。
「……ありがとう」
林檎のウサギを手に取り、口元に持っていく。一口齧ると程よい甘さが口内に広がった。それから機械的に口に入れて、一つ目の林檎のウサギを完食した。その間、静人はずっと私を見ていた。笑みを浮かべ、底冷えのする瞳で。
「口元についているよ。いつまで経っても、お前は子供だね」
唇に伸びてくる手に、私の肩はびくりと跳ねた。そして細くなる双眸。
「どうかした?」
穏やかな声音なのに、静かに責められている気がした。
「ううん、ちょっとびっくりしただけ」
震える喉を押さえ込み、無理矢理唇は笑みを形造る。大丈夫、まだ大丈夫。そう自分に言い聞かせた。何が大丈夫なのかは知らないふりをした。
「そう良かった」
静人の顔は怖くて見れなかった。
誰かが泣いている。足から血を垂れ流し瞳には憎悪を燻らせ。
誰かが笑っている。銀色を手に携え瞳には狂気を宿らせ。
息が出来ない、泣きたい、苦しい、辛い、壊れる、壊れていく。何もかも黒になるーー、否、白へ……?黒と白はぐるぐると混じりあい、やがて違う色になり、灰色の世界を形造っていく。
――夢から覚めるの?
全てが灰色に染まっていく中、声が聞こえた。淡々たしている無感動な声だ。
(夢って何?)
私は声に答えた。夢から覚めないでとどういうことだろうか。今見ているのが、夢ではないのか。
――本当にいいの? 後悔しない?
声の主は何度も確認をしてくる。私に記憶を取り戻して欲しくないように感じる。
(……でも何も分からないままは不安だから。私は本当のことが知りたい)
もうすぐで、全て思い出せそうなのだ。この胸に巣食う、違和感の正体を突き止めたい。
――そう。覚めてしまえば、辛いことしか待っていないのに。
それっきり、声は聞こえなくなった。何だったのだろうか。肝心なことは教えてくれず、疑問だけが残る。でも、とても聞き覚えのある声だった。それはいつも聞いていて――? いや、発していた。
そうだ、あれは私の声だ。何だそういうことだったのか。
そして私は世界を取り戻す。
唇から音を紡ぐ。不規則で、歪で、誰も知らない唄。それは空気を震わせ、彼の耳にも届いたようだった。
「今日は随分機嫌がいいな。何か良いことがあった?」
優しく静人が問いかけてくる。私も彼に、微笑み返した。
「ねえ、私、全て思い出したの。私の話、聞いてくれる?」
そう、思い出したのだ。ここが何処で、私が誰で、どうしてここにいるのか、静人は私にとって、何なのか。私は、全て思い出した。
「いいよ。話してごらん?」
私の両親は幼い頃、事故で亡くなって、親戚だった静人の家に引き取られた。そこまでは静人の言う通りだ。静人に会ったのは、私が五歳の時で、彼は七歳だった。
「静人。梨桜ちゃんよ。今日から、あなたの妹になるの」
後ろに隠れている私の背中を、義母が押す。その頃、私は突然、両親を失った悲しみで、とても暗い顔をしていた。あまりよく知らない人たちのところで暮らすことになって、不安しかなかった。上手くやっていけるのだろうか。迷惑をかけないようにしなくては。そんなことばかり考えていた。
「よろしくね、梨桜ちゃん」
手を差し出される。私より、僅かに大きな手。けれど子供の手だ。私が恐る恐る手を出せば、男の子がしっかりと握ってくれた。
「……よろしく、おねがいします」
男の子が微笑む。けれど私は笑えなかった。
新しい家族は、私が本当の家族ではなかったのに、優しくしてくれた。義両親は、忙しくてあまり家にいなかったけれど、私をきちんと気にかけてくれた。学校は転校することになった。静人と同じ学校だ。
「梨桜ちゃん。こっちだよ」
私の腕を力強く引っ張ってくれる静人の後を、私は必死で追い掛けていた。静人は勉強もスポーツも出来て、それに優しくて、同級生の子達からは羨ましがられた。私も直接的な血の繋がりはないけど、自慢の兄みたいに思っていた。だが時々、完璧な彼がつまらなそうな、寂しそうな顔をしていたのを私は知っている。彼は大病院の跡継ぎで、両親の期待を一身に背負って生まれてきたようだった。彼もそんな両親に幼いながらも、一生懸命答えようと虚勢を張っていたのだろう。
「ねえ、静人くん。どこに行くの? こっちは帰り道じゃないよ」
学校からの帰り道、目の前の背中に私は問いかける。静人は、まだ慣れない道を通う私を気遣ってか、いつも帰りに迎えに来てくれた。朝、登校する時も一緒に行ってくれる。
「別に。どこでもいいよ」
その間も、静人はどんどんと先に進む。私は置いていかれないように、必死で追い掛けた。
「でも帰って勉強しないと怒られるよ。先生、今日も来るんでしょ?」
先生とは、静人の家庭教師の先生のことだ。静人は私と違って、様々な習い事をしていた。
「うるさいなあ。一人で帰れば?」
初めて聞いた不機嫌そうな声色だった。いつもにこにこ笑っている、彼からは聞いたことがないものだ。私は一瞬怯んだけれど、それでも譲らなかった。
「駄目だよ。静人くんも一緒に帰ろう」
彼に走って追いついて、私はその腕を引く。彼は、煩わしそうに私を見た。
「何良い子ぶってるの? そういうの鬱陶しいんだけど」
「そんなことしてないよ……。でも、早く帰らないとお父さんもお母さんも心配するし――」
「心配? いつも家にいないのに?」
義両親は、家を空けることが多い忙しい人達で、大体は静人と二人きりのことが多い。私に不満はなかった。行く場所のない私からすれば、置いてもらえるだけでありがたかった。
「それはそうだけど……。でもそれだって静人くんのためなんでしょ」
「何なの、お前。本当の家族でもないくせに、分かったような口を聞くなよ」
静人の瞳が冷たく凍り、私は下を向いた。
「……ごめんなさい。おじさんとおばさんは、本当の家族だから。私がいなくなっても何も思わないかもしれないけど、静人くんのことはきっと違うよ――」
ぎゅっと彼の腕を握る。自分で言っていて、少し悲しくなった。
「――分かった。いいよ、今日は大人しく帰ってあげる」
私は顔を上げた。その時の彼の表情を、私は忘れない。唇の端だけを吊り上げた笑み。面白い玩具を見つけたような残酷な笑顔。小学生の笑い方では、なかった。
静人が両親に逆らおうとしたのは、一回きりだった。その後は、従順だった。変わったのは、私に対する態度だった。それから静人は私だけに弱さを見せてきた。誰も知らない彼を知った子供の私は秘密が出来たみたいで嬉しくて、私だけに我儘を言ってくる静人を存分に甘やかした。それがいけなかったのだろうか。
私が中学生になったくらいから、静人は少しずつ変わり始め、小さな我儘は横暴さに変化し、徐々に私に目掛けて降り注ぐ。
部活に入って帰りが少し遅くなると、静人は心配して迎えに来た。それだけなら妹を心配する良き兄に見えたかもしれない。けれど友達と遊びに行く時だって一々、何処に行くのだとか誰と行くのだとか、何時に帰るのだとか聞いてきた。私には静人が何故そこまで干渉してくるのかわからなかったし、鬱陶しくも思った。でも私は静人と本当の家族ではないし、こんな事で家を追い出されでもしたら、路頭に迷うしかない。だから渋々了承していたのだけれど、そこから彼の執着が始まった。
それは私が中学二年生になった時。初めて彼氏が出来た時の事だった。彼は一つ年上の、同じ部活の先輩だった。普段は大人っぽいのに、笑えば少年のように幼く見える人だった。その日、静人はいつになく苛々していた。私も彼との約束があるのに、静人は家から出してくれないしで、苛々していた。私は刻々と迫る時間に、思わず声を荒げた。思えば、静人に逆らったのは、これが初めてかもしれない。
「友達との約束があるの! 離して!!」
携帯の時間表示を見る。約束の時間まで、あと十分に迫っていた。静人は、掴んだ私の腕を離してはくれない。ぎりぎりと締め付けられる腕に骨が軋む。
何が友達だよ。あの男のところに行くんだろ? だったら離さない」
淡々と話す静人に恐怖を抱く。どうして男の人だと知っているのか。私は、静人には何も言っていないのに。焦れる私が静人の腕を振り払おうすれば、腕を引かれ、抱き締められる。たまに頭を撫でられたり、頬に触れてきたりと、無邪気な子供のような触れ合いはあったが、こんなに激しく求められるような抱擁は、初めてだった。
「絶対に行かせないからな」
そう言って縋るように抱き締めてくる静人は、年上の筈なのに、随分と幼く見えた。私はそっと彼の背に手を回し、その背を撫でた。
「分かった。もう行かないから離して。痛いよ」
私を解放した静人が、恐る恐る顔を覗き込んでくる。その眼は不安定に揺れ、でもぎらぎらと獲物を逃さないとする、獰猛な獣のような瞳をしていた。もう逃げられないんだな。私は何処か他人事のように思った。でも、この人を一人にはしておけない。そして、私の初恋は終わりを告げた。そんなことで壊れるのだから、所詮そこまでのものだったのだろう。
私は高校生になった。静人の希望で、私は女子校に通っていた。静人がいる限り、私には恋人は作れない。そこで友達が出来た。彼女の名前は由依といって、明るくて、可愛くて、クラスの人気ものだった。あまり人と関わらないようにしていた私にも、積極的に話しかけてくれる。周りは、私を遠巻きに見ていた。色々と、扱いづらかったのだろう。初めはどうすれば、いいか戸惑っていた私だったけどその内、自然と打ち解けていった。
「梨桜、今日は一緒に帰らない? ついでに何処か寄ろうよ」
空が赤く染まる、放課後。ホームルームが終わり、教室にいた生徒たちは、どんどん帰っていく。私も帰る支度をしていたら、由依が私の所にきた。私は、どうしようか悩んだ。静人には寄り道をしないで、真っ直ぐ帰ってくるように言われていたから。
「……うん。一緒に帰ろう」
少し迷ったが、私は由依の誘いを了承した。由依は同性だし、そんなに遅くならなければ大丈夫だろう。由依との時間は楽しかった。お洒落なカフェでお茶をしたり、ウィンドウショッピングしたり、高校生らしいことを。
「ただいま」
扉を開けて玄関を抜けてリビングに行く。そこには静人だけがいた。義両親は相変わらず忙しいらしく、殆ど家にいなかった。
「おかえり。遅かったね?」
静人が咎めるような声を、私に向ける。
「……うん。少し友達と寄り道してて」
「ふうん」
興味なさそうに、あっさり静人が呟く。根掘り葉掘り追求されると思っていたが、静人はそれ以上何も言わなかった。私は、肩透かしを食らったように、自分の部屋に行って制服を脱いだ。
「梨桜、今日は一緒に帰れる? 行きたいところがあるの」
あれ以来、静人の機嫌を損ねないように、私は時々だけ由依と帰っていた。あまり頻繁に遅くなると静人に、責められそうだったから。由依にも、私は家が厳しいからと言えば、気を遣ってくれて、たまにだけ誘ってくれるようになった。
「いいよ」
玄関口で外履きに履き替え、由依と並んで校庭を歩く。
「梨桜」
「静人……」
校門に制服姿静人が立っていて、私を呼ぶ。静人が学校に来るのは、初めてだった。女子しかいない場所だからか、静人は目立っていた。普通にしていても、静人は目を引くので余計にだった。
「梨桜、知り合い?」
由依が静人のことを聞いてくる。私は渋々答える。
「……兄だよ」
「そうなの? 梨桜、お兄さんいたんだ。初めて知った」
私は、どんな顔をしたらいいのか分からなかった。静人のことは、結依には言わないようにしていた。
「うん。言ってなかったっけ」
「梨桜、迎えに来たから一緒に帰ろう」
いつもの外の顔だ。きっと由依には、妹を迎えに来た良い兄に見えているのだろう。
「でも、今日は友達と帰る約束をしていて……」
静人は意味あり気な視線で、私を頭の天辺から足の先まで見る。私は耐え切れなくて俯く。まるで、罰を待つ囚人みたいだった。
「梨桜。私のことはいいから、お兄さんと帰りなよ」
黙っている私に、由依が助け舟を出してくれた。そうしよう。今、ここで静人の反感を買うこともない。
「ごめんね、由依」
「いいよ。私はいつでもいいし」
「梨桜の友達だよね? 梨桜が約束してしまったみたいだし、悪いから俺も一緒に行っていいかな?」
私は反射的に顔を上げた。初対面の相手に、静人は何を言っているのだろう。そんなの了承するはずない。
「ごめんね。会っていきなり俺は何を言ってるのかな。普通に気まずいよね。今のは忘れて」
静人が苦笑して眉を下げた。その姿は、いかにも好青年といった感じだ。私は奥歯を噛んだ。けれど私の目に映った静人は、違う。きっと、良くないことを考えている。私は、即座に感じた。
「あの! 私は全然、構いません。梨桜のお兄さんだし……」
由依の頬が僅かに赤い。
「本当に? ありがとう。君の名前教えてくれないかな?」
人好きのする爽やかな笑みを由依に向ける。皆、この甘い顔に騙される。由依と静人を関わらせたくなかった。本当の静人は、身勝手で、横暴で、狡猾だ。きっと誰も信じてくれないけれど。
「由依です」
「そう由依ちゃんって言うんだ。可愛い名前だね。俺は静人っていいます」
私は何も言うことが出来ずに、二人のやり取りを見ているしかなかった。
「梨桜、帰るよ」
呆然と佇んでいたら、声をかけられた。由依と静人を二人で帰らせることは、出来ない。私は暗い気持ちで、二人の後を追いかけた。学校からの帰り道、静人と由依は、並んで歩いている。私は、一人ぽつんと、その後ろにいた。由依が楽しそうに笑っている。静人もわざとらしい笑顔を貼り付けている。早く家につけばいい。私はそれだけを考えていた。
由依の行きたかったところに行って、別れる。静人と二人になった。私は相変わらず、黙ったままだった。彼は由依をどうするつもりなのだろう。迎えに来たのは、きっと偶然ではない。良くない考えが、ぐるぐると私の頭を回る。
「由依ちゃんって可愛いね」
静人が意味深に言った。嘘だ。そんなこと思っていないくせに。ただ、私が彼の言動に振り回されているのを、面白がっているだけだろう。
「由依に変なことしないでよ」
私は普段より強い口調で、静人に釘を刺す。彼はまた、嫌な笑みを見せる。
「変なことって何? もしかして妬いてるの?」
私は信じられないものを、見るような目で静人を見た。どのように解釈したら、そう取れるのだろう。彼は、やはり何処かおかしい。
「おめでたい頭だね」
静人に悪態をつく。静人は笑った。
「お前には、俺だけがいればいいんだよ」
寒気がする。どうしてこうなってしまったのだろう。あの時、何が何でも、彼を拒絶しておくべきだったのかもしれない。私は、静人を受け入れてしまったことを、後悔した。
次の日、いつも通りに学校に行くと、由依が私の顔を見るなり、私のところに来る。今日は彼と顔を合わせたくなくて、早く家を出た。
「梨桜! おはよう」
由依は朝から元気だ。明るく私に声をかけてくる。
「おはよう、由依。昨日はごめんね」
静人の我儘に由依まで巻き込んでしまったことを、私は謝った。
「ううん。あんなお兄さんがいるなんて、梨桜が羨ましいよ」
私は、由依に静人はそんな人間じゃない、と言いたかった。けれど、信じてもらえるだろうか。今までの経験上、誰もが、静人のことを疑わなかった。私のことなんて、信じる人はいなかった。
「そうかな……」
声のトーンが下がる。私は肯定することも、否定することも出来なかった。由依は知らないだけだ。静人の本性を。
「また三人で一緒に帰ろうよ」
由依の目が、期待に輝いている。由依は静人に近付いて欲しくない。私は曖昧に笑って、言葉を濁した。結局、由依が言ったことは、実現されなかった。
近頃、静人の帰りが遅い。休みの日も、ちょくちょく家を空けたりしている。それ自体はどうでも良い。私も静人の束縛から、解放されるので、嬉しかった。
それともう一つ、気がかりになることがある。由依の行動が、おかしい気がする。妙に私に、よそよそしい。帰りのホームルームが終わったら、そそくさと急いで帰っている。しかし私はどちらにも、問い詰めることをしなかった。
その日、私は先生に頼まれごとをされて、普段より帰りが遅くなった。玄関の扉を開けると、いつもと違うことに気付いた。靴が二足ある。一足は静人のものだ。もう一足は、私とあまり変わらないサイズだった。嫌な予感がした。リビングの明かりが点いている。私は足音を立てないようにして、リビングの扉を少しだけ開けた。隙間から中を覗く。
静人と由依が抱き合っている。
――どうして?
私は呆然と立ち尽くした。私の悪い予感は、的中したのだ。由依の肩越しに、静人と視線が合う。彼の目尻が歪に上がった。私は手のひらを、爪が食い込むほど握りしめた。静人に怒りを込めて、強く睨みつける。それから、静人は由依に顔を寄せた。私はそれを見ていられなくて、大きな音をたてて、その場を離れた。階段を上がり、自分の部屋に逃げ込む。鞄を投げ捨て、ベッドに潜り込む。手足を曲げて縮こまり、耳で手を塞いで、目をぎゅっと瞑った。由依との関係が終わってしまう。私はただ、幼子のように震えるしかなかった。
かちゃりとドアが開く音がした。どれくらいそうしていたのか、分からない。
「梨桜」
愉悦を隠そうとしない声が、耳に届く。静人だ。私の直ぐ側の、ベッドのスプリングが軋んだ。
「拗ねてるのか? 子供みたいだな」
布団を乱暴に剥がして、私は静人の肩を掴んで詰め寄る。
「由依のこと何とも想ってないくせに、どうしてあんなことするの!」
静人は興味なさそうに私を見た。
「何が? 酷いのは梨桜だろ。俺より、あの子を優先しようとするから」
そんな理由で――私は怒りに震えた。静人の頬を思い切りぶつ。それでも私の怒りは収まらなかった。
「痛いな。どうして叩くんだよ?」
静人が不機嫌な顔をした。どうしてぶたれたのか、彼は分かっていない。身勝手なことばかり言って、私の気持ちを全く考えようとしない。
「私がどんな気持ちになるのか考えたことないの!? あの時は許せたけど、由依のことは絶対に許せない!」
静人の瞳から、光が消える。
「許せないって何?」
腕を掴まれた。握りつぶされそうなほど、強い力だ。私は痛みに顔を歪めた。
「痛い! 離してよ!」
私は彼の腕を半狂乱になりながら、振り払おうとした。ずいと静人が顔を近づく。
「お前こそ、どうして俺の気持ちを考えないんだよ。俺は梨桜だけがいればいいのに、どうしてお前は俺だけじゃ駄目なんだ」
頭が冷えていく。なんて愚かなのだろう、この人は。静人の望む世界は、私には到底理解出来そうにない。彼は年齢より大人っぽく振舞っているけれど、中身は幼い子供だ。誰も本当の彼を、見ようとしなかったからなのだろうか。
「……静人の言う通りにするから、もう由依には何もしないで」
これ以上彼女を巻き込みたくない。私が一人でいれば、いいだけの話だ。そうすれば、誰も傷つけなくて済む。
その後、由依との関係は、修復不可能になった。私が彼女の目の前で、静人にキスをしたからだ。由依には何もしない代わりに、私に彼女の前で、その証をみせろと静人が言った。その時の由依の顔は、今でも覚えている。驚愕に目を大きくして、悲しそうな、けれど確かに、裏切られたというような表情をしていた。それから由依は、私を避けるようになった。当然だった。
それから静人の私に対するスキンシップは以前にも増して増えていき、それに比例して束縛も厳しくなっていく。静人は外面だけは良くて、彼の両親も絶対の信頼を向けていた。きっと私が何か言っても信じてはくれないだろうし、頭の中で半分諦めていて、何か言う気もおきなかった。彼の周りには沢山の人達がいるのに、それに反比例するように私は、周りには誰もいなかった。
静人と過ごす時は大抵、私の部屋か静人の部屋だった。今日は静人の部屋で過ごすらしい。相変わらず生活感の薄い整頓された空間は、完璧で、空虚な静人の心を映しているみたいだ。大きな黒のベッドの上に寝そべり、私は微睡む。
「学校はどう? 楽しい?」
態とらしく確認するように静人が聞いてくる。
「別に。ずっと一人でいるから、分からない」
彼は満足そうに微笑んだ。私の答えがお気に召したらしい。
「眠い?」
「少し」
静人との時間は、ただただ静かに過ぎていく。長い指が私の髪を撫でる。静人のことは好きでもなんでもなかったけれど、彼にこうされるのは嫌いではなかった。静人の指の感触が心地良くて、眼を細める。彼は愛しいものを見るような顔をして、私の頬を擽る。だがそれは純粋な愛情ではなく、愛玩物に向けられるものと同じものだ私を知っている。きっと、静人は自分の言うことを聞いて、ずっと側にいてくれて、決して裏切らないお人形が欲しいのだ。
「俺だけのものだ」
そう言って静人は、私に独占欲に塗れた触れるだけのキスをした。彼は一体、私をどうしたいのだろう。私はどうすれば、いいのだろう。
高校最後の夏が来る。灼けるような陽射しと、蝉の鳴き声の中、相変わらず私は独りでいた。どうせ友達が出来てもまた静人に邪魔をされるのは分かりきっていた。だったら初めから独りの方がいい。
私は、進路に悩んでいた。静人は家業を継ぐようで、医学部に進んでいた。進学はしたかったけど、どうせ彼にまた一人でいることを義務付けられるだろう。そう思ったら、躊躇してしまう。自室の勉強机に座って、以前渡された進路希望のプリントと睨めっこする。私はため息をはく。プリントを投げ出して、ベッドに寝転がった。
「ただいま、梨桜」
扉が開く。静人が帰ってきたようだ。
「……おかえり」
私は寝返りをうって、静人に背を向けた。
「何? 帰るの遅かったから拗ねてるのか?」
静人が帰ってきた時には、陽はとっくに沈んでいた。僅かに鈴虫の音色が聞こえる。
「そんなことあるわけない」
「まあ、いいけどね。梨桜、何かの紙が落ちてるよ」
私は飛び起きた。
「やめて! 触らないで」
先ほど放り投げた進路希望の紙だ。私が制止するにも関わらず、静人はベッドの脇に落ちているそれを拾い上げる。
「進路希望ね――。何も書いてないけど、まだ決めてないのか?」
どうして静人の目のつくところに、置いてしまったのだろう。数分前の自分の行動に後悔した。
「進学すれば? 学費はあの人達が出してくれると思うよ」
あの人達とは、静人の両親のことだ。いつからか静人は、私の前では自分の両親のことをそう呼ぶようになっていた。
「でも……」
「梨桜は進学したいんでしょ?」
「それは――」
私は言いあぐねた。
「丁度いい。お前が大学を卒業すると同時に、俺も卒業だろ?」
その先は、聞きたくない。私は両手で耳を塞ぐ。静人が私に近付いてきて、そっと私の手を剥がした。
「そうしたら家を出て、二人で暮らすんだ」
静人が穏やかに微笑う。私は身震いがした。
「梨桜は何もしなくていい。全部、俺がするから。朝になれば俺を見送って、夜は俺の帰りを待ってくれればいいよ」
それはどんなものなのだろう。想像するだけで、気が狂いそうだ。静人の物に囲まれて、その中に私だけがいて、閉じられた世界で、ただひたすら彼を待つ。私を緩やかに追い詰めて、静かに追い詰め殺す悪魔。
「……そんなのおかしいよ」
けれど静人はやはり歪に笑うだけだった。この時、初めて本気で逃げなくては、という感情が私の中に沸いた。今までも、何度かそう思ったことはあったが、心の何処かで、まだ大丈夫だと甘く見ていた。今を逃せば、私はずっと静人に縛り付けられる。
そして、私は逃げることにした。大学生になるのを機に、今住んでいる家から離れようと目論んだ。それこそ簡単には行けないような、遠い距離の場所を。それから必死で勉強をした。そして静人には内緒で、叔父さんと叔母さんには、遠い他県の大学に行きたいと相談をした。初めは女の子の一人暮らしは危険だからと、反対されたけど私の意思が覆らないのを感じて、最後には折れてくれた。私の我儘だから、初めは奨学金で大学に行って、アルバイトをして生計を立てるつもりだったけど、伯父さんと叔母さんは血は繋がらないけど、私のことは本当の娘のように思っている。そう言ってくれた。久々に触れた人の優しさに、涙が止まらなかった。結局、最低限の仕送りだけを送ってもらうことで、この話は終わった。とても晴れ晴れとした気分だった。灰色の世界が、鮮やかに色付き視界が開けた。
彼はずっと、幼い頃から一緒に育ってきた私に執着しているだけだ。離れれば、自ずと愚かさに気付く筈だ、昔の優しい静人に戻ってくれる。この時の私は、そう思ってやまなかった。
だけどそれは、間違いだった。私は静人のことを、何一つ分かっていなかった。
「俺から逃げられると思っているのか?」
その日私はもうすぐ受験だから、机に向かって勉強をしていた。冷たく澄んだ空気に、さあさあと小雨が降る夜だった。背筋も凍る冷たい声音が、私の耳に届く。それは静かな怒りを孕み、私を絶望に突き落とす。
「どうしてお前は俺から逃げようとするんだ? 俺はこんなにもお前のことを想っているのに」
昏く瞳を光らせ、唇が綺麗な弧を描く。静人に、それは愛ではなく、ただの妄執だと言いたかった。でも今の彼に、そんなこと言えるはずがない。私は、思わず後ずさった。それでも静人は、一歩一歩距離を詰めてくる。背中が壁についたところで、もう逃げ道はないのだと気づいた。
「どうしたらお前は逃げないんだ? なあ、教えてくれよ」
私の顔の横に静人が手を着いた。私は息を呑んだ。尋常ではない。とにかくこの男から逃げなくては。近付いてくる端正な顔、二人が重なるまであと数センチのところで、私は行動に出た。無我夢中で力の限り、静人を押し退けた。彼は怯んだ隙に逃げ出した。乱暴に自室の扉を開け、階段を下りて、靴も履かず玄関を飛び出した。
闇に支配された空、月を覆う灰色の雲からは、優しくも冷たい雨が地面を濡らしている。
私はとにかく走った。何処にもいく場所なんてなくても、彼から逃げたかった。小石が足の裏を傷つけ、血が滲む。走る度に足が痛んだ。それでも逃げなくては。それだけを考えた。
それから横断歩道が見えて、向こう側に渡ろうと飛び出した。信号が赤だということは、今の私には関係なかった。トラックが私に向かって走ってくる。来ると思った衝撃は、私の身体には訪れなかった。クラクションの音に突き動かされ、なんとか避けたらしい。気付けば身体中擦り傷だらけで、道路の端に蹲っていた。コンクリートに打ち付けられて、全身が痛いし、雨は無情にも降り続け、私の体温を奪っていく。立ち上がる気力もないくらい、打ちのめされたけど、立たないと、逃げないとって、それだけが私を突き動かした。よろよろと立ち上がり、訛りのように重い足を踏み出す。足首が痛む。もしかしたら捻挫したのかもしれないと。それでも自由に動かない足を、私は動かした。何故こんなことになったのだろう。そう考えたらみっともなく涙が溢れた。
「見つけた」
声と同時に、腕が伸びてきて、私の腰に回された。振り返らなくても、誰だか分かる。嫌と言うほど、酷く耳に馴染む暗い声だ。絶望へのカウントダウンが、すぐ側まで来ていた。
「嫌! 嫌だ! 離して! 離してよ!!」
その腕は、軽々、私を持ち上げ、物のように抱えた。必死に抵抗するが、びくりともしない。再び大粒の涙が溢れた。
「やめて! 離して! 離してよぉっ!!」
嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。折角、世界はこんなにも、優しいことを知ったのに。また灰色の鬱々とした世界に、連れ戻される。
私の抵抗は虚しく、来た道を静人が戻る。その間、私は泣いて、震えるしか出来なかった。私の部屋に着くと、ベッドに投げられる。こうして私の短い逃走劇は、失敗に終わったのだ。私は選択を間違ってしまった。これから何をされるのか、分からない恐怖に、歯の根が合わない。
「そんなに俺の事が嫌いか? 逃げたくなるくらいに」
私は必死で違うと伝えたくて、首を振った。静人のことは嫌いではない。たまに鬱陶しく思ったこともあるけど。ただ彼の想いに、私の気持ちがついていかなかったのだ。けれど静人の口から出た言葉は、私を奈落へ突き落とす。
「いいよ、何も言わなくて。言い訳なんか聞きたくないから」
妙に優しげな口調に、私は余計に身体を震わせた。怖い、怖い、怖い。
「なあ、俺から逃げようとするそんな足はいらないよな?」
咄嗟に目を瞑った。目を閉じる刹那、映ったのは静人の綺麗な笑みと、鋭く光る何かだった。
「――うああああああぁぁぁぁぁっ!」
次の瞬間、部屋中に獣のような絶叫が響き渡る。何をされたのか理解はしたくなくなかった。ただただ、脹脛の足首に近い部分だけが、燃えるように熱い。私の足からは、血が流れ出ている。
――静人は、狂ってる!
そう思った次の瞬間、再び激痛が私を襲った。
「ああああぁぁぁぁぁ!」
静人の手には銀色に光る果物ナイフ。そのナイフにはべっとりと、赤い液体が着いている。それは床に広がる赤黒い、私の血の色とそっくりな色をしている。魚が水を求めるように口を開閉させ、眼からは整理的な涙が流れる。私は動くことも出来ず、蹲る。息が出来ない。
どうして――? 酷い、酷い、酷い、酷い、酷い!!! とにかく逃げなきゃ――。でも……何処へ?
私に行く処なんてあるのだろうか。私の居場所は此処にしかなくて。だけど、ここには悪魔のような男がいて、どれだけ逃げようと私を追い掛けてくる。きっとそこが、例え地獄であったとしても。足は動かないし、呼吸は上手く出来ないし、涙は止まらない。意識は朦朧とするし、何処にも良く場所なんてない。様々なことが、頭の中をぐるぐると回る。
――そうか、結局逃げられないんだ。
気がつけば、病院のベッドだった。そこには静人と、知らない何人かの白衣を着た人達がいて、私は必死で自分の身に起こったことを訴えた。だけど誰も私の言う事を聞いてくれなかった。二人掛かりで抑え付けられ、腕に注射をされた。針が皮膚を突き抜け、小さな痛みが走る。それにまた叫ぼうとしたが、意識を保っていられなくなり、私の瞼はゆっくりと下りていった。
どうして私の言うことを聞いてくれないの? 信じてくれないの? どうして、その男の言うことを信じるの? 私の頭がおかしいんじゃない。頭がおかしいのはその男の方なのに!
それから意識が戻る度、喚いて喉が枯れる程叫んだ。でも私の言うことなんて、誰も聞いてくれなかった。腕はよく分からないもので固定されていて動かないし、何回も何回も、腕に針を刺されて、段々と私の意識は混濁していった。初めはここが何処か分からなくなるくらいだったが、次第にそのうち、景色も、人間も、私の身体も、歪んでいって、私は私でなくなり、後はぐるぐると世界が廻り出して――。
嗚呼、気持ち悪い。
「全部、思い出したの」
思い出したくなかった。だから、私は忘れた。自分で記憶を閉じ込めた。
「全部、全部、全部、全部、全部、全部、全部、全部、全部……」
私は大学には行けなかったし、義両親は外国に行ってなんかいない。友達はいたけれど、静人の所為で駄目になった。ギプスを巻かれている足は折れているんじゃなくて、腱を切られてもう動かないだけ。そして私を壊したのは、静人だと言う事実。
「ぜぇーんぶっ!! 静人の所為だってことっ!!」
私は大声で叫んで、肩で息をする。
「思い出したんだ?」
くすくすと、静人が可笑しそうに乾いた笑いを漏らす。私はシーツを握り、奥歯を噛みしめる。この男は何一つ変わってなんかいない。私の人生を狂わせたという罪悪感など、ちっとも持ち合わせていない。
「あのまま幸せな夢だけを見ていたら良かったのにな。そうすれば、まだ優しくしてあげたのに」
静人がうっとりと、恍惚とした表情を浮かべる。幸せな夢? 笑わせる。それは静人にだけ、都合の良い夢だ。私にとっては悪夢でしかない。いつになったら、彼は気付くのだろう。
「白々しい」
私は鼻で笑った。何かに悩んでいたなど、足はすぐ治るなど、どの口で言うのか。全ての元凶は静人なのに。
腹立たしい、恨めしい、憎い、殺してやりたい! 燻っていた凶暴な感情が溢れ出す。
「誰の所為だと思っているのよ! あんたは頭がおかしい! 私はあんたのお人形じゃない! あんたさえ……、あんたさえいなければ――、私は……!」
今頃、普通の生活を送れていた。友達がいて、恋人がいる、何気ない毎日。私が、夢見た日常が。静人が、壊した。私を、壊した。私を、狂わせた。
私の憎悪すら宿った視線を、静人は心地よさそうに受け止め、優しく私を抱き締める。
「強気な梨桜も好きだけど、俺の言うことを聞かない梨桜は……要らないな」
なんて自分勝手な男だろう。彼の暖かい腕の中で思った。そしてまた繰り返すんだとも。
「ああ、楽しみで仕方がない」
背骨をなぞる静人の指から伝わる感情は、私を深淵へと沈めていく。
「私も静人なんて要らないわ」
精一杯の皮肉を込めて静人の背に手を回し、爪を立てた。静人がまた笑った気がした。それすらも、彼には甘い傷となるのだろうか。
「あと一年だよ。ようやく、ようやくだ……ねえ、梨桜はどんなところがいい? 一軒家? それともマンション? 犬も飼おう? お前は寂しがりだから。そうしたら、俺がいない間も寂しくないだろ?」
静人は本気で、あの時言ったことを実行するつもりなのだろう。私が逃げるきっかけになった出来事。下らない夢物語。
「死んでよ」
私は嫌悪感を露わに、吐き捨てた。
「そんなお前も、嫌いじゃないよ」
既に乖離していく意識を、保っているのも辛い。でも、これでいいんだ。また夢の中に戻れる。そこは暗くて、無音で、何もないけれど、ここよりはマシだ。少しの間の身体を引き裂くような痛みと引き換えに、私は暫くの安穏を得るのだ。
「また会おう、次の現実で。良い夢を――梨桜――」
そして静人は、狂気の孕んだキスをする。それは私の中に馴染むように沁み込み、確実に私を破壊する。
――最後に、もう一つだけ思い出した事がある。私はこの感覚は、初めてではないということ。
――そっか。また繰り返すんだ。何度も、何度でも。
私の意識は、再び深い眠りに落ちた。
目を開ければ、何処か見覚えのある真っ白な天井。虚ろな意識の中、部屋を見回せば、白で統一された穢れのない空間と、一輪の朱い花と、私。
どうしてだろう、私はずっと此処にいる気がする。
「おはよう、気分はどう?」
男は優し気な笑みを浮かべる。この男の人は誰だろう。
「何か覚えていることはある?」
私は緩く首を振った。
廻る、廻る、ぐるぐる廻る。
廻っているのは世界か、それとも、私と私か――。
そして、始まりへ――。