「非日常の足音」
今朝、いつもと変わらないようで何かが違う日常に、思わず足を止めてしまった。
昨日、テルルと名乗った少女と知り合った屋敷は、黒白の幕を張って、朝も早くから黒い服を着た弔問客が大勢来ていた。周囲とはかけ離れた非現実。一目でこの屋敷で行われているのは葬式だと判る。自分は屋敷の人間にとっては何の関係も無い人間なので、足を止めて眺めるだけで終わった。無論、この屋敷に何人の人が住んでいたのか、テルルがいたかどうかは知る由も無かったが、屋敷の所有主の姓が「今井」という事だけは知ることができた。
――多分亡くなったのは爺さんだと思う。証拠など無いが、心の中で確信はしていた。
今も不思議に思う。あの少女は、黒と白の幕を、弔問客が涙を流しながら屋敷に入っていく光景を自分に見せて何を知らせようとしているのだろう。
何をしていたのか全然判らない。
もしかして、葬式屋の娘さんだったのではないかとさえ思う。
いくらなんでも、遠回しに伝えすぎだった。
やはり昨日の事は何かの見間違いで、真夏の夜の夢…もとい、季節外れの冬の夜の夢であり、幻だったんじゃないのだろうか。
机の横側にあるフックにかけてあるバッグの中を探る。いつも入っているはずの使われないスポーツタオルは入っていない。昨日の出来事は冬の夜の夢でも、幻でも無かったのだ、と再確認する時だった。
今やスポーツタオルが、昨日と今日を、自分とテルルを結んだ唯一の接点だった。
勇一は手元に無いスポーツタオルの代わりにノートパソコンを出して、起動させる。せっかくなので脚本を早めに完成させてしまおうと思ったからだ。あと少しで完成する。今日中には部長に提出できるはず。桜緑祭までの負担を少しでも減らさなければならない。
キーを叩く。二ノ宮はこの時期から必死で勉強しているし、森岡は仁美にくっついて近頃のネットゲームについて議論しているし、クラスは自習という名目で意味の無い時間をそれぞれ各々の過ごし方をしている。
見渡せば、いつもと変わらない日常だった。その中に自分もいる。
考えすぎなのだろう。今はただ、桜緑際に向けて動いている方がいいのだ。
勇一はタオルの事も、昨日の事も忘れるために、キーを叩き続けた。
放課後、出来上がった脚本の入ったCDを部長に届けるため、勇一は三階にある部室に向かう。部室に行くのはかなり久しいので、なんだか緊張する。
「演劇部」とボードのかかった部室のドアを開けると、潔癖な人だったら、鳥肌でも立ってしまうだろう、凄惨たる光景が広がっていた。はさみやら布やら、床にも机にも色とりどりの衣装を作るための道具や材料が散っていた。
イベント前の演劇部部室と言うのは、この学校では伝統的にこんな状態なので、勇一はさしたる反応も見せず、足の踏み場も無い状態の床を少し片付けて踏み場を作ろうとする。
「あ、ああっ、ダメだよ勇一くん、勝手に物を動かしちゃ!」
制止の声がいきなり後ろからいきなりかかったので振り返ると、瀬の辺りでゆるく結んだロングヘアが印象的な、三年一組肩書きは演劇部副部長、役職は雑用、通称みっちゃんこと水口洋子がオロオロしながら立っていた。
「すいません、足の置く場所が無いので、少し片付けようかと」
「絶対、絶対ダメ。物の配置が少し変わっていても、私のせいにされちゃうんだからぁ〜…。日向くんのおしおきは怖いんだから、勇一くんも、変な意地悪はしないで?」
この言葉には、苦笑しか返せなかった。日向部長の水口に対するおしおき、通称イジメは見た事は無いが、相当なものらしい。部のメンバーの一説によれば、彼女は『もうお嫁にいけないようなこと』をまでされてしまったとも聞くが、内容を聞いたときは確かに驚いてしまった。
とても――とても、自分の口からは言えそうに無いことである。
冗談でも、美月に話したら一発で怒りそうな、そんな話である。
ていうか、個人的に彼女はかなりおいしい位置にいるとは思うのだが。
「意地悪なんかしませんよ。みっちゃん先輩がそういうのだったら、部室はこの状態のまま保存しておきます。しかし、それにしても他の部員達遅いですね、何をやっているのだか」
勇一は肩をすくめる。演劇部の部員数は全二十五名、うち勇一は休部中、美月は入院中、森岡はサボりで、残りの二十二名は毎日顔を合わせることになっている。
ついに部長に反乱よろしくデモでも起こしたのかな、と勇一は思ったが、
「みんなは外で発声とか、体力づくりのために走ってるよ。そういえば、勇一くん部室来るの久しぶりだよね。ここに来たった事は、脚本が出来上がったって事かな?」
「うん。完成した。先輩、悪いんですけど、部長にこのCD渡しておいてくれませんか?俺、美月のところに早く行かなければならないので」
「判ったわ。勇一くんもすごい健気よね。私じゃ真似できないわ。私もよくお見舞いに行くけど、忙しくて毎日なんてとても行けないもの」
水口は勇一からCDを受け取ると、こう言って笑った。軽く咳込みもした。
彼女のようなセリフは様々な人から言われてきた。二ノ宮を初めとしたクラスメート、部員、病院の看護士達。言わないのは、森岡と主治医の先生である暮林くらいだ。勇一には、この言葉には微かに哀れみとか、同情の念が入っていることを知っていて、言われたら苦笑を返すようにしていた。テレビに映る政府の意見に文句を言うのと同じ。言っても何が変わるわけでもなく、気休めにもならない。ただ自分と美月の心に小さな傷跡が残るだけ。
だから、苦笑して傷跡を隠そうとする。
「健気なんかじゃありませんよ。オレはただ、昔美月がやっていたことをやり返しているだけです」
「ああ……、そっか。ごめんなさい。変なこと言っちゃって。許してね」
水口は両手を合わせてぺこぺこ頭を下げる。勇一の言葉の意図を理解できたからだ。
「まぁ、俺から見させてもらえば、みっちゃん先輩の方が健気に見えますけどね、日向部長にあれだけいじめられてるという噂がありながら、いつも一緒にいるんですから」
「えへへ……。健気、か。うん。言われてみれば、そうかもしれないかな」
彼女は笑ってから、突然咳をし始めた。
「だ、大丈夫ですか?」
「うん……、大丈夫……ちょこっと……ごめんね…」
彼女は途切れ途切れに言い、勇一に背を向けて手で口を覆い、とても大丈夫そうに見えない咳を苦しそうにし続ける。だが、良くなる所かだんだん酷くなってくる。ついにもう片方の手で胸を押さえ、とても普通には見えない咳をしている。立っているのも辛いらしく、膝を床につけて尚もし続ける。あまりにも酷かったので、思わず声を荒げて「大丈夫ですかっ!」と何度も訊いてしまう。
オロオロしながらも何かできないかと混乱する頭で考え、今できることとして彼女の咳をし始める。
頭の中は多分、酷く混乱していたと思う。
随分と長い時間がたったと思った。それ位勇一の神経は緊張していたのかもしれない。
彼女の席は少しずつ治まっていき、話をできる状態まで回復した。彼女は口を押さえていた手を話し、ぐっ、と握り締めて、未だ背をさすっている勇一に振り返る。
「ありがとう、もう大丈夫だから」
勇一は背から手を離すと、彼女はゆっくりと立ち上がり、額に汗のたまった青白い顔で力無く微笑んだ。
微かに、鉄のような匂いがした。
「本当に大丈夫ですか? 保健室に行った方が…」
「大丈夫よ、一人で行けるわ。それよりもほら、美月ちゃんのところへ早く行かなきゃ行けないんでしょ? 急がないと面会時間も過ぎちゃうわ」
水口は胸を押さえていた左手で勇一を押して部室から追放するように出してしまう。その力はとても青白い顔の人の力とは思えなかった。心配しないで、ということを示したいのだろうか。
部室の扉が静かに閉められる。
本当にこのまま行ってしまって良いのだろうか? 背をさすった時に制服越しに感じた脂汗で湿りかけた背中を、咳が止んだあと握り締めたまま決して開かれる事の無かった右手を、鉄の匂いと、青白い顔で力無く笑った顔を断片的に思い出した。
大丈夫なんかじゃないだろう。
思い切って扉を開けると、右手をポケットティッシュでふいている水口の姿があった。扉の開く音に反応してこちらを振り返っている。まだ少し顔は青白いが、もう席はしていなかった。彼女はティッシュで吹く動きを止めて、首を傾げる。
「ど、どうしたの? 何か忘れ物でもした?」
「え、いや……、何でもないです」
勇一はなんだか恥ずかしくなって扉を閉め、部室から逃げるように小走りでその場を後にする。
小走りをしながら勇一は少し安堵して、少し不安を覚えていた。
扉を開けた時、色とりどりの布の上に水口が立っていて、その手にこびりついた血をティッシュで拭いている。これ程までに非現実感があり、扉の向こうは異世界と考えてしまう程なのに、どこかシュールだと感じてしまうのはなぜだろう。
永遠に解けない謎なのだろう、多分。人間の感覚は実に奇妙に創り上げられているから。
喉元通れば熱さ忘れるとは誰が作った言葉が知らないが、実に素晴らしい言葉だ。人間の感覚を的確に表している。勇一が下駄箱で靴を履き替える頃には、先ほどの混乱もどこへやら、すっかり頭の中は落ち着きを取り戻していた。
昨日より数十分送れて校門を出る。早く美月のところへ行かないと拗ねてしまって手に負えなくなってしまう。
まさかさっきの事を遅れた理由に使うわけにもいかない。うまい言い訳を考えなければ。
勇一は混乱の後で血液の巡りが良くなった様に感じる頭を働かせながら、いつものように黙々と歩いて水口総合病院へと向かった。