「彼のファンタジー」
この状況、どこか非現実めいているぞ。
本能が、頭の中でそう自分に語りかけてきている。これから何が起こるのか、全く予想がつかないのではないか。自分ガ安全を確保できる手段は一つだけ。即刻この場から立ち去ってしまうこと。本能はさらに言う。きっとパラレルワールドにでもミステリーゾーンにでも一歩足を踏み込んだに違いない。今引き返せばまだ間に合うのだ。
暗闇の中で、孤独から来る恐怖感とは違う恐怖感が勇一を襲う。
傘を持つ手が震える。
引き返そう。あの女の子は幻だ。きっとそうなんだ。今この屋敷から出れば。日常に戻ることができる。うん、そう。引き返そうか。
振り返った。
歩もうとする足が止まった。
目の前に、さっきの女の子が立っていたからだ。
出口は塞がれた。――もう、平凡な日常には戻れないかもしれない。
「やるべき事は終わった。ホントは帰らなければいけないけど、私はなぜアナタが私を見ることができるのか興味を持った。アナタは…ただの人間じゃない」
「残念ながら、普通の人間なんだけど」
「嘘ついちゃ駄目」
女の子の顔はタオルで隠れていたが、その声は外見年齢に反して、はっきりと芯の通る声だった。フランス人情のような出で立ちをしているくせに、日本語が上手い。
しかし、初対面の子にあなたは凡人じゃない呼ばわりされ、しかも確信を持たれたように嘘をつくなと言われた。
でも、確かに、この子の言っていることは、例え当てずっぽうだったとしても当たっているのかもしれない。
「……分かった。本当の事を言うよ。だけどその前にオレの質問にいいかげん答えて欲しいんだけどね」
交換条件。自分の手元の情報を生かして、この子は一体何者なのかを聞き出さなければ。
日常へ戻ることは半分諦めかけていた。ミステリーゾーンでも、パラレルワールドでも、足を踏み入れたなら出てしまうのは邪道な気がする。よく自分は普通の人が経験しない事をいろいろ経験して来たな思っているが、まさか常識外の事を経験するとは思っていなかった。思っていなかったが腹は決めた。
自分でも驚きだ。数瞬前怖がっていた時とは偉い違いだ。自分の環境適応能力はもはや才能だな、と思ってしまう。
しかし。
「じゃ、いい」
女の子はこの言葉で全てを拒否した。なんと言うか、気難しくて美月より扱いに困るタイプだ。とりあえず事情を訊いてみる。
「なんでそんなに君は自分の事を話したがらないの? 話さなければ何も判らないよ?」
「主の命令。話しちゃ駄目って言ったから。私は主の命令は守らなければならない」
「……主?」
彼女は相も変わらず勇一と顔を合わせようとしない。声は無感情そのものだし、外見より大人びていると思ってしまう。だがそれが、主従関係故だとは。
「そっか、なるほど。事情があるなら、仕方ないね」
初めてこの子に親近感がわいた。得体の知れないフランス人形の人間らしさをひとかけら、知ることができたから。感じていた非現実さが、ほんの少し現実さを取り戻す。気のせいか、雨の勢いも弱くなった気がする。
「ただ、どうしても私のことを知りたいなら、明日、ここに来てみるといいよ。私という存在が何の役割を果たしているか、少しは判ると思う」
――私の口からは言えないけれど。そう言葉が続くと思った。彼女の言葉には先程とは違う神妙さがあり、言っていいべきか、という困惑した表情をしていた。勇一にとっては、彼女が 自分に自分の事を伝えようとしてくれているのがなんとなく嬉しかった。
恐怖感はなくなっていた。目的も変わっていた。雨もやみ始めていた。
彼女は遠回しにも自分の事を伝えようとしている。交換条件だ。自分も遠回しにでも言わなければアンフェアになってしまう。何かないのかと、神経を集中させる。
「じゃ、オレはもう行くよ。あー、そうだ。君の名前を教えてくれる?」
「――テルル。…このタオル、明日あなたを見たら返しに行く」
「分かった。じゃあテルル、君がこの屋敷の住人じゃなかったら、速くこの屋敷の敷地内から出た方がいいよ」
歩みを進める。束の間の日常に戻るために。今日と明日は、見る世界も過ごす世界も一味も二味も違うと思う。
できるだけ、さりげなく。遠回しに。
「今から八分と三十七秒後、この屋敷に人が来るからね」
彼女がどういう反応をしたのかは判らない。何も気付かなかったのかもしれない。
門を出た所で、最早意味の無い物となっていた、開かれた傘を閉じる。今日は疲れてしまった。まずありえないと思ったことが多々ありすぎた。
きっとこれは、森岡のせいに違いない。
うん。きっとそうだ。
勇一はほとんど罪のないだろう森岡へ思いを馳せながら、帰路を急いだ。