第五十話 稲妻家の再出発
エリザベスがいうにはつまりこうである。
無慈悲なる破滅が放つ轟音を聞いて、棗とエリザベスはそれぞれ白樹園東第二公園に駆け付けた。しかし到着した頃には時すでに遅く、鬼灯や紫苑の姿はない。さらに塵と化した木々の周辺には騒ぎを聞き付けた周辺住民や警察が集まり始めており、棗たちは諦めてその場を去ろうとした。
その時見つけたのが、草藪に埋もれていた鬼の紅剣である。
なぜこの剣が捨てられているのかは分からない。だがこの剣があるなら紫苑の魔術を封じられる、というエリザベスの助言を受け、棗は柄を握った。そしてできるだけ人気のない、公園のテニスコートで紫苑を待ち受けていた。
それから二時間あまりが経った頃。鬼灯たちを異空間へ追いやった紫苑は、残る魔界出身の人間を消すため、棗の前に現れた。
しかし剣を握る棗は、相手を異空間へ転送する魔術を完全に封じる。さらに紫苑に考える時間を与えず、ためらいなく刃の届く距離にまで詰め寄った。
しかし機転の早い紫苑は、魔術を封じられたと見るや力ずくの突破を試みる。その瞬間、エリザベスは紫苑の胸に飛びかかって押し倒し、思いっきり魔力の享受――つまり「ファーストキスを奪ってやった」という。
「ファーストキス」の言葉がエリザベスから出た途端――棗は再び号泣してしまった。
「おい。息子に剣を向けるのは辛かったと思うけどよ……全員無事なんだから落ち着けよ」
無鉄砲なエリザベスはなだめるようにいうと、空気が一瞬凍りついた。
「……無事じゃないわ」
聞こえるか聞こえないかといった棗が囁く。
と同時に辺りを支配する重い沈黙。萌黄はこわごわと三人の顔を見比べた。棗は顔色を変えずうつむいている。鬼灯とエリザベスは、黙りこくったまま表情が張り付いている。なぜかまるで、地雷を素足で踏みつけてしまったような悪寒が背筋を遡る。
棗は鬼の紅剣を振りかぶると地面に突き立て、血眼でエリザベスに近寄り、両腕でつかみあげた。身の自由が聞かぬエリザベスへ悲痛な声で叫ぶ。
「とぼけないで、エリザベス。母親の目の前で、メス猫が息子の唇を奪うなんて、全然無事じゃないわ!」
「待て、じゃあお前が泣いてたのって……」
「当たり前でしょ!」
ぬいぐるみへ八つ当たりするように、棗は今にもエリザベスの両足を引きちぎってしまいそうだった。
「母さん落ち着け、エリザベスを頼ったのは不本意にも程があるが、最善だったのは間違いないだろ。それに、相手はたかが猫だ」
鬼灯が間に入り、棗の両手首を掴み制止する。棗は一旦ぴたりと握る手を緩めたが、今度は鬼灯の言葉がエリザベスの癪に触った。棗の魔の手から抜け出すと華麗に着地し、彼女は柔らかな長毛を逆立てて、意味深に輝く目を細める。
「たかが、だと?今のは聞き捨てならねえな、鬼灯。それをいうならお前なんてただの猿だろうがよ」
「……貴様、私に喧嘩を売るとは死にたいらしいな」
「おっと、あたいは命の恩人だぜ? 紫苑坊やが助かったのもな」
「でもそのせいで紫苑は! とりあえず一旦頭を下げなさい」
棗に再度捕まったエリザベスは、悪いことはしていないと何度も振り切ろうとした。だが商人の魂を受け継ぐ棗の芯の強さは筋金入りである。結局、エリザベスは素直に頭を下げさせられ、二度としませんと誓わされていた。
意外と息子コンプレックスなのは、今までの心配の裏返しなのかも。
萌黄は遠巻きに見ているのをやめて、皆の輪の中に入っていった。
「で、肝心の時にお前らはどこにいたんだよ?」
鬼灯は棗とエリザベスにことのあらましを語った。その中で、コピー空間にも紫苑がいたのは、彼が自分のコピーまで作り上げ、操っていたから。魔力が使えなかったのは、現実の紫苑の魔力がエリザベスによって失われたから――。鬼灯とエリザベスは、粗暴な口調で手早く話を済ませていた。
その傍らで、さっきまで荒れていた棗の表情が徐々に曇っていくのが、萌黄にははっきり伝わっていた。
「貴方」
一通り鬼灯の話が終わるやいなや、棗はいった。
「どうした、まだ何か不満か――」
言葉を切った鬼灯の視線の先には、強い眼差しを向ける棗がいた。
萌黄にとって初めて、鬼灯にとっては婚儀以来見せることのなかった、覚悟を宿した瞳だった。
「いえ、魔王陛下。私の一生の願いをお聞き入れください」
萌黄が息を呑む目の前で棗は跪き、頭を深く下げていた。一家の大黒柱としてではなく、魔王妃としてでもなく、ただ商人の娘として口をきいている。異様な父母の関係を目にし、萌黄は驚きよりもただ恐ろしさが身体を駆け巡るのを感じた。
萌黄の思いなど知るはずもなく棗は息を深く吸って、よく通る声でいった。
「どうか、輝く魔水を、勇者四人衆へお渡しください」
輝く魔水を、勇者四人衆へ。
脳は理解を拒んで、何度も意味なく棗の言葉が反響した。しかし嫌でも理解せざるを得ない時間が過ぎる。それは魔王家最大の家宝を、力の威厳を、心の拠り所を、伝統を失うということ。
すなわち、命の保証もない降伏だということを。
「無理を言っているのは承知の上です。でもこれ以上、誰も苦しませたくないから……」
「帰るぞ」
棗の懇願を即座に断ち切った鬼灯は、紫苑を担ぎ上げ出口へ向かって大股で歩き始めた。棗の嗚咽が残るなか、地面に突き刺さっていた鬼の紅剣がひとりでに空へ飛んでいく。だがそんなことは今の萌黄にとってはどうでもよかった。
「父さん、待ってよ!」
鬼灯へ叫ぶ。だが止まらない。父の影は小さく木々の間に消えていく。一件落着のはずなのに、家が崩れていく気がした。引き留めないと。萌黄は脚を動かそうとした。
「行かせてやれよ」
エリザベスの一言が背中に突き刺さる。
「奴も棗も焦りすぎなんだよ。頭を冷やす時間が必要だ」
棗の懇願と鬼灯の動揺が、萌黄の脳裏にフラッシュバックする。さらに続くのは、勇者が来るまでの、貧しくても平和だった三年間の日々。
あの時間に戻れるまでには、まだ勇者から逃げなければならない。棗の言うとおり、家宝を渡し降伏すれば、うまく行けばもう勇者四人衆は襲ってこないだろう。だが相手には鬼灯に強い恨みをもつ千臣がいる。彼なら引き続き襲ってくるかもしれない。しかも、輝く魔水の力を得た仲間たちと共に。
逃げるのか、戦うのか。あたしも、決断しないといけないんだわ。
「母さん、あたし先に帰るね」
今は一言告げて、その場を去るしかできなかった。