第四十九話 夢の終わり
ジリジリと焼けるような痛みを感じて、萌黄は目を覚ました。眼前に広がる視界は緑一色だ――頭が冷静になるにつれ、伸びっぱなしの雑草の上に寝転がっていることだけはわかる。だが数十年の夢を見ていたように頭は状況を理解しようとしない。
空は眩しいくらい鮮やかに青く、秋風が頬を撫でている。マイナスイオンをたっぷり含んだ爽やかな空気が、呼吸するたびに軋む肺に満ち、そして心のもやを浄化していく。どこからか耳に届く木の葉のざわめきが心地よく、このまま眠ってしまいたいと心底思う。
足元に視界を落とす。十メートルほど離れた大樹のふもとに、赤茶色の髪の男が倒れているのが見えた。鬼灯だ。
萌黄は記憶の断片を思い出して起き上がり、意識のない鬼灯の肩を掴んで大きく揺さぶった。
「――父さん!」
着ているトレンチコートの上から見る限り、一見傷はないようだ。だが萌黄の不安は消えはしなかった。紫苑を守るために千臣の刃を受けて、以降の記憶はぷつりと途切れている。ここがどこなのか、自分と鬼灯がなぜ倒れていたのか、そして鬼灯は無事のか解らずに、ただ行き場のない思いを鬼灯の身体にぶつけていた。
しばらく思いきり揺すると、彼は悪夢から目覚めたように飛び起きた。
「も、萌黄……大丈夫か? 無理はするな」
じんじんと痛む胸をそっと押さえて萌黄は一つうなずいた。
「紫苑は、いるか?」
「いないみたい。また、どこかに消えちゃったの?」
鬼灯は何も言わず、カラスが輪を描くように飛ぶ遠い空を眺め、
「まさか」
と、突然そばに生えた大樹に手を触れた。同時に、猛烈な音を立てて、樹が破裂するようにはじけ飛んだ。鬼灯の魔術を食らった大樹は、瞬く間に粉々になると風に吹かれ根元の雑草へ向けて飛んでいく。
元に戻る気配はない。
「急に何を」
「ここは現実だ」
「え、どうやって脱出したの?」
「いや、それは――」
鬼灯が言い淀んだとき、北の方からパトカーのサイレンに紛れて、金切り声が聞こえた。もしかしたら紫苑が現れたのかもしれない。鬼灯に手を引かれ、萌黄は咄嗟に駆け出した。
絡み付く雑草と泥に足をとられそうになりながら、森林を進む。近づくにつれ、理解できる声に変わっていく。聞き覚えのある甲高い声だ。
「いやいや、お前はよくやったって、だから、だからさ、泣くなって!」
間もなく人影がひとつ見えた。いや、よく見ればその足元にもう一人横たわっているし、その頭もとに一匹の猫がいた。つまりさっきからずっと喋っているのがエリザベスで、横たわっているのが紫苑、芝生の上に正座しているのは棗であった。
棗は今にも卒倒してしまうほど青ざめており、その小さな手は深紅色の刀身の長剣を強く握り締めていた。紛れもなく鬼の紅剣だ。コピー空間で千臣が「現界に忘れてきた」と言っていた、戦士一族の家宝がここにある。萌黄は朝の光を浴びて光沢を放つ忌々しい妖剣と、棗の姿を目にし、金縛りにあったように動けなくなっていた。
「母さん」
一番に声をかけたのは鬼灯だった。意識を失っている紫苑を一瞥し、棗の隣に腰を降ろす。
「すまない」
「……感謝なら、エリザベスに」
棗の口元は震えている。苛立ちでも憎しみでもなく、底の知れぬ悲しみが言葉からは感じられた。
「だ、だからやめろって。あたいが教えたのは鬼の紅剣なら止められるかもって可能性くらいで、後はお前の度胸だろ。よく坊やを止められたよ」
現実を認めたくなくて、萌黄は近付く気になれなかった。
母さんが鬼の紅剣を握り、自らの手で紫苑を刺した。
それはつまり魔力と過去の呪縛から、真に紫苑を助けることはできなかったのだ。
ねえ萌黄、協力して平和に暮らせる世界を作ろう――。
彼の願いが、硝子の棘のように萌黄の胸を刺していた。彼の願いは、ただの夢幻として消えさってしまったのだ。
「萌黄」
足元にエリザベスが駆け寄ってきていた。でも何を言われても慰めにはならない。萌黄は彼女に背を向けて、自然と流れる涙を拭う。
「やめてよ、もう……」
「ったく、お前まで泣くのかよ。めそめそすんなって! とりあえず一件落着みてえなんだしよ」
一件落着?
エリザベスの疲れ混じりの声で、萌黄は顔を上げた。
萌黄よりも先に意味を理解したのは鬼灯だ。エリザベスの首根っこを鷲掴みにし、今にも彼女を破壊魔術の餌食にしかねなかった。ただでさえ喧嘩っ早い鬼灯だが、今回ばかりは萌黄も同じ気持ちである。身内を失ったばかりの状態で聞くにはあまりに無慈悲な言葉だ。
「は、離せ、何だ急に! 殺す気かよ!?」
「――貴様、この状況で一件落着とはどういう意味だ」
「ああ……もしかして勘違いしてやがるな、紫苑坊やは無事だぜ?」
鬼灯は思わず手を緩め、エリザベスは華麗に着地した。
「棗が鬼の紅剣で坊やの魔力を無効化してる間に、あたいが坊やに詰め寄って、魔力を吸ってやったんだ。ほら、お前の魔力は前に結構返しちまったし。その分たっぷり吸ってやったよ、若い奴の魔力はうまいったらねえや」
伸びをしている彼女の毛並みはいつにもまして美しく艶やかに見える。
「じゃあ紫苑は」
「だから言ったろ一件落着って?」
萌黄は紫苑に近づいた。
着ていた制服は埃や泥にまみれていたが、本人に外傷はほとんど見られなかった。実感が沸かなかったが、鬼灯が感極まって棗を抱き締める姿を見て、ようやく心の楔が取れた気がした。