第三十八話 戦士一族の再臨
「千臣、篤志……!」
見間違えたと思った。だが見間違えるような相手ではなかった。漆黒の髪の、暗き瞳を持った彼は間違いなく、戦士一族の一人ーー千臣篤志だった。
「あんた、何でここに」
萌黄は不意を突かれたことに動揺を隠せなかった。萌黄が必死になっていたとはいえ、これほどの近距離に迫られ気づかなかったのは、彼の実力が更に増しているようにしか思えない。
だが千臣は突如鬼の紅剣から手を離した。鬼の紅剣は萌黄の足元に落ちた。首を捻ると、千臣は芝生に膝をついていた。胸を押さえ苦しむ彼は、鋭い眼差しだけ萌黄に向けて威圧していた。
彼の以前負った怪我が完治していないのは明らかだった。
それなのに漂う殺意が、萌黄から見ても無理にこじつけたようにしか見えなかった。
「あんたに構ってる暇なんてないわ」
彼が落とした鬼の紅剣が目につく。
「待て、お前……弟を止められるのか?」
鬼の紅剣が、握る主なしに、震えだした。まるでびしょ濡れの猫が水を振り払うように、生物のように。くすんだ刃が命を持ったように輝いた気がした。血に飢える剣は我慢できなくなったように刃を天に向け、そのまま千臣の手元に自ら飛び込んでいく。
千臣は鬼の紅剣を強く握った。
「お前が弟を殺せる人間だとは思えない」
「殺すって何よ」
「言ったままだ」
「ふざけないで」
「ふざけてると思うか」
千臣の瞳はいつになく事実を語っていた。萌黄は彼の視線を避けるように踏まれた芝生に目を落とした。
「殺すって、何であたしが紫苑を殺さなきゃ、って殺さなくたって止められーー」
「お前はまだそんな甘い考え方をしてるのか。もうそんな一線は越えてるんだよ。奴にはそんな甘い考えは通用しない。嬢子や松陵が未だ帰ってこないくらいだ。こうともなればこれ以上の被害を出さないよう殺す必要がある」
千臣は氷柱のように尖った口調だった。
飲み込まれたらいけないんだ、目の前にいる奴は、敵なんだ。こんなこと言って、動揺させようとしてるだけなんだから。
心で呟きながら、震える両手を握りしめた。
「そ、それはあんたたちの考えでしょ。あたしにとって紫苑は」
「魔王も奴を殺そうとしてるんだ。いい加減受け入れろ」
飽き飽きした様子で彼は言った。
萌黄は血の気がさっと引いた。
違う。違う。そんなこと、ないってば!
考えとは裏腹に、芝生の上に膝が折れた。その膝の上に、涙がこぼれていた。
紫苑が、殺される。
父さんが紫苑を殺そうとしてる。
千臣も紫苑を狙ってる。
じゃあ、あたしはどうしたらいいの。
「そんなことさせないんだから……」
ようやくしぼるように声を出せたときにはもはや千臣の姿はなかった。
*
真っ白だわ。
今まで必死に強がってた。
あたし、ずっと、紫苑は守ってやんないとって、思ってた。思ってたのに、紫苑はとっくにあたしより強い人間になってた。
それって、喜ぶことかもしれないけど。
でも、千臣にそれを指摘されるようじゃ、駄目だわ。
全部夢ならいいのに。
頑なに閉じようとする瞳に眩しい光を感じる。
あれ、夜じゃなかったっけ?
萌黄はついに目覚めた。天井の蛍光灯は普遍的に輝いていて、身体の下からは畳のい草の匂いが漂っている。開けられた窓からはぼんやりとした日差しがさしこむ。冬を告げる冷たい風がゆったり流れ、部屋の時間を動かしていた。
間違いない。ここは家だ。
身体を起こした。起きればより自宅だということがわかる。ここは寝室だ。窓のそばに転げている目覚まし時計によると、今は九時五分前だ。午前か午後かは言わずもがなだ。
「誰かいる?」
不安が胸をよぎって襖の向こうへ声を出した。誰かが普段通りに答えてくれたら、夢だったって信じられる。心臓が高鳴る。
誰か。
「萌黄?」
いつになく高い声だったから、誰の声なのかわからなかった。萌黄が襖をぼんやり眺めていると、見慣れた顔が襖から覗きこんできた。赤茶けた髪、ボタンが一つ壊れたままのコートの男は萌黄の姿に目を見開いていた。
「萌黄……」
「父さん!」
萌黄は思いあまって鬼灯のもとへ駆け寄った。やっぱり全部夢だったんだよ。安心していた萌黄の頭に掛かったのは、重く濁ったため息だった。
「父さん?」
「……自分の置かれている状況わかっていないんですか、お姉さま」
その低い声とともに襖を開け放ったのは、宿敵である少女だった。彼女が鬼灯の隣にいる。さらに彼女の陰には金髪ピアスの少年と、やつれた黒髪の少年が立っていた。
悪夢にも程がある。