第三十六話 エリザベスの妙案
エリザベスをアパートに残して外に出た。世界は闇に包まれたように静まり、ただ丸く輝く月の光だけが寂れた住宅街をほんのり照らしている。
萌黄はスニーカーの靴紐をぎゅっと縛って歩き出した。隣の家のシェパードは吼えることなく冷たい目で見ている。気が気でない萌黄は姿に気づくことすらなく目の前をすり抜けていった。
エリザベスの妙案は、非現実的なものだった。
『元に戻すってのならいい妙案があるぜ。でも知らねえぞ、お前が死ぬことになるかもしれねえ』
『何、それ』
『坊やはあふれる魔力で暴走してやがるんだろ? じゃあ魔力を封印しちまえばいいんじゃねえか』
『封印って、どういうこと?』
『外からの力で制御してやるってことだよ』
『そんなことできるの?』
『できるも何も、お前は知ってるはずだぜ。魔力を無効化する魔界最強の剣、鬼の紅剣を』
エリザベスが囁いた声に、震えあがるとともに血の気が湧いた。鬼の紅剣は、戦士一族の家宝であり、今はその末裔である千臣篤志が所持しているはずだ。彼は敵だ、いや単なる敵ではない、彼から取ってみれば宿敵であり一族の仇である。
萌黄たちの側から見ても、平穏な家庭を、生活を破壊した敵であることは変わりない。
「何であいつを頼らなきゃなんないのよ……」
重く呟く心とは裏腹に、身体は白の外壁に囲まれた総合病院の門の前に立っていた。千臣篤志はここの隔離病棟に入院しているままだろう。病院という場の静けさの中に紛れた救急車のサイレンがぐっと胸に刺す気分がした。髪を撫でる風もいつもより冷たく感じる。容赦なく吹き付ける風の中に溜息を一つこぼしてみる。
事件から今まで、重傷を負っている彼の容体が変わっているとは思えない。彼のもとにあるのであろう鬼の紅剣を発見さえできれば、奪うことは容易いはずだ。そして彼の仲間たちは、紫苑によって消されてしまっている。それに魔神の水晶があれば彼らは近づけない。
恐くはない。
恐くなんてないけど、悔しかった。
何であんな奴を頼らないといけないの。
やっぱりだめ。やっぱりやめよう。あんな奴を頼るなんてこと、地球が反対回り始めようが駄目。
踵を返して、まっすぐ家に戻ろうと振り向いた。
「ちょっとお姉さん」
背中に声を感じて、もう一度総合病院の側に首を戻した。長くカールを巻いた黒髪の少女が、闇に溶け込むようにして立っていた。似つかない白のファーコートが風に揺られている。まるで死神のように優越した表情を萌黄に向けていた。
萌黄は彼女のことを一度だけ見たことがあった。だからこそ、何も言えずに彼女の不敵な笑みを見ているしかなかった。
「あんた……」
「改めまして自己紹介ね。都束輝、盗賊一族の一人。よろしくね」
距離を保ったままなれなれしく挨拶をしてくる輝は、萌黄の様子に気づいていたようだった。
「輝が何でこんなところにいるのかって顔してるね。輝はあのとき、魔王子の不意打ちを食らって、あの場からいなくなったって思ってるよね? 輝だってよくわかんないんだけど、あの後気が付いたら、輝は魔王城の地下牢に入れられてたの! とにかくよくわかんないんだけど、そこから脱出してこっちの世界に帰ってきたわけ」
輝の早口が輪をかけて萌黄の理解を妨げたが、どちらにせよ萌黄の頭はクラッシュしていた。勇者四人衆が無事だということ。紫苑の力がどのようなものなのか結局わからないが、ただ一つ言えることは、ほかの二人も無事かもしれないということだ。
「あ、そうそう、そんなことよりも、魔王様ってばいったい何考えてんの? まさかあんなことし出すなんて……魔王女ならちゃんとそういうの止めてくれないとさ」
「何の話よ」
「へ、知らないの?」
「だから何の話なの? 父さんがどうしたの」
「君の弟、紫苑君を――殺そうとしてたわよ?」
ぼんやりする頭に雷が落ちた。
意味が分からず咄嗟に輝の腕をつかもうとしたが、彼女は魔神の水晶に阻まれて突き飛ばされてしまった。コンクリートに叩きつけられた輝は口を尖らせて萌黄に突っかかろうとした。だが魔神の水晶を恐れて諦めて地面を踏みつけるだけで終わった。
「あん、輝に当たらないでってば!」
「あんた、盗賊一族って言ったわね? そうやってあたしを騙そうなんてたちが悪いにもほどがあるわよ」
「嘘だと思ってる訳? 輝は見ちゃったんだってば、本当だって。ここから南南西の方角に非常時の避難場所にされてる公園あるじゃん、名前忘れたけど。そこからすっごい魔力の気配がしたんだ、だから輝、こっそり忍び込んだら……見ちゃった。魔王と魔王子が対峙してるとこ。さすがに怖くて逃げてきて、今こうやって千臣君に報告しようと来たんだって! 本当だよ! 行ってみたらわかるってば……」
輝の早口がますます加速したときだった。
風が一瞬、止まった。
そして次の瞬間には耳を突き抜け、建物を突き抜ける大轟音が夜八時の街がすべてを揺るがした。
暴風が顔に加減なく激突する。病院の植え込みのひ弱な枝は複雑骨折を起こし、ぶらさがっていた枯れ葉は北の空へひとつ残らず吸い込まれていった。
それはたった三秒の出来事だった。
「ううう、輝の髪がぐっちゃぐちゃ!」
暴風が去り、爆発した髪を手で押さえている輝の脇を、萌黄はすり抜けていた。
「……あんた、情報ありがと」
きょとんとする輝の顔を一瞥して、萌黄は不順なる時を使い飛び出した。
あの轟音――間違いなく父さんが本気を出している!