第三十三話 勇者達の抹消
凍ったような一筋の風が、沈黙の空間に流れた。
そこにいたはずの少女、声を上げていたはずの輝。存在した事象。痕跡のすべてが無と化していた。
誰も声を出せなかった。嬢子と松陵はまだ何が起きたのかわかっていない。それは萌黄だってそうだ。紫苑の使用魔術・空想とは、本人もしくはそれに触れているものの空間移動術である。だが消えたのは輝のみ、紫苑はグラウンドに影を落としている。
まるで紫苑じゃないみたい?
そんなまさか。だってあの姿は朝見た紫苑とまったく同じじゃない。
足から頭まで一通り疑惑に満ちた目で眺めていると、彼は萌黄のことなど見向きもしないで一歩踏み出した。萌黄には紫苑の表情はうかがえない。でも嬢子は震えている。松陵は小さい彼女を守るようにして強く仁王立ちした。
「輝をどこにやった?」
紫苑が松陵へ首を傾けた。青ざめる松陵がいた。いたはずなのに、瞬きする間に消えていた。
世界は何事もなかったように回っている。
紫苑も何事もなかったようにもう一歩進んだ。嬢子が見上げる先には紫苑がいる。
「紫苑さ――」
天秤魔術を使おうとしたのだろう、嬢子は数センチだけ宙に浮かび上がったように見えた。
だがそこには、黒雲と、急にもたらされた豪雨があるだけだった。
耳がおかしくなりそうなくらいの雨音。雷鳴も聞こえてくる。
それよりも萌黄は彼らを悉く消し去った彼のことで頭がいっぱいだった。どう声を掛けたらいいのか、いや果たして声を掛けられるムードなのか。それよりも彼は本当に紫苑なのか――。
彼は振り返った。萌黄はぼんやりする視界の中で彼の顔を見た。
瞳を閉じたまま立っていた。口も平べったく閉じている。全てを閉じているというのに、それだけで圧倒される雰囲気があった。普段の彼ではない。逆鱗に触れられた龍のような、混沌とした感情がその瞳の奥から感じられる。
いったい何があったの?
固く閉じた口は開けなかった。でも開かなくては。強引に口を開こうとした萌黄は息が止まった。
紫苑が目の前に立っていた。
雷鳴を背に立つ姿は萌黄に暗い影を落とし、地面に這ったままの萌黄からすればその姿はまるで神様のようだった。
「し、おん」
自分の声がなぜか震えていることに気づいた。そんな気はなかった。なのに、身体が彼を恐れている。
彼の瞼がぐっと開かれた。そこから覗いたのは、黒い瞳ではなく、ルビーのような赤い瞳だった。
この、赤い瞳は――。
萌黄は揺らぐ意識に耐えるしかなかった。
だが、彼の右腕が萌黄に伸ばされた瞬間、目の前が真っ暗になっていた。
*
萌黄。
紫苑の声がする。まさか、あれって夢だよね?
しかも特上の悪夢。
だって、紫苑があんなに強がれるわけない。
あたしの知ってる紫苑は怖がりで弱虫で、生意気な、普通の中学二年生なんだよ。
それがあんなことになるなんて、ないよ、絶対ないってば。
萌黄?
起きたら今日も鳴ってるんだろうな、スタートリガーのテーマ。
萌黄!
何よ、うるさいわね、もう少し、寝かせてくれたって。
「――萌黄!?」
柄にもない高い声が耳をつんざいた。目を開くと棗の必死な表情が覗きこんでいる。
「母さん、起きたの!?」
鬼灯の重傷を治すために儀式を行って以来ずっと眠っていた母、棗が目覚めていた。起きて幸先嬉しいニュースだ。あんな悪夢なんて忘れてしまえばいい。だから近寄ってきた母を無理に抱きしめて、リビングのソファーの上で喜んだ。
「よかった、母さん元気で。もう皆大変だったんだよ。特にあのキッチン見てよ、皆掃除しないから散らかったままなんだ。あたしもたまに手を付けてはいたんだけど……」
「萌黄、あなた一体何があったの? 体操着姿のままで玄関に倒れていたのよ?」
「え?」
改めて自分の服を見た。黄色いゼッケンが胸についている。確かに体操着のままだ。全身が茶色くなっているのは土煙を被ったせいだろう。
夢、じゃない。
あのとき起こったすべてのことは、全部。
「早退したってことにしたのよ。そうしたらあなたの友達が家まで荷物を届けてくれたわ」
棗はキッチンに戻り、やかんにお湯を沸かし始めている。よく見れば流し台はもう銀色に戻っていて、きれいになっている。ベランダからは豪雨が一変して、オレンジ色の夕焼けが差し込んできている。あれからもう四時間は経ったのだろう。
「襲撃されたってのか?」
寝室から白猫エリザベスがのそのそと歩いてきた。本来夜行性の彼女は、騒動が片付いて以来この時間に起きてくるようになっていた。萌黄を退かしてソファーの上に飛び乗るなり、溜息らしくこぼした。
「戦士一族がやられて復讐ってとこか? 勇者四人衆ってのはやることが簡単に読めるな。帰ってきたってことは悉く返り討ちにしてやったのかよ」
「――紫苑が全部消し去ったのよ」