第三十一話 暗闇の中の少女
「それにしても一件落着って感じじゃないのかな」
今朝の紫苑の機嫌はよかった。今朝放送されたスタートリガーの内容が、魔王の腹心に追い詰められる状況だったのもその理由だろうが、何よりも昨日のニュースの内容こそ彼の喜びの何よりの理由だった。萌黄が「もしかしたらあの被害者は千臣かもしれない」と言っただけだというのに、彼は世界が再構築されたかのように捉えていた。
「実際本気で俺たちを倒したいのは戦士一族だけだったんだ。他は魔王家の血を集めるやら何やらって言っても冗談交じりだった。当たり前だけどね、他の一族には俺たちに対する恨みがあまりないから。あるのは勇者四人衆としての義務だけ。それはもう魔界から追放したことで達成してるし」
「でも千臣篤志を倒したのは一体誰なのかしら」
「父さんだろ。それ以外誰が倒せるのさ」
「でも父さんは倒してないって言ってたじゃない」
「ごまかしてるだけだね。それか、あまりに敵が呆気なさ過ぎて未だ実感ないとか」
ここまで言われるともう萌黄には口出しできない。事件の被害者が千臣であることはまだ不確定なのだし、もしかしたら今日何事もなく教室に顔を出しているかもしれない。いや、千臣が倒されるということ自体不可解なのだからその可能性のほうが高いのだ。でもそれは言えない。こんな元気を取り戻した弟を見るのは久しぶりなのだ。邪魔はしたくない。
しばらくの間だけでも夢見させてあげよう。それが姉としての役目だ。
校門を通り、イチョウの木々が黄色を連ねる校庭を進む。校舎を挟んで奥の運動場が覗いて、今日は体育があることを思い出した。確か今日からは陸上競技で、体育教師は槍投げか砲丸投げか何やらを始めるといっていた。腕力に自信のない萌黄にとっては憂鬱である。
背後を歩く影が消えていることに気づいたのは校庭を抜けた直後だった。
「――紫苑?」
振り返ると、日常の賑やかな登校風景が広がっていた。校庭いっぱいに広がって歩く生徒たちの笑い声があちらこちらで聞こえる。だがそこには彼の姿はなかった。
「紫苑、どこ行ったのよもう」
嫌な予感がした。千臣が消えたあの日に感じたもやもやが頭の中を覆い尽くしているのを感じた。
でもちょっと待てよ。確か、今朝スタートリガーを見ながら言っていた気がする。今日は日直だから職員室に寄って鍵を取りに行き、教室を開けなければならないとか。
勝手に職員室に行ったのだろうか。もしかして、彼が声を掛けたにもかかわらず気づいていなかったのかもしれない。
案の定、萌黄が二年生クラスを覗いてみたら教室を開いた紫苑がいた。
ホームルームを知らせるチャイムを聞きながら、萌黄は四階への階段に足を掛けた。
*
体育の授業は、萌黄にとって点数稼ぎの科目であった。短距離走もマラソンも水泳も、ただ単純に同じ行動を繰り返す種目というのは萌黄の使用魔術「不順なる時」を使えば楽勝だった。自分の行動速度を速くしてしまえば、一位を取るのも容易である。でも普段は目立つことを嫌って中の上ぐらいの成績に収まるよう調整はしている。また球技の中でもドッジボールは十八番で、投げはともかく、一度も当たらずに逃げることだけは誰にも負けない。
そんな中、投げ競技には魔術は効かない。自分の動きを速くしたところで何も意味はなく、不順なる時の性質上自分以外のものには魔術を掛けられないため、まったくごまかしがきかない。
今までドーピングをしてきた自分自身が悪いのだが。
「萌ちゃん元気ないね。体育得意なのに」
グラウンドのジョギングをしながらリッちゃんが愛想笑いをしている。彼女は運動が苦手だがそんなことは気にしない性格だ。
「うん、さっきまで晴れてたのに曇ってきたせいかな」
朝まで快晴だった空は、三時間目の体育のころには曇ってきていた。
「あれえ本当だ。傘持ってきてないんだけど大丈夫かなあ」
確かにあの黒い雲は雨雲だろう。雨が降れば体育も途中で切り上げることになる。それでいいからさっさと雨が降り始めてほしい。萌黄は勿体ぶる空に口を尖らせる。
空ばかり見上げていてジョギングの列からずいぶん離れていることに気付いた。列の最後尾でリッちゃんが大きく手を振っている。いけないいけない。萌黄は「不順なる時」で一気に距離を詰めようとした。足首に力を込め、それを開放する――。
リッちゃんの姿を捉えていた視界が、突然真っ白になった。
「え……」
雷が近くに落ちたのかしら。
真っ白になった視界は次第に黒白の点滅に変わり、しばらく視界が落ち着きそうになかった。
「リッちゃん、どこ……?」
深い霧をかき分けるように腕を思い切り伸ばした。
その瞬間、膝が折れた。
地面に叩きつけられた腕も鉛と化したように動かない。どころか、身体全体が地面の上に転がって動かない。
この感覚は経験がある。
「お姉さま、私たちに殺されちゃってください」
ようやく戻ってきた視界に映ったのは空を飛ぶ少女と少年だった。