第二十六話 二つの家宝
「飲んだ、のか?」
「飲む気なんてさらさらなかったんだけどね……勝手に喉に入ってきたんだから仕方ないだろ。ああ、生きてるだけマシだと思おう……」
父の背から足を離し、紫苑はもう一度輝く噴水を一瞥した。
何事もなかったかのように、噴水は噴き上げては零れ落ちている。
「身体は、大丈夫なのか?」
無責任な父親にしては珍しい一言だった。それでも紫苑はふてくされたまま口を尖らせている。
「打ったところはまだ痛いよ」
「それはどうでもいい。気になっているのはだな、輝く魔水を飲んだ影響についてだ。身体の中は何ともないのか」
「……見ての通り元気だけど」
精神的なダメージは酷いものだけど。
凶器を捨てた殺人犯のように両手を広げてみせた。鬼灯は何も言わずに、全身を撫で回すように紫苑を眺めている。マネキン相手ならウインドウショッピングの、女性相手なら間違いなく変態の眺め方である。
「何でそんなにじろじろ見てるんだよ、俺なら平気だって」
「いや……どうしようか迷っているのだ。飲んでも身体に差し障りないなら飲んだ方がいいのかどうか」
「飲むって、父さんが?」
「ああ。輝く魔水は魔力を自然に増幅してくれるのだぞ。それを体内に持っていれば、私はますます最強化できるのではないか……とは言っても家宝であるし飲み物でもない、どうなるのかはわからんし、これが原因で破滅してしまったら元も子もないだろう。それなら素直に現状を維持しておくべきなのか」
「好きにしてよ。それよりも『例の石』って言うのはどこにある訳? それを探しに来たんだろ」
鬼灯が魔界に戻ると言った原因であり、エリザベスも納得して見送った『例の石』。そこまで言うからにはただの石ではないのだろう。だがこの黄金の間にあるというのに、部屋の中は輝く噴水しかない。
結局紫苑の経過を待ってから飲む、と勝手に決めた鬼灯は噴水の中に手を突っ込んだ。まだ力が欲しいのか、あきれて見ていた紫苑だったがその考えはすぐに消えた。鬼灯が噴水の底から掴み上げてきたのは、ガラスのように透き通った、ほんのり赤い丸い石だった。手渡された紫苑はその中身を覗き込むように見始めた。
「この黄金の間の結界を張っているのが、もう一つの家宝であるこの『魔神の水晶』だ」
言って鬼灯は再び噴水の中から同じ石を取り出して見せた。どうやらこの噴水の中に沈められている石は一個だけではなく、最低五個は存在するようだった。
「魔神の水晶さえあれば、効果範囲に他人の侵入を防ぐことができる。もちろん勇者四人衆も例外なく結界にはじき出される」
「これがある場所は安全になるってことだね」
「それだけではないぞ、この水晶をちょっと砕いてやって効力を弱めておけば、学校に行くときのお守り代わりにもなるだろう。奴らに突き出してやれば全く近寄れんからな。一個ぐらいならここから持ち出しても構わんだろう」
「砕くって……それ家宝なんだよね?」
口だけで答えておいて、改めて魔神の水晶を見つめた。一見透き通っていると思っていたがそうではないようだ。粉雪のような物質がその中を漂っている。ふわふわと動き回り、命を持っているかのようだ。どうもこの水晶の中には水が入っているらしい。
砕いても大丈夫なのかなあ。
後々が不安になる。
「紫苑、用は終えた。早く帰るぞ」
余分に手に抱えていた水晶を噴水の中に返した鬼灯に揺さぶられて紫苑は我に返った。考えるのは後でもいい。今はとにかく早くここから離れることが先決だ。危険の中にいることはできる限り避けておきたいのは二人とも同じだ。
左腕に魔神の水晶、右腕に鬼灯に触れ、紫苑は温かい家庭を思い浮かべていた。
足音が頭の中を駆け抜けていくのを、確かに感じながら。
*
「――うわ!」
エリザベスの叫び声だというのは考えるまでもなくわかった。同時にわかったのは、現界に無事に帰ってきたということと、その帰ってきた場所が偶然エリザベスのちょうど真上だったことだ。
「ふざけんじゃねえ、さっさと降りろよ!」
前触れもなく紫苑に圧し掛かられたエリザベスは、紫苑が降りても機嫌を悪くしたままで――いや、むしろ機嫌が悪くなっていく一方だった。苦笑いで諌めようとしても、火に油を注ぐようなものだったが、その口調がむしろ今まで心配していた反動なのかと思うと、紫苑は素直に叱られつづけるしかなかった。
「ったく、マナーってもんがなってねえよ。鬼灯もそれぐらい教育しておけよ」
紫苑が大人しく聞いているにもかかわらず、鬼灯は魔神の水晶を眺めたまま冷めた表情で突っ返す。
「私は教育はせんぞ、教育をするのは基本的に学校と教育係だろう」
「何だお前育児放棄する気かよ、偉いご身分だな」
「わかってなかったのか? 私は魔王陛下だ、偉いご身分なのは言うまでもない」
「……お前に喧嘩売るのが馬鹿だったぜ。それはそうと棗の世話はちゃんとお前がしろよ。あたいの仕事はここまでだかんな」
数時間経っていたはずだが、棗は未だあの時のまま布団の上で眠っていた。
「母さん、帰ってきたよ……」
敷かれたままの自分の布団に寝そべって、紫苑は無意識に呟いていた。呟いて、いつのまにか気を失っていた。
やっぱり隣に母さんがいないと眠れない子供よね。
頭元でささやく萌黄の言葉なんて、聴かなかったことにしておこう。
二章はこれでおしまいです。
これから視点は萌黄に戻ります。
あと、三章を始める前に二章のまとめとちょっとした番外編を挟もうと思うので、そちらもぜひご覧ください。