俺のユニークスキルは、ひとりの時だけ発動する
目覚まし時計が鳴る三分前に、俺は目を覚ました。
最近は、目覚ましより先に目が覚めることが増えた。別に健康的な生活をしているわけじゃない。昨夜も、寝る直前まで動画を眺めていた。
枕元のスマートフォンで時刻を確認する。
午前六時二十七分。
あと三分でアラームが鳴る。
止めようかとも思ったが、どうせ起きる時間だ。俺は布団の中で天井を見つめた。
今日も仕事か。
起き上がるまでに、五分かかった。
台所でインスタントコーヒーを淹れ、食パンを一枚焼く。テレビも点けた。真剣に見るわけではない。音がないと部屋が静かすぎるからだ。
朝のニュースでは、東京のダンジョンで新しい階層が確認されたという話題を取り上げていた。
『今回の調査には、十七歳の若手探索者も参加しました』
画面の中では、若い男が笑顔でインタビューに答えている。背後には、黒い岩肌に囲まれたダンジョンの入口が映っていた。
ダンジョン。
世界にそれが現れてから、ずいぶん経つ。
今では、そこにあるものとして扱われている。日本にもいくつものダンジョンがあり、北海道に一つ、東北に一つ、関東には三つ。大都市を中心に配置され、周辺には施設や店ができた。ダンジョンが現れたからといって、住民が街を離れなければならないわけでもない。
十五歳になると、誰でもダンジョンに入って覚醒の儀を受ける。そこでスキルを授かる。
探索者として生きる人もいれば、仕事に役立つスキルを使って普通に働く人もいる。特別なスキルがなくても、生活に困るとは限らない。
ニュースに出ている若者は、探索者として成功した側の人間だ。
俺は焼いたパンをかじった。
その若さで、あんな場所に入るなんて、怖くないのだろうか。
そう思いながら、俺も十五歳の頃にはダンジョンへ入ったことがあるのを思い出した。
覚醒の儀の日だけではない。あの頃は、何度か自分の意思で潜った。
授かったスキルの名前は、今でも覚えている。
――孤独者。
ユニークスキルだと聞かされた時、少しだけ期待した。珍しいスキルなら、きっとすごい能力に違いない。
だが、詳しい説明は出なかった。
発動方法も分からない。身体に変化が起きたわけでもない。表示されたのは、スキル名だけだった。何度か試してみても何も起きず、周りの同級生たちが自分の能力を使い始めるのを見て、俺はダンジョンへ行かなくなった。
その頃の俺は、三十歳を過ぎても童貞なら魔法使いになれる、という話を本気で信じていた。
あれも、何も起きなかった。
世の中、思ったより何も起きない。
食器を流しに置き、スーツに着替える。洗うのは帰ってからでいい。帰ってからも洗わないかもしれない。
テレビでは、ダンジョン周辺の経済効果について話していた。
「行けば、なんか変わるのかね」
独り言を口にして、俺は少し笑った。
変わるわけがない。四十代のサラリーマンが、今さら探索者になれるはずもない。なろうと思ったことさえなかった。
俺は鞄を持って、いつもの時間に家を出た。
*
会社での俺の役割は、誰かが忘れた仕事を拾うことだった。
もちろん、正式な役割ではない。誰が担当するのかはっきりしない雑用が、職場にはいくつもある。誰かが気づいて、誰かが引き受けなければ、そのまま残る。
そして、俺はだいたい気づいてしまう。
「悪いんだけど、この資料、今日中にまとめてもらえないかな」
午前中、後輩にそう頼まれた。
彼が作るはずだった資料だ。提出期限は今日の夕方。俺は自分の仕事を確認してから返事をしようと思った。
少し待ってもらえますか。
そう言えばいい。
俺の仕事だって、暇ではない。頼まれたことをすべて引き受ける必要はない。分かっている。
「ああ、いいよ」
口から出たのは、いつもの返事だった。
「助かります。すみません」
「大丈夫。こっちでやっておくよ」
大丈夫ではなかった。
昼休みを少し削って、午後の仕事を後ろにずらし、なんとか資料をまとめた。提出すると、上司はざっと目を通して頷いた。
「よくまとまってるな。これなら問題ない」
後輩が俺に頭を下げた。
「本当に助かりました。長谷川さんがいてくれてよかったです」
その言葉を聞いて、俺は少しだけ気分がよくなった。
こういうところが、たぶん駄目なのだ。
感謝されると嬉しい。頼りにされたと思うと、断れなかった自分を正当化してしまう。
その結果、仕事は増える。
給料は増えない。
定時を少し過ぎて会社を出た。コンビニで値引きシールの貼られた弁当を買い、家へ向かう。
途中、ダンジョン行きのバス停の前を通った。
探索者らしい若者が二人、並んで立っている。背負った大きなバッグには道具が詰まっているらしい。片方はスマートフォンを操作し、もう片方は小型カメラを調整していた。
配信でもするのだろうか。
俺は二人を見送って、帰宅した。
*
玄関の電気を点け、テレビを点ける。
部屋に誰かがいるわけではない。それでも、帰宅するとまずテレビを点ける。ニュースでもバラエティでも、音がしていればよかった。
弁当を食べながら、画面の中の芸人が笑うのを眺める。話の内容は頭に入ってこない。食べ終わると、パソコンを起動した。
動画サイトを開き、新着動画をいくつか見る。関連動画をたどっているうちに、最初に何を見ようと思ったのか分からなくなった。
探索者の攻略動画。
装備の比較動画。
ダンジョンで採れた素材を料理する動画。
それから、探索者たちが情報交換をしている掲示板。
書き込みの流れは速い。高額装備の話や、攻略隊の募集、配信者の評判が次々に書き込まれていく。
【ソロで潜るやつって何考えてんの?】
【浅い階層なら普通だろ】
【一人でしか発動しないスキル持ちもいるぞ】
【そういうレアケース引き合いに出すな】
俺は画面を眺めた。
一人でしか発動しないスキル。
そんなものが、本当にあるのか。
俺のスキルは、どうだっただろう。
孤独者。
名前だけなら、一人の時に何か起きてもおかしくない。だが、あの頃は何も感じなかった。条件があったのかもしれないが、今さら考えても仕方がない。
俺は掲示板を閉じ、ライブ配信のページを開いた。
若い女性の探索者が、ダンジョンの浅い階層を歩いている。視聴者は三千人ほど。画面の隅には、仲間の探索者の姿もあった。
「この辺り、前回来た時より魔物が少ないですね」
配信者が話す。
コメント欄には冗談や装備への質問が流れていく。俺はしばらく無言で見ていたが、配信者が笑うと、つられて少し口元が緩んだ。
ダンジョンに入る人間は、みんな強いのだろうか。
そうではないのかもしれない。
ただ、怖くても足を踏み出せる。それだけで、俺とは違う。
時計を見ると、午後十時を過ぎていた。
明日も仕事だ。そろそろ寝なければならない。だが、配信はちょうど探索を終えるところだった。俺は最後まで見てから、パソコンを閉じた。
部屋が静かになった。
テレビはついたままだ。画面では、明日の天気予報が流れている。
テーブルの上には弁当の容器。流しには食器。洗濯物も片づいていない。
いつも通りの夜だ。
いつも通りの明日が来る。
そう思うと、急に息苦しくなった。
仕事に大きな不満があるわけじゃない。生活に困っているわけでもない。誰かにひどいことをされたわけでもない。
それなのに、胸の中には、どこへぶつければいいのか分からない疲れが溜まっていた。
俺はスマートフォンを手に取って、検索窓に文字を打ち込んだ。
《札幌 ダンジョン 入場手続き》
公式の案内ページには、受付時間や必要な身分証、入場時の注意事項が書かれていた。浅い階層は一般の探索者にも開放されている。装備の貸し出しもあるらしい。
最後にダンジョンへ入ったのは、高校生の頃だ。
覚醒の儀の後、スキルの詳細を知りたくて何度か潜った。何も分からず、何も起きず、俺は行かなくなった。
今さら行って、何が変わる。
変わらないだろう。
でも、明日も同じ日を繰り返すだけなら、一度くらい、いつもと違うことをしてもいいんじゃないか。
そんな考えが浮かんだ。
俺は検索ページを閉じようとした。
指が止まる。
「見るだけなら」
誰に言い訳をしているのか、自分でも分からない。
翌朝になれば、この気持ちは消えている。そう思いながら、俺は入場案内のページをブックマークした。
*
次の日、仕事を終えた俺は、家に帰らなかった。
駅からダンジョン行きのバスに乗る。
窓の外を眺めている間、何度も引き返そうと思った。バスを降りて、反対側の停留所から戻ればいい。誰も気にしない。誰も俺のことなど見ていない。
それでも、バスは目的地に着いた。
受付で身分証を提示し、久しぶりに入場すると伝える。職員は特に驚かず、必要事項の確認を進めた。
「探索者証の情報が古いので、こちらで更新しますね。浅い階層でも、無理はしないでください」
「はい」
返事をしてから、自分が何をしに来たのか、ようやく実感が湧いた。
俺はダンジョンに入るのだ。
若い頃の装備は、とうの昔に捨ててしまった。今日は施設で借りた最低限の道具だけだ。何かあれば、すぐに引き返す。探索者というより、見学者に近い。
ゲートの前で立ち止まる。
奥から冷たい風が流れてきた。
俺は深く息を吸い、ゆっくり吐いた。
「ストレス発散、ストレス発散……」
自分に言い聞かせるように呟き、一歩踏み出した。
ダンジョンの中は、記憶よりも静かだった。
施設の音が遠のき、岩肌に囲まれた通路が続いている。天井の魔石が、足元を薄く照らしていた。
浅い階層には、何度か来たことがある。だから迷うことはないはずだ。通路の壁には、現在位置や帰還ゲートまでの距離を示す表示板が設置されている。
俺は表示板を確かめながら、ゆっくり進んだ。
しばらくして、前方で何かが動いた。
足が止まる。
見えたわけではない。音が聞こえたわけでもない。
なのに、そこに何かがいると分かった。
心臓が一度、大きく脈打つ。
同時に、身体の奥で、長い間眠っていたものが目を覚ました。
――孤独者。
頭の中に、その名が浮かぶ。
視界が鮮明になった。遠くの水滴が落ちる音まで聞こえる。自分の呼吸も、靴底が岩を踏む感触も、さっきまでとは違う。
俺は一人だった。
後ろを振り返る。誰もいない。
通路の先にいる何かの気配だけが、確かに感じられた。
その気配を避けるように、俺は壁際へ寄った。やがて、少し先の曲がり角から、小さな魔物が姿を現す。
ゴブリンだ。
掲示板や動画で何度も見たことがある。浅い階層に出る魔物としては珍しくない。だが、画面で見るのと、自分の目の前にいるのとでは、まるで違った。
ゴブリンは、こちらに気づいていない。
俺の身体は、なぜか軽かった。足が勝手に動く。ゴブリンがこちらを振り向くより早く、壁の陰に身を隠すことができた。
どうして今の動きができたのか、分からない。
だが、これが孤独者の力なのだとしたら――。
その時、通路の奥から声がした。
「誰か、いますか!」
若い女性の声だった。
ゴブリンが反応して、声のした方へ走り出す。
考えるより先に、俺は声の方へ駆けていた。
曲がり角の先で、若い探索者が壁を背にして座り込んでいた。片足を押さえ、顔を青くしている。装備は新しい。胸元に初心者向けの探索者証が見えた。
「大丈夫ですか」
「足をひねって……仲間とはぐれました。魔物が来て……」
彼女が俺の腕をつかんだ。
その瞬間だった。
身体の軽さが消えた。
遠くまで聞こえていた音が、急に遠のく。気配も分からなくなった。ゴブリンがどこまで近づいているのか、もう感じ取れない。
俺は彼女の手を見た。
一人じゃなくなったからだ。
孤独者は、誰かと一緒にいると発動しない。
それが、今になってようやく分かった。
「立てますか」
「たぶん……でも、足が」
背後で、ゴブリンの足音が聞こえた。
俺は彼女を立たせ、肩を貸した。
「帰還ゲートまで行きます。歩けますか」
「はい。すみません」
「大丈夫です」
また大丈夫と言ってしまった。
ゴブリンの声が近づく。彼女の体重が肩にかかり、俺の足取りは重い。さっきまでの、何でもできそうな感覚はどこにもなかった。
俺は壁の表示板を思い出す。帰還ゲートは、この通路を戻って分岐を右。さっき通った道だ。
「ゆっくりでいいです。俺が支えます」
彼女を急かさないように歩く。時折、後ろからゴブリンの声が聞こえた。俺は何度も振り返ったが、その姿は見えない。
通路を曲がったところで、魔物の影が近づいてきた。
彼女が息を呑む。
俺は肩を貸したまま、彼女を壁際へ押しやった。ゴブリンの持つ粗末な武器が、俺の上着をかすめる。
痛みが走った。
俺は手に持っていた短い探索用の棒を、夢中で振り下ろした。狙ったところに当たったのかどうかも分からない。ゴブリンがよろめき、その隙に彼女の腕を引いた。
「走れますか」
「少しなら!」
「じゃあ、今だけ頑張りましょう」
二人で通路を進む。
後ろから追ってくる足音はなかった。やがて、表示板に「帰還ゲート」の文字が見えた。ゲートの前には係員がいて、俺たちを見るなり駆け寄ってくる。
「負傷者です!」
俺が声を上げると、係員は彼女を支え、救護室へ案内した。
その場で、ようやく肩の力が抜けた。
「助けてくれて、ありがとうございました」
彼女が振り返って頭を下げた。
「いや、俺は大したことは……」
言いかけて、俺は口を閉じた。
大したことはない。
そう言っておけば、気が楽になる。褒められるのも、礼を言われるのも、慣れていない。
けれど、彼女が一人であの場所に残されていたら、どうなっていたか分からない。
「無事でよかったです」
結局、そう答えた。
係員に傷の手当てを受けながら、俺は自分の手を見つめた。
あの時、確かに何かが起きた。
一人の時だけ、孤独者は発動する。
身体が軽くなり、感覚が鋭くなる。気配を察知できる。けれど、誰かと一緒になった途端、それは消えてしまう。
それ以外に何ができるのかは、まだ分からない。
受付を済ませて施設の外へ出ると、夜風が頬に触れた。仕事帰りの疲れも、肩の痛みも、消えたわけではない。
明日になれば、また会社へ行く。
後輩の仕事を断れず、誰かに感謝されて、結局自分が損をする。そんな毎日に戻るのだろう。
でも、ひとつだけ変わった。
俺には、まだ分からないことがある。
孤独者とは何なのか。どうすれば発動するのか。あの感覚の先に、何があるのか。
知りたいと思った。
俺は、帰りのバス停へ向かいながら、スマートフォンを取り出した。明日の仕事の予定を確認する。その下に、ダンジョンの入場案内ページが残っていた。
ブックマークを消す必要はなさそうだ。
「次は、もう少しだけ準備してから来るか」
独り言に、返事をする人はいない。
四十代、独身、安月給。
それでも――俺の探索者人生は、今日から始まるのかもしれない。




