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タイトル未定2026/03/22 00:03

「……私、見えるんです。幽霊」


 あっけらかんとした女の言葉に、皇帝は青ざめた顔で息を飲んだ。










 李寧国(りねいこく)皇帝の後宮には、百人の妃がいる。

 正妻たる皇后と、九十九人の妾たち。その中で、しがない皇都(こうと)警邏官(けいらかん)の娘である(りゅう) 翠旺(すいおう)は、下級の位にある妃だった。



 下級妃に開放された東屋の一角で、十人あまりの女性たちが額を付き合わせ、熱心に噂話に興じている。一人気ままに後宮内を散歩していた翠旺は、たまたま耳に入った彼女たちの声に驚いて立ち止まった。


「──ねえ、聞いた? 皇帝陛下のお噂」

「もちろんよ! このひと月あまり、怨霊に悩まされていらっしゃるとか」


(怨霊……。あの方が言っていたのは、このことなのね)


 目を(またた)かせている翠旺には気付かず、彼女たちは興奮した様子で、ひそひそ話に花を咲かせる。


「なんでも、ざんばら髪の女の幽霊が夜な夜な陛下を追いかけて、あちこちの妃の部屋に現れるらしいわよ」

「やだ、こわーい!」


 わざとらしく(おび)えた様子で身を縮める娘に、背の高い女性が肩を(すく)めて言う。


「……どのみち、私たちには関係ないわよ。お渡りなんて夢のまた夢だもの」


 あはは、と開き直ったように笑い合う下級妃たち。嬌笑(きょうしょう)は虚しく青天に消えていく。

 ゴクリと唾を飲んだ翠旺は、恐る恐る妃たちに近付いてていった。笑い声が落ち着いた頃合いを見計らい、そっと輪の外から声を掛ける。


「あの……。そのお話……」


 か細いその声に、女たちは一斉に振り返った。

 そしてそこに立っていたのが、貧乏警邏官の娘で見た目も冴えない翠旺だと気付くと、全員で明らさまに嫌な顔をしてみせる。


「……盗み聞きなんて、品がないわよ。翠旺様」

盗人(ぬすっと)は、お父君に取り締まっていただいた方がいいんじゃなくて?」

「あははっ、いやだぁ!」


 かしましく笑い合う女たちの言葉に、翠旺ただはおずおずと微笑むばかり。彼女たちは興醒(きょうざ)めした様子で目線を交わし合い、足早に去っていった。翠旺はポツンとその場に取り残される。


「……早く、何とかしないと」


 彼女の独り言に応じるものは、当然ながらいなかった。







「──まだ、どうにも出来ないのか!」


 雷鳴のような怒声に、居並ぶ男たちがビクリと肩を揺らした。その怒りを一身に浴びた青年は、地に(ぬか)ずいたまま微動だにしない。


 鍛えられた身体に禁色(きんじき)の衣を(まと)い、高座に腰掛けるこの青年こそ、李寧国(りねいこく)第二十三代皇帝・(とう) 獅英(しえい)だった。


 左右の壁際にずらりと並ぶのは、文武それぞれの主だった部署の重臣たち。そして、玉座から最も遠い床でひれ伏すのは、祓魔(ふつま)の若き統括官だった。名を(こう) 清顕(せいけん)という。彼には、このひと月獅英を悩ませ続けている、後宮の幽霊騒動解決を命じていた。

 だが怨霊は未だ、獅英と妃たちの肝を凍らせ続けており、中には泣いて夜伽(よとぎ)を拒む者まで出てくる始末だった。


 子を成すことは、李寧の皇帝の責務の一つと言っていい。だが、獅英の実子の数は、いまだ十分ではない。皇后との間の嫡男と、上級妃・中級妃にそれぞれ生ませた男女、計三人のみだった。


(一刻も早く、なんとかしなければ……)


 武人のように厳しく整った美貌を歪め、獅英は内心の焦りを懸命に押し殺していた。








 その夜の伽役は、上級妃の一人、() 妍麗(けんれい)が務めていた。

 秘戯が一段落し、荒い呼吸を整えている獅英(しえい)を、妍麗は何か言いたげな目で見つめている。獅英はジロリと彼女を見返した。

 常であれば皇帝を帰らせまいと、彼女たちはあの手この手を使って彼の寵をねだってくる。だが今は、「一刻も早く帰ってくれ」と言わんばかりの表情だった。面白くない気持ちを抱えながら、獅英は呉妃に命じて夜着を整えさせる。


 気まずい沈黙が、しばし流れていた。


 獅英の帯を結ぶため、妍麗が彼の正面で膝立ちになる。

 そして、彼女は不意に目を見開いた。


「……ぁ、あぁぁぁ……ッ」


 ガタガタと全身を震わせ、妍麗はその場に凍り付く。獅英は息を飲み、自身の背後を振り返った。


「──ッ!」


 獅英が声にならない悲鳴を押し殺す。


 やはり、『それ』はそこにいた。


 湿った水の匂い、一気に下がった周囲の気温。

 怨霊は薄汚れた流行遅れの着物を(まと)い、乱れた髪の隙間から、(よど)んだ片目で獅英を見据えている。見開かれたその瞳に浮かぶのは、憤怒(ふんぬ)か、恨みか。

 壊れたように震える呉妃の肩を抱き寄せながら、獅英は眼前の怨霊を睨みつけた。女の霊は真っ青な唇を釣り上げ、ニタリと(わら)う。その口の両端は、有り得ないほどに裂けていた。


「うぅ、ぐ……っ」


 呉妃が不穏に(うめ)き、その場に倒れ込んだ。獅英も込み上げる嘔気(おうき)に膝を着く。


(何なんだ、これは……!)


 何度も何度も怨霊に遭遇(そうぐう)したが、異変を感じたのは今日が初めてだった。異様に身体が重い。

 怨霊は(うろ)のような大きな口を開け、獅英に近づいてきた。伸び上がるように覆い被さってくる。

 思わず獅英が目を(つむ)った、その時だった。



 ──ヒィ……ィン……



 物悲しい泣き声のような音色が突如響き渡り、怨霊はピタリと動きを止めた。同時に、爽やかな夜風が吹き込み、獅英を押さえ付けていた嘔気が和らぐ。

 女の霊はぎこちない動きで、音の出どころに目線を向ける。怨霊の視線を追い、獅英も息を飲んだ。


 いつの間にか開け放たれていた、呉妃の寝室の扉。その先に、二胡(にこ)を奏でる見慣れない女が立っている。


(何者だ……?)


 闖入者(ちんにゅうしゃ)楽人(がくじん)顔負けの技術で、二胡をかき鳴らす。場違いなほど巧みな音色に、その場の空気がつかの間固まった。

 彼女は一小節演奏したのち、おもむろに口を開く。


「……下がりなさい、女。まだ間に合う」


 低い琴の音のような声。女は真っ直ぐに、怨霊を見据えた。

 戸惑っている獅英をよそに、怨霊はかすかに逡巡(しゅんじゅん)する様子を見せる。しばしのあと、その怨霊は唐突に身を(ひるがえ)した。


「待て!」


 獅英は咄嗟(とっさ)に後を追おうとするが、膝に力が入らず、逆にその場に崩れ落ちてしまう。

 見知らぬ女は、首を(かし)げて獅英を見つめていた。







「よいしょっと」


 女は、意識を失った妍麗(けんれい)を手慣れた様子で布団に転がし、(えり)と帯を(くつろ)げてやっている。獅英(しえい)は警戒の目で、そんな彼女を見下ろしていた。


「……貴様、何者だ」


 女は、先ほど声だけで怨霊を威圧したことが嘘のように、間の抜けた表情で首を傾げた。


皇都(こうと)警邏官(けいらかん)(りゅう) 才恩(さいおん)が娘、翠旺(すいおう)にございます。輪花殿(りんかでん)の端に住んでいます」


 輪花殿は、下級妃が集まって暮らしている殿舎の一つだ。つまり、この女は獅英の妻の一人、下級妃ということになる。


 バツが悪くなり、獅英はそっぽを向いた。そんな彼を不思議そうに見やり、女──翠旺はおもむろに口を開いた。


「陛下。お言葉ですが、先ほどの『あれ』。早急に対処なさらないと、中々まずいことになりますよ」


 彼女の言葉に、獅英は眉を(ひそ)めながらも返す。


「お前などに言われずとも、手は打っている。──何なのだ、お前は」


 大の男すら縮み上がる獅英の不機嫌に、しかし、翠旺と名乗った女はまるで堪えた様子もない。彼女は能天気に笑い、あっけらかんと言った。


「……私、見えるんです、幽霊。──あれは、ちょっと厄介ですね」


 翠旺の言葉に、獅英は青ざめた顔を引き()らせ、息を飲んだ。









 皇帝は、一日おきに後宮の妃の元を訪れる。相手が誰かは、当人以外には知らされない。

 今宵(こよい)、誰が指名されたか知る術のなかった翠旺(すいおう)は、後宮の入り口近くの生け垣に潜んでいた。皇帝一行が通り過ぎるのを待ち、その後をつけてきたのだ。


 絶句する皇帝と、いつの間にか現れた宦官(かんがん)の呆れた様子にはまるで気付かず、翠旺は呑気(のんき)に言った。


「幽霊がいつ現れるか分からなかったので、ずっと、お部屋の外で見張ってたんです。……途中でちょっとウトウトしてしまって、介入が遅くなりました」


 頭を下げた翠旺に、皇帝はどこか苛立たしげに組んだ腕を指先で叩いている。おや、と首を傾げながらも、翠旺は意気込んで続けた。


「陛下。この件は私に任せてください。きっとお役に立てると思います」

「……ふざけるな」


 獰猛(どうもう)な獣のような(うな)り声に、傍らの宦官が(すく)み上がっている。彼は夜伽(よとぎ)の記録官で、怨霊の登場時には腰を抜かして隠れていた。

 真っ直ぐに皇帝を見つめる翠旺に、彼は侮りと怒りを隠しもせずに言う。


「たかが警邏官の娘に、何が出来る。大体、他の妃の伽の場に忍び込むなど、処罰されても文句は言えんぞ。

……この件は祓魔(ふつま)が動いている。貴様のようなどこの馬の骨とも知れぬ小娘に、出番などない」


 翠旺は目を(またた)いた。


 祓魔は皇帝直属の「何でも屋」だ。その任務の中には、暗殺や呪術すらも含まれていると噂されている。確かに、伽を邪魔する不審者、怨霊騒ぎとなれば、祓魔の官の出番だろう。


 だが、幽霊騒動はこの一ヶ月、一向に解決の兆しを見せない。


 翠旺の言い分を察したのか、皇帝はますます顔を歪め、声を荒らげた。


「この件は対処済だ。間もなく解決する。──妃ならば大人しく、自室で『妃』の役目をこなせ!」


(と言われても……。下級妃なんて下働きと同義だし、召されなければお役目もないのに)


 妃の「役目」と言われれば、つまり、そういうことだ。

 物言いたげな翠旺には構わず、皇帝・獅英(しえい)は宦官を連れ、さっさと()妃の宮を後にした。


 翠旺に「伽」は出来ない。ならば、他の方法で役に立とうと意気込んだが、余計な差し出口だったようだ。


(それなら、……祓魔の邪魔にならないように調べよう)


 翠旺はそっと、袖の中で拳を握った。





 皇帝はその後も、何事もなかったように後宮に通い続けた。だが、()妃の件以降、幽霊に遭遇(そうぐう)して体調を崩す妃が続出した。中には症状が重く、床に寝付いてしまった妃もいる。

 ついには上級妃の親たちからの懇願もあり、皇帝も、「騒動解決まで、後宮に足を踏み入れない」と宣言せざるを得なかった。





 皇帝の渡りが中断すると、毎晩後宮の妃を怖がらせた幽霊は、ピタリと現れなくなった。かといって、皇帝の寝所に現れることもないらしい。

 翠旺(すいおう)は、後宮内であの怨霊に遭遇したことのある妃を、順に訪ね歩いていた。

 地味な下級妃の訪問に、中級妃たちは怪訝(けげん)な表情や、露骨に嫌な顔をしたが、七人いる上級妃たちは、意外にも優しく応じてくれた。生粋(きっすい)のご令嬢である彼女たちにとって、後宮で蚊帳(かや)の外にされ、衣装も装飾品も満足に持たない翠旺は、「(あわ)れむべき弱者」なのだろう。


(うん、ツイてる!)


 嬉々として話を聞きに来た翠旺に、上級妃たちは自分が遭遇した怨霊や、皇帝その人について、彼女が問うままに答えてくれた。






 後宮に現れたのは、先日翠旺も対峙(たいじ)した、あの霊で間違いなさそうだった。


「……今までは、ただ現れるだけだったんですね?」


 コクリと頷いたのは、四妃の一人である(そん) 香蕾(こうらい)だ。翠旺と同い年ぐらいの華奢(きゃしゃ)な妃は、(おび)えた様子でその時の詳細を聞かせてくれる。

 ちなみに、先日の()妃も四妃の一人で、彼女たちはそれぞれ「呉淑妃(しゅくひ)」「孫慧妃(けいひ)」と呼ばれている。


 孫妃の話をまとめると、次の通りだった。


「私の時は、伽が始まる前に現れたの」

「振り乱した髪の隙間から、じっとこちらを(にら)んできて……恐ろしかった」

「他のお姉様方も、幽霊が出るのは(とぎ)の前か終わった後だとおっしゃっていたわ。その、……最中はないみたい」




(ふぅ……む)


 翠旺は顎に手を当てて考え込む。


 現れるのは二日に一度、皇帝の伽を務める妃嬪(ひひん)の寝所のみ。時期も、伽の始まる前か終わりに限られる。

 皇后陛下の宮での目撃談がないのは、皇帝陛下がここ数年、その(ねや)から遠ざかっているらしいことが原因だろうか。



(なにか、作為的なものを感じる。……誰かが、怨霊を誘導している?)



 自らの思考に没頭する翠旺を、孫慧妃は不思議なものを見る目で眺めていた。








 後宮へ続く門が閉ざされてから、十日が経った。


 獅英(しえい)は自室で奏上書に目を通しながら、重苦しい溜め息をついた。


 後宮にいるのは皆、政略のために嫁いできた女たちだ。焦がれる気持ちは微塵(みじん)もない。生まれた子には一定の情は持っているが、獅英にとって、(とぎ)は義務以外の何物でもなかった。


 彼自身の母は、取るに足らない中級官僚の娘だった。獅英は親王として、一生を終えるつもりだった。

 父が早々と玉座を降り、その後は年の離れた義兄が継いでいた。しかし、兄たちは相次いで病や謀略により崩御(ほうぎょ)してしまい、獅英にその座が回ってきた。二年前、獅英が二十三歳の時だった。


 即位した獅英は、親王妃の(こう)氏を皇后に据え、彼女との間の嫡男を東宮に指名した。その他にも、後ろ盾になりそうな官や商人の娘を、吟味して後宮に迎え入れた。「李寧(りねい)の皇帝には百の妃」、などというのは過去の話で、獅英の後宮は質素な方だ。


 天寿をまっとう出来る皇帝は少ない。より多くの優れた息子を、政治の駒とする数多(あまた)の娘を。


 官僚たちに催促されずとも、そんなことは分かっている。母の実家は、後見としてはあてにならない。


「……祓魔(ふつま)(こう)は、何をしている」


 不機嫌そうに尋ねた獅英に、傍付きの宦官は恐る恐る答えた。


「浄化の儀を行いつつ、怨霊の正体を探っているようです。──ですが、あの日以降、あの霊はパタリと現れなくなりました。情報を集めるのにも難儀(なんぎ)しているようで……」


 役立たずが、と吐き捨て、獅英は乱暴に茶を(あお)る。宦官はビクリと肩を(すく)めたが、何かを思い出したように、その糸目を開いた。


「後宮での調査において、高統括官が、あの(りゅう)常在(じょうざい)と何やら揉めていたそうです。統括官の方が、声を荒らげていたとか」


(劉……。あの珍妙な女か)


 調査を任せろなどと豪語していたが、もしや、獅英の命に背いて勝手に動いているのだろうか。

 一度会っただけだが、あの女には、「何をやらかすか分からない」という確信めいた悪印象を抱いている。

 ちなみに常在は、下級妃では貴人(きじん)に次ぐ位だ。地味すぎる装いから、最下位の宮女(きゅうじょ)か何かだろうと思っていた。

 それにしても、いくら祓魔が「皇帝の何でも屋」とはいえ、彼の妻たる女に声を荒らげるとは。


「……見張っておけ」


 切って捨てるような獅英の答えに、宦官はかすかに首を傾げた。







 それから二十日ほど、後宮には静かな夜が訪れていた。

 そうなれば、官たちは現金なもので、早急な夜伽(よとぎ)の再開をせっついてくる。獅英(しえい)は、自分が家畜か何かになったような複雑な心持ちだったが、「自分の足場を固めるためだ」と溜め息をついた。

 今晩の相手に(こう)皇后を指名したのに、深い意味はなかった。一月あまり中断した夜伽の再開であれば、正妻の元に向かうのが筋だと思ったからだ。


「……お久しぶりでございます、陛下」


 黄皇后の顔色は優れないものの、嫌味を飛ばす気力はあるらしい。行事ごとではしょっちゅう隣に並んでいるが、彼女の(ねや)に向かうのは、確かに二年ぶりだった。

 獅英はさりげなく周囲を伺うが、あの怨霊が姿を見せる気配はない。軽く息をつき、獅英は正妻の頬に手を伸ばした。






 伽は怨霊に邪魔されることもなく、呆気ないほど無事に終わった。

 (しとね)に横たわり、獅英(しえい)は気まずい沈黙をじっとやり過ごす。正妻の宮では朝まで過ごすことは、皇帝としての義務だった。

 しとしとと湿った音が、無音の寝室に密やかに響く。気が付けば、長雨の季節が訪れていた。

 妻の寝息を聞くとはなしに聞きながら、獅英は何度目かの寝返りを打つ。偶然、寝所の扉が目に入り、──獅英は飛び起きた。


(怨霊……!)


 ざんばらの髪、恨めしげな目つき。あの怨霊が、皇后の寝所の扉の隙間から、じっとこちらを伺っていた。


 獅英の剣幕に目を覚ました皇后が、「……ひッ!」と引きつった悲鳴を上げる。扉をすり抜けた幽鬼が、二人が横たわっていた寝台に近付いてきた。


 女の霊は、覆い被さるように二人を見下ろす。裂けた唇がニタリと歪んだ笑みを浮かべ、骨と皮ばかりの指が獅英の喉元に伸びてくる。


(──ッ!)


 獅英が目を見開いた、その時だった。





「……はい、そこまで」




 場違いな明るい声に、怨霊はピタリと動きを止めた。








 勢いよく扉を開け放った翠旺(すいおう)は、鼻息も荒く、女の怨霊に歩み寄った。

 いつかの夜にはすぐに姿を消した彼女は、今は戸惑ったようにその場に佇んでいる。翠旺は(たずさ)えていた二胡(にこ)をその場にそっと下ろし、怨霊の華奢(きゃしゃ)な腕を掴んだ。怨霊が振り払おうとするも、びくともしない。

 翠旺はニンマリと笑った。


「演技、お上手ですね。皇后陛下の女官の中に、歌妓(かぎ)出身の方がいらっしゃったと聞きました。……鈴鈴(りんりん)様、でしたっけ」

「なっ……」


 目を見開いた皇帝には構わず、翠旺はまくし立てるように続ける。


「怨霊が現れるのは、皇帝陛下のお相手を務める妃嬪(ひひん)の部屋だけ。(とぎ)役は、その日に陛下が指名なさる。毎回的確に、夜伽が行われる部屋だけに現れるのは、怨霊だからだと思われた。

──でも、この後宮でただお一人。陛下がどの妃嬪を訪ねるか、事前に知る方がいらっしゃいますよね。……正妻以外が伽をする場合は、皇后様の許可書が必要ですから」


 突如名を呼ばれた(こう)皇后の顔が、みるみるうちに顔を青ざめた。

 皇帝が目を細め、生き生きと話す下級妃と、身体を震わせる正妻を交互に見やる。

 翠旺は目を爛々(らんらん)と輝かせ、握ったままの女の腕をねっとりとした手つきでさすった。


「怨霊役に伽を邪魔させるなんて、なかなか(いき)な真似をなさいますね。鈴鈴様も、素晴らしいご演技で! こないだお会いした時、一瞬ホンモノかと思っちゃいましたよぉ。

……夜伽の前に邪魔をするのか、直後に脅すのかは、お相手の妃嬪の方のご身分を考慮されたんですかね? 皇后陛下は親切な方ですね!」


 怨霊──翠旺が皇后付きの鈴鈴と断じた女は、顔を引き()らせて翠旺から距離を取ろうとあがく。よく見れば、裂けた唇もこけた頬も、巧みな化粧によるものだ。

 黙って翠旺の話を聞いていた皇帝・獅英(しえい)が、(かたわ)らの皇后を強く睨みつけた。


「……どういうことか? 皇后」


 冷ややかなその声に、黄皇后は憎々しげに夫の顔を見据える。


「その女の妄言です。私は何も知りません」


 冷静に答える皇帝の正妻に、翠旺はうっとりとした目を向けた。この()に及んでも崩れない矜持(きょうじ)の高さには、惚れ惚れしてしまう。


(素敵! 往生際が悪くて、いかにも、『生きてる』って感じがして……)


 張り詰めた空気の中でひとり、楽しげに笑いながら、翠旺は歌うように反論した。


「そうおっしゃると思ったので、皇帝陛下にご協力いただきました。他の妃嬪(ひひん)の皆さまには、伽の再開は明後日とお伝えいただいたんです。今日も陛下には、後宮に入るまで、祓魔(ふつま)のふりをなさっていただいて。

──今日、陛下が皇后様を(おとな)うことをご存知なのは、皇后陛下だけなんです」


 二十日ほど前から、皇帝配下の宦官につけられていたのは気付いていたので、思い切って伝言を頼んでみたのだ。その宦官は随分と鼻白んでいたものの、無事に話をつけてくれて助かった。今回は怨霊が現れる部屋が分かっていたので、翠旺もぐっすりと仮眠を取れた。


 ふんふんと鼻息も荒く語る翠旺を、皇后陛下はどこかぼんやりと見つめている。皇帝陛下はなぜか遠い目だ。

 翠旺はそんな二人に、なけなしの知識を振り絞り、精一杯の礼をとった。


「……以上が、今宵の幽霊騒ぎの真相です」


 無駄に美しい礼と、丁寧な口上(こうじょう)。皇帝夫妻も怨霊役の女官も、白けた目で、ひとり満足そうな翠旺を見ていた。








 続きの控えの間にいた獅英(しえい)の宦官たちが、一斉になだれ込んでくる。うなだれた(こう)皇后を引っ立てようとするのを抑え、彼は低い声で妻に尋ねた。


「――なぜ、このようなことをした」


 黄皇后──黄氏はのろのろと顔を上げる。その目に浮かぶのは困惑と、深い絶望だった。


「……皇子を(まも)るためです」

「なんだと?」


 理解できずに獅英が顔をしかめると、黄氏は歪んだ笑みを浮かべて答えた。


「私はただ、いち親王妃として、愛する息子と平穏に生きていければそれで良かった。

……それなのに、貴方様は皇帝になってしまった。この二年、一度も訪いのない私の宮にすら、何度刺客が送られてきたことか」


 黄氏との間に生まれた息子は、来年で七歳になる。その年齢まで無事に育てば、当面は安泰だと、東宮としての地位が確固たるものになる。

 逆に言うと、七度目の生誕日を越すまでは、命を落としたとて「神の加護がなかった」と見なされる。その皇子は、跡継ぎに相応しくなかったのだと。

 息子が無事に七つの歳を迎えるまで、今以上に皇子を増やすわけにはいかなかった。

 黄氏は血を吐くように、そう言った。


「誰かを害するつもりも、陛下の面目を損なうつもりもありませんでした。……ただ、この一年を、あの子と無事に過ごしたかった」


 地にくずおれた黄氏に、怨霊役を務めた女官が駆け寄る。ことが露見すれば、彼女も処分は(まぬが)れなかった。それすらも気にならないほど、鈴鈴(りんりん)という女官は黄氏を慕っていたのだろう。


 獅英は、自身の妻を冷ややかに見下ろす。


 唐突に人生が大きく変わり、要らぬ苦労を掛けてしまったのは事実だ。足場固めを優先し、彼女を(おろそ)かにしたことも。

 それでも、彼女は皇帝である獅英の治世にけちを付けた。何より、()妃のように体調を損なう者も多く出た。無実とはいかない。

 獅英は重々しい声で、(うつむ)く妻に冷徹に告げた。


「──害するつもりはなかったと言いながら、毒か何かを用いただろう。呉淑妃(しゅくひ)以降、怨霊の出現時に体調に異変があったのは事実だ。中には今も、目眩(めまい)と吐き気から起き上がれぬ者もいる」


 弾かれたように、黄氏と鈴鈴が顔を上げる。しかし彼女たちが何かを口にするよりも前に、はしゃいだ下級妃が突如、話に割り込んできた。


「……それなんですよ、皇后陛下のすごいところは! 怨霊の『ふり』から、ホンモノを呼んでしまうなんて。ああ、陛下の怨念(おんねん)と、鈴鈴様の才能が(まぶ)しい!」

「……は?」


 露骨に顔を引きつらせた獅英に構わず、両の拳を握り締めた翠旺は、おもむろに二胡(にこ)を取り上げた。左手で楽器を大切そうに抱き、右手でついと遠くを指す。

 獅英が、黄氏たちが、宦官たちが、その動きにつられ、目線を再び扉の外に向ける。

 その場にいたモノに、獅英は全身がザッと粟立(あわだ)つのを感じた。








(──来た。来た来た、来た!)


 はしゃぐ気持ちを抑えきれず、翠旺(すいおう)は目を輝かせて一歩踏み出した。


 宮の奥まった一室であるにも関わらず、暴風と暴雨が吹き込んでくる。燈籠の火は一瞬で消え、木の床が軋む嫌な音があちこちで響き始める。


「きゃあぁぁぁぁ!」


 悲鳴を上げた鈴鈴(りんりん)が、それでも主を守らんと黄皇后に覆い被さっている。皇后は気絶しているようだ。皇帝は仁王立ちになり、宦官たちはガダガダと全身を震わせ腰を抜かしていた。


 翠旺たちの目線の先に、どす黒い「何か」がいる。


 頭、顔、胴体、手、足。その塊を構成するものは、確かに自分たちと同じなのに、「人の姿」だと認識することが出来ない。背丈は、男性としても長身な皇帝の、更に倍ほどもあるだろうか。窮屈そうに、身体を室内に押し込んでくる。

 翠旺は爛々(らんらん)と輝く目をその塊に向け、楽しげな声を上げた。


「……ねぇ、聞こえる? ここまでになったら、きっと二胡がなくても話せるよね? 皆にも見えてるし!

少しお話ししようよ、名無しさ……ッうお!」


 慌ててその場にしゃがみこみ、翠旺は頭を抱えた。勢いよく振り回された腕が、翠旺の身体を叩き潰そうとしたのだ。何名かの宦官が、泡を吹いて倒れ込む。

 冷や汗を浮かべた翠旺の服の襟を掴み、皇帝が力強く引いた。一瞬前まで翠旺がいた場所を、どす黒い腕が再び薙ぐ。

 皇帝は翠旺を背後に(かば)いながら、怒鳴るように尋ねる。


「……おい、お前、調査を任せろとか言っていただろう!? どうにかならんのか!」

「無理です!」


 力強く断言し、翠旺はニタリと唇を釣り上げ、その怨霊を見上げた。

 翠旺には、人には見えない亡霊の姿が見える。()妃の寝所に忍んで行った日も、怨霊役の鈴鈴の背後に、この黒い塊が見えていた。鈴鈴のあまりの演技の上手さに、仲間だと勘違いしてしまったのだろう。皇帝たちが体調を崩したのも、このものの霊気にあてられたせいだ。


(……話聞いてくれたら、何とかなるかと思ったけど。やっぱり無理か)


 翠旺には幽霊が見える。

 が、見えるだけだ。怨霊との会話も、二胡を奏でる間にしか出来ない。

 さてどうすると、翠旺が仁王立ちになって怨霊と向き直った、その時だった。



「──陛下!」



 疾風のように駆け込んできた黒い影が、翠旺と皇帝の前に立ち塞がる。

 背を真っ直ぐに伸ばしたその青年は、怨霊に対して力強く九字を切った。








「……ギぃぃぃッ……!」


 怨霊が悲鳴を上げ、大きく()()る。吹き荒れる風がますます激しくなり、青年が纏っていた黒衣が音を立ててはためいた。

 隙間からのぞいた顔に、皇帝である獅英(しえい)が息を飲む。


(こう) 清顕(せいけん)……!」


 そこに立っていたのは、祓魔(ふつま)の若き統括官、高氏だった。


 彼は怨霊が身動(みじろ)ぐたび、札を投げ、呪を唱え、それを封じる。怨霊は苦悶(くもん)の声を上げ、高氏の攻撃を受ける都度に、影を撒き散らしながら身体を小さくさせていく。大音声(だいおんじょう)の悲鳴に顔を歪めながら、翠旺は二人の対決をわくわくした気分で見守っていた。


 やがて高氏が一際大きく腕を振った瞬間、耳をつんざく絶叫と共に、黒い影は跡形もなく消え去った。







 呆気ない幕引きに、緊張の糸が切れたのか、背後で鈴鈴(りんりん)がすすり泣きを始める。

 その声に振り返った祓魔(ふつま)の統括官は、わけが分からないといった表情を浮かべている皇帝に(うやうや)しく(ひざま)いた。


「遅くなり申し訳ございません、陛下」


 いつも通りの静かな声音に、皇帝は拍子抜けしたように「……ああ」とだけ答えている。皇帝の身体に負傷がないか、ひとしきり確認したあと、高氏はゆっくりと翠旺(すいおう)に向き直った。

 翠旺はニカリと気安い笑顔を浮かべ、若き統括官の腕を叩く。


「お疲れ様でした。相変わらず見事な──」

「……無茶をするなと、何度言えば理解するんだお前はッ!」


 先ほどの怨霊もかくやという大音声に、翠旺はわざとらしく肩を(すく)める。

 ポカンと口を開ける一同に気付かず、高氏は翠旺に盛大な雷を落とし続けた。


「毎回毎回、何度危険な目に()えば学習するんだ! 長官の忠告をなんだと思っている! 犬の方がまだ理解が早いだろう! 毎回俺と組むとは限らないんだぞ!?」

「ごめんごめん、つい」

「『つい』で無策で怨霊に突っ込んでいく奴があるかーッ!」


 高氏が軽く舌を出す翠旺の胸倉を掴んで揺さぶったところで、黙って二人のやり取りを聞いていた皇帝が、無表情で手を挙げた。


「……お前たち、知り合いか?」


 高氏ははっと息を飲み、慌てて居住まいを正す。翠旺は晴れ晴れと笑い、高氏を指し示しながら答えた。


「はい! 自慢の幼なじみです」


 その称号がかなり不本意なのか、高氏はがっくりと項垂(うなだ)れた。







 面白くない。

 気安いやり取りを続ける(こう)氏と翠旺(すいおう)を見つめながら、獅英(しえい)は胸を()ぎる不快感に眉をひそめていた。

 いくら皇帝直属の祓魔(ふつま)とはいえ、彼の妻である女に対して、馴れ馴れしすぎやしないか。

 顔をしかめ、獅英は二人のやり取りに口を挟んだ。


「……幼なじみとはいえ、それは一応下級妃だ。距離を(わきま)えよ」

「あー……」


 初めて、翠旺が気まずそうに目線を()らす。溜め息を零した高統括官が、その場に跪いて答えた。


「……恐れながら、陛下。この者は、下級妃ではございません。我らが祓魔の──女官にございます」

「……は?」


 獅英が目を見開くのを見、翠旺がニカリと微笑む。

 彼女は無駄に優雅に頭を下げ、姿勢を戻すと、獅英を堂々と見つめながら口を開いた。


「改めまして、陛下。(りゅう) 才恩(さいおん)が養女、翠旺にございます。この度、祓魔の一員としてお仕えすることになりました」


 よろしくお願い申し上げます、と微笑む顔が妙に晴れやかで、獅英は目を(またた)かせる。

 弛緩(しかん)した空気の中、高氏が頭痛を堪えるような表情で説明を始めた。


「……この者は、幼い頃から類稀(たぐいまれ)な霊視能力を有しております。その才を見抜いた祓魔の()長官が、祓魔に加えるべく、女官登用試験を受けさせました。

杜長官は、後宮に巣食う『魔』を、長年案じておりました。その正体を見定める駒として、下級妃として後宮に潜入させた次第です。

此度(こたび)の件も、『怨霊』の正体には皆、早くから気付いておりましたが……。どう決着させるかで悩み、これほど時間がかかってしまいました。誠に申し訳ございません」


 その場に(ぬか)ずく高氏を、獅英は無言で見下ろした。


 祓魔の配属は、長官の専横事項(せんおうじこう)として認められており、その任務の特性から、皇帝である獅英すら全員の所在を把握していない。

 だが、まさかこんな珍妙な女を、堂々と下級妃として送り込むとは。


「……もし俺が何も知らず、万が一、いや億が一、この者を伽役に指名でもしたら、どうする気だったんだ?」


 顔をしかめる獅英に、(おもて)を上げた高氏は、気まずそうに目を逸らした。


「この通りの、……どう取り繕っても、珍獣のような女ですので。その可能性はないだろうと、杜長官は判断したようです」


 確かに。


 大いに納得してしまった獅英に、高氏は情けない笑みを浮かべて頭を下げた。


「後宮にはまだいくつも、長年蓄積された不穏な影が残っています。……陛下がお許しくださるのであれば、このままこの者を、後宮に置いていただきたく」


 獅英はチラリと翠旺を見た。彼女は楽しげに目を輝かせ、「よろしくお願いします!」と声を張り上げる。

 皇后・(こう)氏の処遇はこれから考えるとして、ことの真相を知る女を野放しには出来まい。怨霊を見る能力も、祓魔の最強道士として知られる高氏が言うのであれば、確かなのだろう。


 後宮に置いておいても、差し障りはない。どの道、取るに足らない下級妃の一人だ。


 獅英は自身にそう言い聞かせ、鷹揚(おうよう)(うなず)いてみせた。


「……許可する」


 獅英の言葉に、パッと予想外に華やかな笑みを浮かべ、翠旺が恭しく頭を下げた。





 李寧国(りねいこく)が誇る屈指の名帝、(とう) 獅英(しえい)

 その後宮で、なぜかひときわ名を残した下級妃、(りゅう) 翠旺(すいおう)の物語は、ここから始まった。



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