婚約者
「誰がクローディアなの!?」
突如、談話室に飛び込んできたイヴァンの婚約者オリガは、そう声を張り上げた。
美しいビビッドレッドの髪と紅色のドレスが、その勢いに、ばさりとなびいた。
「オリガ――」
イヴァンは、オリガをいさめようと口を開いた。
彼には、彼女がこんな勢いで飛び込んできた理由が想像できた。それは誤解というもので――。
しかし、ほぼ同時にクローディアが腰掛けていた椅子から立ち上がり、オリガの方へ進み出ていた。
「わたくしがクローディア=デピスですわ。ごきげんよう」
軽くお辞儀をするクローディアに、オリガは腕を組んだ。
クローディアを上から下まで睨みつけて、オリガは荒々しく息をついた。
「ふん。確かに、容姿はまあまあね。――でも、しっかりと覚えておきなさい! イヴァンの婚約者は、昔っからこのオリガ=ゼフィールと決まっているのよ!」
そう叩きつけるように言うと、オリガは唐突に、クローディアに向けて右手をかざした。
オリガの意識の集中に呼応して、彼女の手のひらに魔力が引き出される。
「――闇よ。深淵より来たりし暗黒よ」
魔法の詠唱。それも、希少とされる闇魔法を発動させるためのものだ。
オリガの手に集まっていた黒色の魔法が、クローディアの足元に向かって放たれた。
「っ――!?」
息をのむ声は誰のものだっただろうか。
闇魔法がクローディアの足元に着弾すると同時に、彼女の周囲が、光を一切通さない闇に囲われた。漆黒で区切られた領域の内側が、完全な闇に飲み込まれる。
クローディアは、その一瞬で、視覚を奪われてしまったのだ。
生き物が根源的に恐れる暗闇が、クローディアの意識に襲いかかったと言える。
「さあ、光が一切ない完全な闇に恐怖しなさい! ちゃんと負けを認めるなら、許してあげないこともないわ」
余裕の表情で、オリガが言った。
『クローディア様!』
アビゲイルとベラが、同時にクローディアの名を呼び、遅まきながら立ち上がった。
アビゲイルが風魔法の矢をオリガに放とうと息を吸い――。
ベラが時魔法でオリガの魔法の発動を巻き戻そうと集中をはじめ――。
しかし、彼女達が行動を起こす前に。
「――氷よ」
闇の中から、クローディアの言葉が聞こえた。
冷静な、いや聞き方によっては好戦的に歓喜しているような、そんな声色で。
それは、氷魔法を発動させる、短い詠唱。
紡がれた言葉が、冷気を凝縮させ――。
「きゃっ!」
次の瞬間、飛来した氷のつぶてが、上げたままだったオリガの右手を打ち据えた。
オリガはたまらず悲鳴を上げた。
「命中しましたわね? 視界を奪ったことに安心して、その場から移動もしていないなんて。魔法戦闘の経験は浅いようですわね?」
闇の中から、クローディアの声が響く。
その声は、やはり突如始まった魔法戦闘を楽しむような色をしていた。
「それとも、反撃などされないと、慢心していらっしゃったのかしら?」
クローディアの姿は暗黒の中で見えない。
にも関わらず、その言葉だけで気圧され、オリガは一歩下がってしまった。
「ちょっと周りを暗くした程度で、このわたくしをどうこうできると思ったら、大間違いでしてよ。おーほっほっほ!」
クローディアの高笑いが響いた。
途中で、ばさりと扇を広げる音も聞こえた。誰も見えない暗闇の中であるのに、高らかに笑っている姿が確かに見えるようだった。
「ほっ――」
アビゲイルが息をついた。
良かった、いつものクローディアだ。闇の魔法の中でも無事らしい。
「クローディア様、見えないことを良いことに、悪役令嬢に戻っちゃってます」
ベラも、一安心と分かると、ツッコミを入れた。
「――闇よ。その安寧に光明を」
部屋に響いた魔法詠唱はイヴァンのものだった。
驚くことに、オリガだけでなく、彼も闇魔法使いだったのだ。
重く留まっていたクローディアを囲む闇が、イヴァンの魔法により吹き散らされた。
「ありがとうございます。イヴァン様も闇魔法使いだったのですね」
涼しげな表情で闇の中から戻ったクローディアは、イヴァンに向けて礼を言った。
そんなクローディアを、痛みに右手を抑えたオリガがにらみつける。
「オリガ、誤解があるようだから、落ち着いて聞いて欲しい。クローディアは――風?」
イヴァンの言葉は、しかし中断されてしまう。
室内のはずなのに、不自然に吹き始めた風のために。
「アビー?」
連想が働き、クローディアはアビゲイルを振り返った。
アビゲイルはうつむき、わなわなと震えていた。吹き始めた風が、彼女のアッシュブロンドの髪を巻き上げる。
「……突然現れて言いたい放題……容姿はまあまあ? ……魔法で不意打ち? ……ぶ――」
ぶつぶつと、アビゲイルは呟いている。
「いけません! アビゲイル様!」
一瞬後を予期して、ベラが叫んだ。
瞬間――。
「無礼にもほどがありますわぁ!」
アビゲイルが怒りの叫びを上げた。
それに呼応するように、彼女を中心に暴風が吹き荒れた。風魔法の暴走だった。
クローディアにベラ、イヴァンだけでなく、オリガも、壁際まで吹き飛ばされた。それぞれの悲鳴は、風音にかき消されてしまう。
「アビー! タリスマンを!」
何とか体勢を立て直し、クローディアが叫んだ。
アビゲイルは風魔法を暴走させやすい体質のため、母親に魔法制御を補助するタリスマンを持たされているのだ。
クローディアの声に、アビゲイルはタリスマンを取り出し、握りしめた。
しかし、暴風は一向に収まる気配がない。
「クローディア様っ。止まりませんわぁ」
アビゲイルは、泣きそうになりながら、タリスマンを握りしめている。
「クローディア! ここは私が」
イヴァンの声が、暴風を通してクローディアに届いた。
「イヴァン様!」
クローディアの返事を受けて、イヴァンは集中した。
「闇よ。――夢に誘う夜の帷を」
イヴァンが暴風の中心に向けた手のひらから、漆黒の魔法が放たれて、アビゲイルの顔を覆った。
何拍かの後――。
ふっと糸が切れたように、アビゲイルが倒れた。と同時に、吹き荒れていた風が嘘のように消えた。
「アビー!」
クローディアとベラが、アビゲイルへと駆け寄る。
「大丈夫、眠っているだけです」
イヴァンのその言葉に、クローディアは強めにアビゲイルの肩をゆすった。
「アビー! アビー!」
「クローディア様ぁ。わたくし、まだまだ食べられますわぁ……」
何やらむにゃむにゃと寝言を言うアビゲイルに、とりあえずクローディアは安堵した。
もう食べられません、ではなく、まだまだ食べられます、という辺りがアビゲイルらしかった。
「アビゲイル様っ!」
ぺちんと音をたてて、ベラがアビゲイルの頬を叩いた。
「んっ。ベラ、わたくしのスイーツ食べ放題は……?」
どうやら、まだまだ食べられるのはスイーツだったようだ。
ようやく意識を覚醒させたアビゲイルは、クローディアとベラに支えられながら、立ち上がった。
荒れ果てた室内を見て、直前の状況を思い出したのか、アビゲイルは顔を青くした。
「わたくし、また魔法の暴走を……。大変申し訳ありませんでした」
頭を下げられたイヴァンは、気にしないようにと謝罪を受け入れた。
「すぐに部屋を片付けさせましょう。それにしても、アビゲイルは、うらやましいほどの量の魔力を持っているのですね」
アビゲイルは恐縮しきりで、頭を下げたままだった。
「褒めいただく事ではありません。持ちきれずあふれさせていては周囲にご迷惑をかけるばかりで……」
イヴァンは、アビゲイルに歩み寄り、顔をのぞきこんだ。
「どうかそれ以上、謝らないで下さい。その気持ちは、私にも良く分かります。私も小さい頃、よく辺りを真っ暗にさせて、皆に迷惑をかけていました」
アビゲイルは、ようやく顔を上げた。
「イヴァン様……」
アビゲイルに、イヴァンは頷いて見せた。
「それに、元はと言えば、アビゲイルを怒らせる原因を作った者が悪いのです」
そう言ってイヴァンは、暴風に吹き飛ばされて座り込んだままのオリガに向き直った。
「オリガ。クローディア達は――おそらくオリガが聞き及んだように、生贄という名目で、マノン王国から来た者達です。ですが、オリガが心配するように、クローディアを妻にとろうとか、婚約者に据えようなどとは考えてはいません。私的な友人として、帰国の目処が立つまでの間、ここにいてもらうだけです。良いですね?」
むくれていたオリガも、こうして事情を説明されれば、頷かない訳にはいかなかった。
「……分かったわよ」
そう言って、オリガは立ち上がり、クローディアをはじめとする三人に頭を下げた。
「ごめんなさい。私、イヴァンに新しい婚約者が来たと思い込んで、いてもたってもいられなくなってしまって。――失礼な言動、本当にごめんなさい!」
「私からも謝罪させて下さい」
イヴァンはそう口添えして、オリガと一緒に頭を下げた。
正直に謝られて、クローディア達は互いに顔を見合わせた。
オリガの最初の印象はともかく、動機はとても可愛らしいものであるし、クローディアなどはその気持ちも良く分かった。
アビゲイルとベラの表情から、お任せします、という意図を読み取り、クローディアは頷いた。
「オリガ様。イヴァン様。その謝罪、確かに受けましたわ。どうぞ気にせず、これからは仲良くして下さいませ」
クローディアが微笑むと、オリガも恥ずかしそうにしながらも笑顔を見せた。
「ベラ。オリガ様の右手を、あなたの魔法で治療できまして?」
「もちろんです。オリガ様、失礼しますね」
クローディアの指示に、ベラはオリガの手をとると、時魔法の詠唱をした。
時間を巻き戻し、クローディアの氷魔法による怪我をする前の状態にしたのだ。
「あ、ありがとう。でも、治癒魔法だなんて、一体……?」
オリガは、みるみると腫れが引いていく――時間が巻き戻されていく――自分の右手に驚いた。
怪我や病気を治す魔法としては光魔法が知られているが、ベラの魔法は強い発光を伴わない。オリガには、未知の魔法そのものだっただろう。
「本当は秘密なんですけど、時魔法なんです。でも、『とても希少です!』なんて騒ぎ出さないで下さいね」
いたずらっぽくベラはそう言った。
同性同年代の相手で、クローディアの指示ということもあり、ベラの人見知りは発揮されずに済んでいるようだ。
「えっと、あなたは――?」
治療してもらっている相手の名前も知らないことに気付いて、オリガはそう尋ねた。
「私はベラ=クベルドン。クローディア様のストロガノフ王国行きに、勝手に付いてきた下爵令嬢です」
「同じく、アビゲイル=ベグネ中爵令嬢ですわぁ。先程はお騒がせしましたわぁ」
ベラが名乗ったので、アビゲイルも便乗して自己紹介した。
「これでバッチリです。痛みは残っていませんか?」
「ええ、大丈夫。ありがとう、ベラ」
オリガの言葉に、ベラは笑って見せた。
「これは驚きましたね」
そこで、騒ぎにかけつけたアレクセイは、談話室に入り、状況を確認するなりそう言った。
言葉とは裏腹に表情は冷静そのものだったが。
「まあ、どうしましょう! 皆様、お怪我はありませんか?」
ほんの少しの時間差で扉を開けたエレーナは、こちらは本当に驚いて声を上げた。
「ええ、オリガが少し。でも、治療は終わっています」
イヴァンが落ち着いて応えた。
「オリガ様、いつの間にいらしてたんですか?」
「そんなことより、いつまでも皆様をこんなところに立たせている訳にはいきません! まあまあ、こんなに髪型も乱れて……」
まったく動揺せずに尋ねるアレクセイを押しのけて、エレーナが言った。
「お風呂! お風呂の準備をいたしますから!」
◆ ◆ ◆
イヴァンの執務室に、ノックの音が響いた。
「イヴァン様。クローディア様がいらっしゃいました」
外からかけられたアレクセイの声に、イヴァンは書き物をしていた手を止めた。
「入ってもらって下さい」
「クローディア様、どうぞ――」
イヴァンの応えに、アレクセイは扉を開けた。その案内に、控えめにクローディアが入って来た。
エレーナに風呂場送りにされた彼女は、入浴後にもかかわらず、別のドレスをしっかり着付けて出直してきたようだ。複雑に編み込んでいたブロンドの髪だけは、今は、真っ直ぐに流されていたが。
「夜分遅くに失礼いたしますわ。イヴァン様は、こんな時間までお仕事ですの?」
「いえ、大事な仕事は夜にはしないことにしているんです。今は、ちょっとした復習というか、自分のための勉強です」
そう応えながらクローディアを迎え、イヴァンは執務机を離れて立ち上がった。
ふと、イヴァンは自分の身長がクローディアより若干低いことに気づき――浮かびかけた得体のしれない気持ちを押し込めた。
「改めて、先程はアビゲイルが大変お騒がせいたしました」
クローディアは、再度、謝罪の言葉を口にした。
「それを言うなら、オリガがご迷惑をかけたことを再度謝らないと。きりがないので、お互い、謝罪の繰り返しは止めましょう」
「ええ。その通りですわね」
イヴァンの言葉に、クローディアは笑顔で同意した。
「少し話しますか? どうぞ座って下さい」
イヴァンは、言いながら背の低い来客用の椅子を示した。
「おやすみの挨拶をと参りましたが、それではお言葉に甘えて少しだけ」
クローディアは、姿勢よく浅く腰掛けた。
ローテーブルを挟んで座ったイヴァンも、いつもより背筋を伸ばすよう心がけた。
「生贄としてストロガノフ王国に送られると決まり、本当は不安で仕方がなかったのです」
クローディアはそう切り出した。
「無理もないでしょう。魔王国の魔王への生贄です。頭からバリバリ食べられてしまうか、オリガが思い込んだように妻か妾にでもされるのではないか、考え出せば心配は尽きないでしょう」
イヴァンの言葉に、クローディアは口元に手をあてて笑い声を隠した。
「ふふ。さすがに、頭からバリバリとは想像もしませんでしたが」
イヴァンは、その反応に、まぶしいものでも見たかのように目を細めた。
「ですが、大変あたたかく迎えていただき、本当に感謝していますわ。生贄など不要とのことであれば、そのまま放り出されても仕方のない状況でしたのに」
「いや、さすがにそれは……」
応えながらも、可能性としては十分ありえるとイヴァンは認識していた。生贄を受け取ったことにして三人を奴隷商に売ってしまうことも、もっと様々な悪い状況も、彼女達にはあり得た話であった。
「そうですわ。ですからイヴァン様には最大限の感謝を」
イヴァンのちょっとした表情の動きを読んだのか、クローディアはそう言って、再度頭を下げた。
「イヴァン様だけでなく、アレクセイさんにエレーナさんも。とてもあたたかい人達で、つらいはずの滞在が楽しみになるほどですわ」
「気に入っていただけたのなら――」
気に入ったのなら、何だというのだろう。イヴァンは自分自身に疑問を感じて言葉を切った。
「いえ。気に入っていただけて何よりです」
「はい」
クローディアは、笑顔で応えた。
「それから、オリガ様。彼女とは、ぜひもっとお話して、仲良くなりたいのですわ」
クローディアの言葉に、イヴァンは意外に思った。
「それは嬉しい事ですが、第一印象は最悪でしょう。なぜ、そう言っていただけるのですか?」
「イヴァン国王陛下の婚約者ということは、マノン国王太子の婚約者であるわたくしの先輩とも呼べる方です。ぜひ色々と情報交換をさせていただかないとですわ」
そして、クローディアは言葉を続けた。
「自分の感情のままに行動してしまうにしても、イヴァン様を思ってのことでしょう? それはとても共感できます。意外だったのは、そんな自分の行動を悔いてちゃんと謝罪ができたこと。とっても魅力的な方だと感じましたわ」
なるほどそんなものか、とイヴァンは納得した。
「ありがとうございます。オリガも交えたお茶の席などを、早いうちに設けさせましょう」
「それは素敵ですわ!」
イヴァンの提案に、クローディアは顔の前で手を合わせて喜んだ。
クローディアは、上品さを失わない程度に多彩な動作で感情を表す。そんな人物に人生で出会ったことがなかったため、イヴァンにとっての今日一日は、密度高く感じるものだった。
「ぜひお願いいたしますわ。できれば、イヴァン様も参加していただけるタイミングで」
クローディアはそう言った。
それから、彼女は、ほんの少し迷った後、改めて口を開いた。
「イヴァン様。この機会に、しっかりとお伝えしたいことがありますわ」




