生贄
クローディアは、苦難の末、婚約破棄を回避した。
「今度は、後悔のないように、自分の言葉で伝えますわ。――愛していますわ、ニコラ」
「……ああ。私もだよ、クロエ」
クローディアの心からの愛の言葉に、ニコラウスは確かに応えたのだった。
◆ ◆ ◆
マノン歴286年3月21日。
マノン王国の名を冠した教育機関であるマノン王立学園高等部では、その三年生の卒業を記念した舞踏会が開催されていた。
舞踏会場はきらびやかに飾られ、豪華な料理が並び、管弦楽が奏でられていた。卒業生、在校生の隔てなく着飾った生徒達は、ダンスや談笑に花を咲かせていた。マノン国王、王妃両陛下も観覧するこの催しは、小さくとも立派に公式な社交場としての様相であった。
そんな中――。
「――」
王太子ニコラウス=マノンの婚約者であるクローディア――デピス上爵家の令嬢――クローディア=デピスは、当然のことながら、ニコラウスのエスコートで舞踏会場へと入った。
しかし。
到着早々、つないだ腕は、乱暴に振り払われてしまった。
クローディアは、驚きと、冷たく湧き上がる嫌な予感に、その足を止めた。
その反動で、彼女のブロンドの髪と、身にまとった薄青色のドレスが不安げに揺れた。表情を隠そうと広げた扇の奥で、彼女の碧い瞳は、離れゆく婚約者の背中を追いかける。
「そんなはず、ありませんわ……」
その呟きは、本当はこれから起こることを予見していて、恐れているかのように、弱々しく震えていた。
ニコラウスの背は、婚約者を置いたまま、歩みを進めてしまう。
なんの説明もなく。
思えば、クローディアを迎えに来た馬車の中でも、ニコラウスはどこか上の空でおかしな様子ではあったのだ。それが、こんな事態への予兆だったなど、誰が気付くことができるだろうか。
白を基調とし要所に金色の飾られた王国の式服は、美しい金髪の彼にふさわしく似合っていたが、なぜかその碧眼には今は暗い影が落ちているようにも見えた。
「ニコラ――」
耐えきれず、去ってしまう背中へと声をかけようとして、クローディアはその言葉を飲み込んだ。
彼女の視界に鮮烈な赤いドレスが入ったからだ。
「ご機嫌よう、ニコラウス殿下。それに、クローディア様」
ドレスの主は、満面の笑顔で挨拶を口にした。
ピンクブロンドの髪に緑がかった色彩の瞳、真紅のドレスをまとった彼女は、エリカ――フランジパン下爵令嬢――エリカ=フランジパンだった。
「やあ、エリカ。今日のドレスも、そして君自身も素敵だね」
陶然とした声色で投げかけられるニコラウスの言葉が、クローディアの背筋を冷たくした。
わたくしには、ドレスを褒める社交辞令の一言もなかったのに。
なにより、聞いたことのないような甘い声色。それは、公正な国王になろうと自分を厳しく律している彼が、決して出したりしないだろうと思わせるような響きを帯びていた。
湧き上がる様々な思いをなんとか飲み込むと、クローディアはエリカの挨拶への返事を、と息を吸った。
しかし、結局、彼女のそれは言葉になることはなかった。
「皆、少し聞いて欲しいことがある」
凛としたニコラウスの声が会場に響いたからだ。
音楽は止まり、歓談は少しのざわめきを残して消えた。
ニコラウスの視線は、まっすぐにクローディアを射抜いていた。
そう、今、ニコラウスは、傍らにエリカを従え、クローディアへと向かい立っていた。
「私から、大事な話がある」
ニコラウスはそう声を響かせた。
「私、ニコラウス=マノンは、クローディア=デピスとの婚約を破棄する!」
そして、そう宣言した。
その瞬間、エリカは笑みを深めた。
クローディアは絶句する他なかった。
「すげぇ、リアル断罪イベントだ」
「悪役令嬢もこれで最後か」
どこかで囁かれる不躾な言葉にも、それを睨み返そうとすら思えない状態だった。
「どうした? そうやって、無言で見つめ返せば事態が好転すると思っているのか?」
冷ややかなニコラウスの声に、しかしクローディアはすぐには言葉など返せないのだった。
婚約、破棄。
またしても。
「なぜですか? どうして婚約破棄など――」
「ここにいるエリカ嬢との関係における、一つの真実が理由だ」
重々しく、ニコラウスは言った。
「一つの真実?」
三つの罪ではなく?
聞き返したクローディアに、ニコラウスは頷いた。
「エリカ=フランジパンを愛しているということだ」
ふらり、と。
クローディアは足元が揺らいだ気がして、足を踏み直した。
「三つの罪を回避するために、わたくしは――わたくし達は、必死に一年間をやり直したと言うのに……。エリカ嬢を愛しているという、一つの真実だなんて」
つぶやくクローディア。
絶望が溢れ出しそうになる胸中に、強い否定の感情が生まれる。そう、答えは否だ。
「……いいえ」
それでも。
そう、それでも、呆然と婚約破棄を受け入れた前回とは違う。
この一年をやり直して、必死に身の振り方を見直して。
悪役令嬢だった行いを反省したのだ。
それに。
そう、わたくしは――。
「わたくしは、もう一人ではありませんわ」
クローディアの瞳に光が戻る。
「そうですわぁ、クローディア様。今度こそ、勝手なもの言いを許してはなりませんわぁ。今のあなたは、一人ではありませんもの」
クローディアの左隣へと、アビゲイル――ベグネ中爵令嬢――アビゲイル=ベグネが歩み出て言った。
声を発した勢いで、アッシュブロンドの髪と、身にまとったオレンジ色のドレスの裾が揺れた。
「その通りです、クローディア様。ニコラウス殿下の様子がおかしいのは、光魔法による魅了の影響です。私の時魔法でなんとでもできます」
そして右側へは、ベラ――クベルドン下爵令嬢――ベラ=クベルドンが歩み出て言った。
小柄な身体を包んだ紫色のドレスに良く合う短い黒髪を揺らし、その黒目を輝かせながら。
そう。
今回は、クローディアは一人ではないのだ。
左右を悪役令嬢の取り巻きに――いや、大切な友人達に守られて、彼女は頷く。
「そうですわね。アビーにも、ベラにも、何度も助けていただきました。今度は、わたくしが覚悟を決める番ですわ」
クローディアは、決然と顔を上げると、一歩踏み出した。碧い瞳は、まっすぐにニコラウスを見返していた。
表情を隠すはずの扇を、ピシリと音を立てて閉じる。
「ニコラウス殿下、その婚約破棄、簡単にお受けする訳にはいきませんわ。お断りいたします。――ニコラ、お慕い申し上げておりますわ」
渦中に立たされたクローディアは――それでも凛とした自信をまとい、ニコラウスへの愛の言葉を返したのだった。
なぜなら、その婚約破棄は、一年も前から知り得ていた未来であり、友情と反省を持って備えてきた現実だったからだ。今のクローディアには――アビゲイルとベラの存在が彼女を支えている今なら――自信とともに対処することができる事態であったのだ。
それが三つの罪だろうが、一つの真実だろうが、全て払い除けて見せる、と。
そして、アビゲイルの風魔法が吹き荒れ、ベラの時魔法がニコラウスを魅了の魔法から解き放ち、エリカの光魔法が全ての人の視界を奪った後――。
「今度は、後悔のないように、自分の言葉で伝えますわ。――愛していますわ、ニコラ」
「……ああ。私もだよ、クロエ」
ついにクローディアの愛の言葉は、ニコラウスへと届いたのだった。
「皆、騒がせたな。先程の婚約破棄は、消えたエリカ=フランジパンの魅了の光魔法によるものだった。よって、これは無効である。改めて、私ニコラウス=マノンと、クローディア=デピスの婚約の継続をここに宣言したい」
騒然とする舞踏会場に、再度ニコラウスの声が響いた。呆然と成り行きを見守っていた人々も、次第に理解が追いついたのか、最初はまばらに、やがて盛大な拍手がその場を満たした。
そう、クローディアの婚約破棄は回避されたのである。
「ありがとう、クロエ。愛しているよ」
「ええ、ニコラ。嬉しいですわ」
自然と寄り添い、そう言い合って、ニコラウスとクローディアは手を取り合った。
「よかったですわぁ。一時はどうなることかと思いましたが」
アビゲイルは、満足そうに微笑んだ。
「はい。これでハッピーエンドです」
大人しい声色に、珍しく嬉しさを隠せない様子で、ベラもそう言葉にした。
クローディアの取り巻きとしていつも側に控える二人は、この解決に少なくない尽力をした達成感に、顔を見合わせて笑顔を交わした。
こうして、『悪役令嬢の反省』の物語は、ハッピーエンドを迎えたのだった。
◆ ◆ ◆
しかし――。
バン、と音をたてて会場の扉が開かれた。
舞踏会場に突如響き渡ったその音に、談笑が戻りかけていた会場はしんと静まり返った。
そして現れたのは、太り気味の身体を豪奢な神官服に包んだ男だった。
連れてきた護衛達を扉の側へと残し、一人、舞踏会場の中央へと歩み出た。
それからゆっくりと会場内を見回し、芝居がかった仕草で国王ウィリアム=マノンへと目を向けた。
「国王陛下、お楽しみのところ失礼いたします。何しろ至急の案件となっておりますから」
そう言いながら、ウィリアムの前まで進み出ると、なぜか並び立つニコラウスとクローディアに一瞥を送った後に、言葉を続けた。
「神託が出ました」
厳かに告げられたその言葉に、ウィリアムの眉が上がった。
「神託、だと? 何十年ぶりになるかと記憶しているが、確かか? 神官長コンスタンティンよ」
その男は、神官長コンスタンティン=セアダス――マノン王国の神事を一手に引き受ける神殿の、最高権力者である。
彼は、ウィリアムの問いかけに大仰に頷いて見せた。
「確かに。ここでお伝えしても宜しいか?」
「至急とのことだな。学生達の前でも問題なければ、構わんから、申せ」
「は。むしろ、この場の方が都合の良い内容ですから……」
ウィリアムの許可を得て、コンスタンティンは一度頭を下げ、それから声を張り上げた。
「神託は――『デピス上爵家の令嬢、クローディア=デピスを、魔王国の国王イヴァン=ストロガノフへの生贄とするべし』と」
会場内の視線が、全てクローディアに注がれた。
その本人は、あまりのことに絶句する他なかった。
(生贄? わたくしが?)
とてもではないが、理解が追いつかなかった。
おぼつかなくなる足元を支えきれず、ニコラウスに寄りかかってしまう。
「そんな馬鹿なことがあるか! この時代に生贄、しかも魔王への生贄だと!?」
衝撃冷めやらぬ中、クローディアを支えながら、声を上げることができたニコラウスはさすがと言うべきだろう。
しかし、その抗議の声にも、コンスタンティンは首を横に振って見せるだけだった。
「ニコラウス殿下、心中お察しするが。しかし、これは神託ですからの」
ニコラウスは、今度はウィリアムへと向き直る。
「父上、こんなことが許されるはずがありません。何に代えてもクローディアは私が守ります! 彼女は、私の大切な――」
「まあ待て、ニコラウス」
ウィリアムは、右手を上げてその言葉を制した。
「この神託の内容は、確かに時代錯誤に感じる。しかし、魔王国――ストロガノフ王国との和平が実現してから十年も経っておらん。彼の国との関係強化はマノン王国の急務でもある。生贄かどうかは別として、近年代替わりした魔王――国王であるイヴァン=ストロガノフへ、容姿端麗、才色兼備、文魔両道のクローディアを向かわせるというのは、ない話ではない」
「ち、父上……」
思わぬ正論が返り、ニコラウスは顔を青くした。
「再びの戦争を回避すること、ひいてはマノン王国の平和と安寧のため、折れてはくれんか」
王国の平和と安寧を持ち出され、ニコラウスは次の言葉を探せずにいる。しかし、彼にとって、クローディアは――。
『クローディア様』
同時にクローディアの名を呼びながら、衆目から守るように、アビゲイルとベラがクローディアの側に来た。
「大丈夫ですよ。ベラの時魔法で、もう一度、やり直せば問題ありません」
気楽な様子でそう言うアビゲイルに、しかしベラの顔色は悪い。
「ダメです。時間を巻き戻しても、神託をどうにかする術がなければ、何回繰り返しても同じ結末になってしまいます」
それに、とベラは続ける。
「この一年を巻き戻して、私達は婚約破棄を回避しました。再度の巻き戻しは、前回の私達の行動との矛盾を引き起こす可能性があります。それは、とても危険なことなのです」
「え、そんな……」
アビゲイルはそれに返す言葉が続かなかった。
心強いはずの、それも唯一の希望である時魔法が使えないとなると――。
しかし、それを聞いていただろうに、なぜかクローディアの瞳に光が戻った。
「ありがとう。アビー、ベラ。それを聞いて、ようやく覚悟が決まりましたわ」
そして、握りしめたままだったニコラウスの手に、再度力を込めて――離した。
先程ニコラウスに手を振りほどかれたことが、なぜかクローディアの脳裏をよぎった。あの時とは立場が逆になってしまっているのだが。
「国王陛下。わたくし、その神託のお役目お受けいたしますわ」
ざわり、と観衆がどよめき。
ニコラウスは我が耳を疑い。
ウィリアムは静かに頷き。
コンスタンティンは張り付けた笑みを深くした。
「クロエ、そんな必要はないんだ。私が必ず――」
言いすがるニコラウスに、クローディアは静かに微笑んで、首を横に振った。
「これが最も良い答えですわ。神託は絶対です。翻ることはありませんわ。それに、国の安寧と平和、戦争の回避がかかっているのなら、この身一つでそれが叶うというならば。またとない光栄なお役目ですわ」
「クロエ――」
なおも納得できていないニコラウスを遮るように、ウィリアムが厳かに口を開いた。
「クローディア本人がここまで言っておるのだ。未来の国王として、聞き分けられるな?」
「っ……。……かしこまりました。自分勝手に騒いでしまい、申し訳ありませんでした」
ウィリアムからの念押しに、葛藤しつつも、認められない思いがあふれながらも、ニコラウスは頭を下げた。未来の国王として、という言葉が重く彼を縛っている。
『クローディア様』
またしても、アビゲイルとベラが名を呼ぶ声は同時だった。
「今回だけはダメですわ」
そして、クロエの応えは、二人の次の言葉を予見してのものだった。
「今回だけは、二人を連れては行けません。魔王への生贄の道行きですわよ?」
きっぱりと宣言するクローディア。
しかし、アビゲイルとベラも引き下がらない。
「いいえ。必ず付いていきますわぁ」
「そうです。私達も、今回だけは聞けません」
涙を浮かべ始めているアビゲイルも、小さな身体に必死に力を込めているベラも、クローディアを一人で送り出すなど絶対に許せないのだ。
「これは、上爵令嬢としての命令ですわ。聞き分けなさい、アビゲイル中爵令嬢、ベラ下爵令嬢」
きりりと眉をつり上げて、クローディアは命令を口にする。親の爵位が異なる三人ではあるが、こんな風に一方的に何かを指示するということは、今まで一度もなかったことだった。
そして、それでも。
「嫌です」
「できません」
その頑なな応えを聞いて――。
クローディアは、ふっと肩の力を抜いた。
「ありがとう、アビー、ベラ。でも、分かって下さい。これは、私が一人で向かわなければいけない道なのです」
それから、クローディアは続けた。
「これは友人としてのお願いです」
その言葉を聞いて、取り巻き二人の――大切な友人二人の目から涙がこぼれた。
「それはずるいですわぁ」
「本当に、あなたって人は……」
そして、アビゲイルとベラは、揃った動作でお辞儀をした。
「そのお願い、確かに、承りましたわぁ」
「…………」
こうして。
クローディアは、神託による生贄として、一人、ストロガノフ国へと旅立つこととなったのだった。




