第2話 辺境の光
城の中は、想像していたよりも温かかった。
石造りの廊下には暖炉が焚かれ、壁にはタペストリーが飾られている。使用人たちは私を見ても怯えることなく、むしろ優しく微笑みかけてくれた。
「こちらへどうぞ」
アシュレイに案内されたのは、客室だった。質素だが清潔で、窓からは森と星空が見える。
「今夜はここで休んでくれ。明日、辺境伯にお会いいただく」
「あの......なぜ、こんなに良くしてくださるんですか?」
私は思わず聞いていた。魔女として追放され、殺されかけた私を、なぜこの人たちは受け入れてくれるのか。
アシュレイは少し考えてから、静かに答えた。
「俺にも、魔法の力がある」
「......えっ?」
「正確には、魔法ではない。でも、常人にはない特殊な力だ」
彼は自分の右手を見つめた。
「この力のせいで、俺は幼い頃から恐れられてきた。化け物だと罵られ、実の家族からも疎まれた」
アシュレイの声には、深い悲しみが滲んでいた。
「辺境伯様が俺を拾ってくださらなければ、俺は野垂れ死んでいただろう。だから俺は、同じように苦しむ者を見捨てることはできない」
私は言葉を失った。この人も、私と同じように傷ついてきたのだ。
「ゆっくり休め。何か必要なものがあれば、いつでも呼んでくれ」
アシュレイはそう言い残して、部屋を出ていった。
一人になると、急に疲れがどっと押し寄せてきた。私はベッドに倒れ込んだ。
柔らかい。こんなに柔らかいベッドで眠るのは、何日ぶりだろう。
いや、もしかしたら、人生で初めてかもしれない。
ローゼンベルク伯爵家にいた時も、私はいつも緊張していた。魔法がバレないように、完璧な令嬢を演じ続けなければならなかった。
でも、ここでは......。
(ありのままの私でいていい、のかな)
そんなことを考えているうちに、私は深い眠りに落ちていった。
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翌朝、目が覚めると、窓の外から小鳥のさえずりが聞こえてきた。
ノックの音がして、若い女性が入ってきた。
「おはようございます、キアーラ様。私はエリス、この城で働いている侍女です」
彼女は明るい笑顔で挨拶をした。マリアと同じくらいの年齢だろうか。
「朝食の準備ができております。それから、辺境伯様がお待ちです」
「わ、わかりました」
エリスに案内されて、大広間へと向かう。
そこには、白髪の初老の男性が座っていた。厳格そうな顔立ちだが、瞳には優しさが宿っている。
「ようこそ、キアーラ・ローゼンベルク嬢。私が辺境伯、グレゴリー・ヴォルフだ」
「お、お会いできて光栄です」
私は慌てて膝をついた。でも、辺境伯は手を挙げて制した。
「そんな堅苦しい挨拶は不要だ。ここでは、お前は客人であり、守るべき者だ」
そう言って、彼は私に椅子を勧めた。
朝食を取りながら、私は自分の身に起きたことを全て話した。婚約破棄のこと、追放のこと、殺されかけたこと。
辺境伯は静かに聞いていたが、時折、深い憤りを瞳に浮かべた。
「エドワード王子は愚かだ。魔法使いを悪と決めつけ、本当の価値を見ようともしない」
「でも......三百年前の大災厄は、事実ですから」
私は小さく言った。魔法使いが引き起こした悲劇。それは消すことのできない歴史だ。
「あれは、一部の魔法使いが暴走した結果だ。全ての魔法使いが悪なわけではない」
辺境伯は力強く言った。
「むしろ、魔法使いこそが、この国を本当の危機から救える唯一の存在なのだ」
「本当の、危機......?」
「ああ。実は、この辺境の森では、最近魔物の活動が活発化している」
辺境伯は重々しく続けた。
「魔物は本来、森の奥深くに棲み、人里に現れることはなかった。だが、ここ数年、何かに引き寄せられるように、人間の領域に侵入してくるようになった」
「何に引き寄せられて、いるんですか?」
「それが分からない。だが、このままでは辺境だけでなく、王都も危険に晒される」
辺境伯は私を見つめた。
「キアーラ嬢、お前の魔法を見せてくれないか」
私は躊躇した。昨日、魔法が発動しなかった。もしかしたら、もう二度と使えないのかもしれない。
「大丈夫だ。失敗しても、誰もお前を責めはしない」
アシュレイが優しく言った。彼は壁際に立ち、私を見守っていた。
(......やってみよう)
私は立ち上がり、両手を前に出した。
深呼吸をする。心を落ち着ける。
母が教えてくれた呪文を、小さく唱える。
「光よ、我が手に」
手のひらに、青白い光が灯った。
昨日よりも、ずっと安定している。
「素晴らしい......」
辺境伯が感嘆の声を上げた。
光は徐々に大きくなり、部屋中を照らし始めた。温かく、優しい光。
「これは、治癒の魔法だ」
アシュレイが驚いて言った。
「ああ。しかも、極めて純度の高い魔力だ」
辺境伯は立ち上がり、私に近づいてきた。
「キアーラ嬢、お前は古代魔法の継承者かもしれない」
「古代魔法......?」
「三百年前の大災厄以前、魔法使いたちは調和の魔法を使い、人間と自然を守護していた。その失われた魔法を、お前は受け継いでいる可能性がある」
私は信じられなかった。私の魔法が、そんなに特別なものだなんて。
「もしそうなら、お前は魔物の活性化の原因を突き止め、止めることができるかもしれない」
「私に、そんなことが......」
「無理強いはしない」
辺境伯は優しく言った。
「だが、もしお前が望むなら、我々は全力でお前を支援する。お前の力を、人々を救うために使ってほしい」
私は混乱していた。
つい昨日まで、私は魔法を呪いだと思っていた。全てを奪った、忌まわしい力だと。
でも、この人たちは違う。
私の魔法を、可能性だと言ってくれる。
「考える時間を、いただけますか」
「もちろんだ。ゆっくり考えるといい」
辺境伯は頷いた。
その日から、私は辺境伯の城で暮らすことになった。
エリスは私に城の中を案内してくれた。訓練場、図書室、礼拝堂。
図書室には、魔法に関する古い書物がたくさん保管されていた。
「ここの本は、全て読んでも構いません」
エリスが言った。
「辺境伯様は、いつか魔法の真実が明らかになる日を信じて、これらの本を守ってこられたんです」
私は本の背表紙を指でなぞった。『古代魔法の記録』『調和の魔法使いたち』『失われた叡智』。
どの本も、魔法使いの迫害が始まってから、禁書とされたものばかりだ。
「キアーラ様は、勉強がお好きなんですか?」
「ええ。本を読むのは好きよ」
ローゼンベルク伯爵家にいた時も、私はよく図書室に籠もっていた。魔法を使えない代わりに、知識で自分を武装しようとしていた。
「それなら、アシュレイ様と気が合うかもしれません」
エリスがくすくすと笑った。
「アシュレイ様も、よくここで本を読んでいらっしゃるんです。特に戦術書がお好きで」
「そうなの?」
「ええ。アシュレイ様は、見た目は怖そうですけど、実はとても優しい方なんですよ」
エリスの言葉に、私は昨夜のアシュレイの横顔を思い出した。
傷ついた過去を語る、あの悲しげな表情。
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午後、私は城の庭を散歩していた。
手入れされた花壇には、秋の花が咲いている。王都の庭園ほど豪華ではないが、素朴で温かみがあった。
「花が好きなのか?」
声に振り向くと、アシュレイが立っていた。騎士団の訓練を終えたばかりなのか、額に汗が光っている。
「ええ。母がよく、庭で花を育てていたの」
「そうか」
アシュレイは私の隣に立った。
「あの、昨日は本当にありがとうございました。あなたがいなければ、私は......」
「気にするな。俺は当然のことをしただけだ」
彼は短く答えた。
しばらく、沈黙が続いた。でも、それは不快な沈黙ではなかった。
「なあ、キアーラ」
アシュレイが口を開いた。
「お前、本当は魔法を使いたかったんじゃないか?」
私は驚いて彼を見た。
「なぜ、そう思うんですか?」
「お前の魔法を見た時、感じたんだ。あれは、長い間封じ込められていた力だと」
アシュレイは空を見上げた。
「抑圧された力は、歪む。でも、お前の魔法は歪んでいなかった。純粋で、優しかった」
「......そんなこと、ない」
私は首を横に振った。
「私は魔法を憎んでいた。この力さえなければ、普通の人生を送れたのにって」
「でも、本心では違ったんだろう?」
アシュレイが私を見つめた。その紫色の瞳は、不思議なほど穏やかだった。
「お前は、魔法を誰かのために使いたかった。苦しんでいる人を助けたかった。でも、それを許されなかった」
胸が、締め付けられた。
彼の言葉は、私の心の奥底に眠っていた本当の気持ちを、容赦なく引きずり出した。
そうだ。
私は本当は、魔法を使いたかった。
母が病気で苦しんでいた時、治癒魔法で助けたかった。
街で怪我をした子供を見た時、痛みを和らげてあげたかった。
でも、それをしたら、私は殺される。だから、ずっと我慢してきた。
「泣いても、いいんだぞ」
アシュレイが優しく言った。
その言葉で、堰が切れた。
私は声を上げて泣いた。二十年間ずっと抑え込んできた感情が、溢れ出してきた。
悔しさも、悲しみも、怒りも、全部。
アシュレイは何も言わず、ただ私の隣に立っていてくれた。
どれだけ時間が経っただろうか。
ようやく涙が枯れた時、私は恥ずかしくなって顔を上げられなかった。
「すみません、見苦しいところを......」
「謝ることはない」
アシュレイがハンカチを差し出した。
「強がらなくていい。ここでは、お前はお前のままでいられる」
私はハンカチを受け取り、顔を拭いた。
「アシュレイさん」
「なんだ?」
「私、決めました」
私は彼を真っ直ぐ見つめた。
「魔物の調査に協力します。私の魔法が本当に役立つなら、使いたい」
アシュレイは驚いたように目を見開いた。それから、小さく笑った。
「そうか。なら、明日から訓練だ」
「訓練?」
「魔法の制御訓練と、戦闘訓練だ。森には危険がいっぱいだからな」
彼は真剣な表情になった。
「俺が、お前を守る。だから、お前は思う存分、魔法を使え」
その言葉が、どれほど嬉しかったか。
生まれて初めて、私の魔法を肯定してくれる人に出会えた。
「よろしくお願いします、アシュレイさん」
「ああ。一緒に、この世界を守ろう」
私たちは、固く握手を交わした。
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それから毎日、訓練が始まった。
午前中はアシュレイとの戦闘訓練。剣の扱い方、身のこなし方、危険の察知方法。
「お前は令嬢だから、体力がない。まずは基礎体力をつけるぞ」
アシュレイは容赦なかった。でも、その厳しさの裏には、私を守ろうとする優しさがあることを、私は知っていた。
午後は魔法の訓練。
辺境伯が所蔵する古代魔法の書物を読み、失われた魔法の技術を学ぶ。
驚いたことに、私の魔法は治癒だけではなかった。
防御魔法、浄化魔法、結界魔法。様々な魔法が、少しずつ使えるようになっていった。
「素晴らしい進歩だ」
辺境伯は満足そうに頷いた。
「お前は間違いなく、古代魔法の継承者だ。その証拠に、お前の魔力は日を追うごとに覚醒している」
「でも、なぜ私なんでしょう?」
「それは分からない。だが、きっと運命だろう」
辺境伯は穏やかに微笑んだ。
「お前は、この世界に必要な人間なのだ」
必要。
その言葉が、私の心を温かくした。
訓練の合間、アシュレイと話す時間が増えた。
彼は寡黙だが、時折見せる笑顔は本当に優しかった。
「なあ、キアーラ」
ある日の訓練後、アシュレイが言った。
「お前、笑うようになったな」
「え?」
「最初に会った時のお前は、死んだような目をしていた。でも今は、生き生きしている」
私は自分の顔に手を当てた。そういえば、最近鏡を見るのが怖くなくなった。
「それは......ここが、居心地がいいからかもしれません」
「そうか」
アシュレイは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、私の胸が少しだけ高鳴った。
(これは、なんだろう)
エドワード様に感じたことのない、温かい感情。
でも、私はそれに名前をつけることを恐れていた。
また裏切られるのが、怖かったから。
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訓練開始から二週間が経った、ある日の夜。
私は図書室で魔法の本を読んでいた。
「まだ起きていたのか」
アシュレイが入ってきた。彼も本を探しに来たらしい。
「ええ。この本、面白くて」
「何の本だ?」
「『調和の魔法使いたち』。三百年前、魔法使いと人間が共存していた時代の記録です」
私は本を見せた。
「魔法使いたちは、人々を守るために力を使っていたんですね。病気を治したり、作物を育てたり、災害から守ったり」
「ああ。だが、一部の魔法使いが力に溺れて暴走した。それが、大災厄を引き起こした」
アシュレイは隣に座った。
「でも、それは一部の者だけだ。ほとんどの魔法使いは、最後まで人々を守ろうとした」
「なのに、全ての魔法使いが悪とされた......」
「恐怖は、人を盲目にする」
アシュレイは静かに言った。
「でも、いつか必ず、真実は明らかになる。お前が、その先駆けになるかもしれない」
「私が......?」
「ああ。お前の魔法を見たら、きっと人々は気づく。魔法は呪いじゃない、祝福なんだと」
アシュレイは私を見つめた。
その瞳には、深い信頼が込められていた。
「俺は、お前を信じている。お前なら、世界を変えられる」
私の頬が、熱くなった。
「あの、アシュレイさん」
「ん?」
「どうして、そこまで私を信じてくれるんですか?」
アシュレイは少し考えてから、答えた。
「お前が、嘘をつかないからだ」
「嘘を......?」
「お前は、自分の弱さも、恐れも、全部さらけ出す。それは、とても勇気のいることだ」
彼は優しく微笑んだ。
「俺は、そういうお前が好きだ」
好き。
その言葉が、私の心に深く刻まれた。
私たちは、しばらく黙って本を読んだ。
でも、その沈黙は、とても心地よかった。
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そして、運命の日が訪れた。
「キアーラ、準備はいいか?」
アシュレイが訓練場にやってきた。今日は、いよいよ森の調査に出発する日だ。
「ええ、大丈夫です」
私は旅の装備を整えた。軽装の鎧と、短剣。そして、魔法を使うための杖。
「不安か?」
「少しだけ。でも、あなたが一緒なら大丈夫です」
私は笑顔で答えた。
アシュレイは少し驚いたように目を見開いたが、すぐに柔らかく笑った。
「ああ。必ず、お前を守る」
辺境伯が見送りに来てくれた。
「キアーラ嬢、気をつけて。そして、世界の真実を見つけてきてくれ」
「はい。必ず、戻ってきます」
私たちは城を出て、森へと向かった。
朝日が木々の間から差し込み、森全体を黄金色に染めている。
(新しい人生の、始まり)
私は深く息を吸い込んだ。
もう、昔の私ではない。
魔法を恥じることも、自分を偽ることもない。
ありのままの私で、この世界と向き合おう。
アシュレイと並んで歩きながら、私は心に誓った。
そして、私たちはまだ知らなかった。
この調査が、王国全体を揺るがす大きな真実へと繋がっていくことを。
そして、私とアシュレイの間に、運命以上の何かが芽生え始めていることを。




