12 気分転換
朝目覚めればいつも通り、自分の部屋のベッドの上だった。年季の入った宿の一室でもなければ、そこに置かれてあった木の家具もない。正真正銘自分の部屋だった。
前とは違い大方予想通りの状況であったため、今回はあまり驚かなかった。
寝ている間、つまりあの世界での記憶ははっきりとあるのに、ここで寝ている間にも体は動いていたといのに、疲れは全く感じない。しっかり眠れてはいるのだろうか。なんだか変な感じだ。
あれが夢であるかどうかは、もう考えないようにしよう。考えれば考えるほど、訳がわからなくなってしまうから。いつもの悩み事と違って自分に都合の悪いものでもないのだし、このまま考えないのが僕にとっても都合が良いだろう。
ふと気になって時計を見てみると、11時を回っていた。昨日よりは早く起きたが、早い時間に寝てしまったことを考えると普段よりかなり寝てしまっている。
今日は日曜日、わずか二日間の休みの最後の日。そうはいってもいつも通り特に予定もないため、僕は今日もこの貴重な休みを浪費してしまうのだろう。
部屋のカーテンを開けると、窓からは暖かい光が差し込んでくる。外にはいつもと変わらない住宅街が並び、それが間違いなく僕が現実にいることを再認識させてきた。前までは変わらないこの景色を見て安心感を覚えていたというのに、今日はその光景を見て少し残念だななんて思ってしまう。
お腹が減ったため、簡単な身支度を済ませてリビングへと向かった。
リビングのソファには母さんが座っていて、いつも通り優しい笑顔で「おはよう」と声をかけてくれたので、僕もそれを返す。
本当にまた、いつも通りで変わらない現実に戻ってきたのだ。
時間も時間なので朝昼兼用で何か食べようと思い、そこら辺に置いてあったパンを食べ空腹を満たした。
それを終わらせた後部屋に戻ったものの、もうすることがなくなってしまった。いや、あるにはあるのだが正確にはやりたいことがなくなってしまった。
椅子に座ってぼーっと天井を見つめ始めて、このままいつものように考え事をするだけの、無駄な一日を過ごすかに思われた。
しかし、今日は違った。あの世界での光景に感化されたからだろうか。
普段は自ら外に出ようとは思わないのに、なんだか今日は無性に外へ行きたくなった。
いつも物事を先延ばしにする自分らしくなく、それが頭に浮かんだ瞬間、気づけば体は外に出る支度を始めていた。
母さんに買い物に行ってくるとささやかな嘘をつき、スマホと財布だけを持って早速家を出る。
長らく停めてあった自転車に跨って、目的地も決めずにペダルを踏み込んだ。
そこからはただひたすら、自転車を走らせ続けた。
空は快晴で、正面からは春風も吹いてくる。とても気分の良い日だった。
帰りはスマホのマップを頼りにすれば良いので、帰れなくなる心配もしなかった。どこか行きたい場所があるわけでも、何か目的があるわけでもない。ただ何も考えず、あえて普段は通らないような道を選んで進み続けた。
すると最初は見知った景色が多くみられたが、徐々に僕の知らない景色が広がり始めた。
これは僕に土地勘がないからなのかもしれないが、建物も風景も全く見覚えがないし、標識に書いてあるのは知らない地名だ。
道中、飲食店を見ては自分も行ってみたいなとか、公園ではしゃいで遊ぶ子供を見ては少し羨ましいなとか、周りをキョロキョロと眺めては特に意味のない感想を浮かべ続けながら、スーパーを通り過ぎ、飲食店を通り過ぎ、ビルを通り過ぎ、時々曲がってみたりして、ただただ自転車を漕ぎ続けた。
目的地も決めずにひたすら走り続けていると、やがて名前も知らない大きめの河川敷に辿り着いた。
体も痛くなってきことだし、ここで一度自転車を止めることにする。普段ろくに運動することもないのにいきなり体なんて動かすから、足腰が結構痛い。
自転車を駐めて、近くにあったベンチに座り込んだ。時間を確認してみれば、すでに家を出てから2時間は経とうとしていた。そんなにも長い時間走り続けていたのかと、自分でも驚く。
辺りを見渡してみれば、良い時期に来たようで散り始めた桜の木が川を挟んでいた。人もそれなりにいる。視線の先には底が綺麗に見えるぐらい澄んだ川の水が流れていた。
風に揺れる葉の音に、遠くからは元気の良い子供の声も聞こえてくる。全てが澄んでいて、全てが綺麗だった。
気が付けば、随分と遠くまで来てしまった。
僕にしては珍しく、思い立ったら即行動をしてしまっていた。なんだか無性に遠くに行きたくなってしまったのだ。でも、どこか遠くへ行って消えてしまいたいとか、そういった後ろ向きな気持ちによって動いたわけではない気がする。学校に行く以外ではずっと家に篭りきりみたいなものだったのだし、たまにはこんな日があっても良いだろう。
ここに来るまでの間、色々なものを見た。それは現実であるのに、夢で見たあの景色のように新鮮に感じられた。とはいっても、流石にあの美しい景色には劣ってしまうけれど。でも、どこにでもあるコンビニが、なんの変哲もないマンションが、公園が、建物が、どこか特別な風景に見えたのだ。
たった数十分自転車を走らせただけで、全く知らない景色を見ることができた。この場所も、ここに来るまでの道のりも。家から2時間、近くとはいえないが、自力で行けてしまう場所にこんな綺麗な河川敷があることを知らなかった。
現実のはずなのに、あの世界にいたときのように不安な気持ちまでもが澄んでいく気がする。
学校と家を行き来するだけの生活をしていると、まるで世界にはそれしか存在していないかのように感じてしまう。僕の場合遊びに出かけることもないので、それを特に強く感じてしまう。
気持ちのほとんどを不安と孤独感が占めていた。視界に映るもの全てが、真っ暗に感じていた。色はついているのに、どこか暗くて、陰鬱で、そんな景色が嫌いだった。
今日はその道から少し外れた。それだけだというのに、今日の景色は新鮮で綺麗だった。少し遠くへ行ってみただけなのに、なんだか僕の世界が少し広がった気がした。
そんなふうにしばらく景色を眺めていると、ぐぅとお腹がなった。運動するとは想定もしていなかったため、朝は軽く済ませていたのだった。せっかくだし、この景色を見ながら何か食べるのも良いかもしれない。
財布は持ってきていたので、一度近くのコンビニへ行って軽食を買い、また先ほどの場所に戻った。
買ったものを口にしながら、またぼーっと川とその周辺の景色を眺め始める。
外でご飯を食べるということに変な憧れというかを持っていたので、この雰囲気に満足してしまう。
この土日は、いつもより良い意味で長く感じた。それもそのはずだ。突然不思議な夢を、二日も続けてみたのだから、長く感じるのも当然だ。そして、今日もいつもとは違う一日を過ごすことができた。
…そういえば明日は月曜日か、月曜日……明日は学校じゃないか。
することのない土日よりはましと言えるのかもしれないが、かといって学校が好きなわけではないので、それはそれで嫌だ。相変わらず友人もできないというのに、学校を楽しいと思うことなんてできるはずもない。でもこれもいつも通り、なるようになるだろう。
少しづつ日も落ち始めた頃、ようやく立ち上がる気になって再び自転車に跨った。
帰り方すら分からないのでスマホで調べて、名前も知らない道を進み始めた。本当に、スマホというものは便利だ。
少し赤みがかった空と周りの景色を眺めながら、再び自転車を走らせ始めた。2時間も走れば退屈に感じてしまいそうだが、行きと同様不思議とそうは思わなかった。
結局やるべきことを進めたわけではないし、すごく楽しかったと言える日だったわけでもない。
しかし少なくとも今日が、いつものような何もない無駄な一日になったとは、一ミリも思わなかった。
長い長い道のりを走り続け、ようやく家まで辿り着いた。
少し重い玄関の扉を開くと、すでに部屋には美味しそうな夕飯の香りが漂っていた。
「おかえり」と、家に帰って来ればそう言ってくれる両親がいる。それに「ただいま」と、返すことができる。そのやりとりに安心感を感じる。僕には帰ることのできる家があるのだと。
この世界は真っ暗で、不安しかないと思っていた。その考えは今も、変わっていないし、不安も消えてくれない。だからあの夢の中の異世界に、現実の不安を忘れさせてくれるあの世界にずっと居たいと思った。現実に戻りたくないと思った。
でもあの綺麗な河川敷とその道中の景色を目にして、今日一日を過ごしてみて思った。
この世界も少しは、悪くないのかもしれない———。




