第2章 銀の書と闇の囁き
ルキアが自分の名を口にしたとき、不思議な温もりが胸の奥に灯った。その灯火は、彼自身の存在を確かにここに刻みつける、小さな証だった。
サイレント・アーク号は静かに航行している。
船内に響く音は、遠い恒星の震えた歌声か、それとも宇宙の鼓動か。ルキアは通路を歩きながら、異世界転生の実感をじわじわと味わい始めていた。
「トゥーレ、僕は何をすればいい?」
問いかけると、トゥーレは小さく微笑み、甲板の奥にルキアを導いた。そこには無数の本が浮かぶ、まるで図書館のような空間があった。書物たちは重力に縛られず、ゆっくりと空中を泳いでいる。
「ここは《銀の書庫》だ。
船で過ごす間、お前は何でも学べる。星界語、銀河魔法、そして…自分自身の力。」
「ぼくの…力?」
トゥーレは、銀の皮革に包まれた古い書をひとつ手に取り、ルキアに差し出す。その表紙には、見覚えのない星座と、彼の名が刻まれていた。
「この書は、《魂の書》。お前の過去と未来の記録だ。」
おそるおそる、それを開いた瞬間、ページの間から闇色の霧がゆらめく。なつかしい病室の風景、絶望の中でぎゅっと握りしめた小さな希望、そして…見知らぬ夜空へと旅立つ自分の姿が現れる。
「恐れるな。影はお前の一部だ。」
船体がかすかに軋む。途端に銀の書庫全体に暗いざわめきが広がっていく。本たちがそれぞれ言葉にならない音で警告を告げる。
「何が起こってるの?」
ルキアが声をひそめると、壁の向こうからかすかな囁きが通路を伝ってやってきた。
『……ソラ、トブ。 ワタシノ、ナモナキ、ココロ……』
「これは、外宇宙の“影”だ。サイレント・アーク号はしばしば、流れ星とともに未だ名もない魂に出会う。」
トゥーレの目が鋭く細くなった。
「影に負けず、自分の名前を確かめることが大事だ。」
ルキアはページを強く握る。そのとき、船の端に何かが激しくぶつかる音が響いた。書庫を漂う本たちが指し示す先、艦窓の向こうで、真っ黒なうねりが光を呑み込むように動いている。
「決断だ、ルキア。
その魂の書に、自分の“願い”を書き記せ。新たな世界を歩むために。」
ルキアは一瞬戸惑うが、思い切って銀色のインク筆を取り、震える手で書き始めた。
「ぼくは――この宇宙のどこかに、自分の心で見つけた名前を残したい。」
淡い銀光が、彼の指先から溢れだす。それは影を照らし、書庫に優しい明かりを満たした。
『名もなき魂』が、どこか遠くで微かに、微笑んだような気がした。
――銀河の船は再び静かに、次の運命の星域へと進み始めた。