招集
霧がまだ庭の片隅に残る早朝、蒼瀧庵にはどこか沈んだ空気が漂っていた。
火鉢のそばで蒼龍が煙管をくゆらせ、瑠宇は縁側に腰をかけたまま、手元をじっと見つめていた。
玄作が使った、一式・時裂の断片。使われた瞬間の光景も、直後の記憶も朧げだった。
「……記憶が完全に戻りません。時裂の効果かと」
「恐らくな。玄作め、完成前でも霊気の歪みを起こすほどのものを書きおって。……放っておいたら奴は間違いなく書き上げるぞ」
蒼龍の声にいつもの静けさはなく、どこか焦りがにじんでいた。
「霊潮に向かわねばなりませんが、問題はその“入り口”です」
「鎮潮柱のことか」
「はい。幕府が築いた柱と封印陣。それが霊潮を抑えているとは子供のころから聞きますが、場所を聞いても皆“知らない”と。実在すら信じておらぬ様子でした」
「当たり前だ。霊潮と共にあれらは“公の秘密”だからな。今の言葉で言えば「都市伝説」というやつだ。だが老いぼれは山肌から立ち上る霊潮の津波、霊気に押し流された村を見た記憶がある。そして鎮潮柱ができたという噂が届いたときにはもはやどちらも見なくなった。この二つはあるのだ」
霊気を帯びた冷気が、庭の植え込みを揺らしていく。
「……手詰まりですか」
ふたりの間に重たい沈黙が広がった。
そのとき、庵の門を軽く叩く音が響いた。
瑠宇が身を起こし、戸を開けると、小柄な飛脚が一礼しながら封緘された文書を差し出した。
「蒼龍殿に、至急のお届けでございます。御在宅か」
蒼龍が受け取り、文を裂く。墨の香りと共に広がった文面には、整った筆致でこう記されていた。
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蒼龍庵 店主蒼龍へ。
姫君の御身、昨今めっきり優れず、医師の手にも余る様子。
貴殿の“護符療術”に望みを託したく、直ちにお越し願いたい。
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花押はこの藩の藩主、芦原典膳。
「これは……」
蒼龍が読み上げると、瑠宇が顔を上げた。
「この時期に……偶然とは思えません」
「私の患者にお侍はおらん。誰の差し金かは知らんが藩邸の奥にこそ、鎮潮柱の記録や位置が隠されている可能性がある。上に近づかねば、この謎は割れん」
火鉢の炭がパチリと音を立てた。
「礼装を。今回は公の召喚だ。ぞんざいに扱われては困る」
瑠宇はうなずき、符束・筆・青丹・香木を風呂敷に包み、帯に収めた。
蒼龍も衣を整え、符箱と紙束を肩に担ぐ。
「玄作殿は一式・時裂を完成させようとしている。誰の手に渡ろうが構わぬ、ただ“書きたい”がために」
「玄作に近づくには、藩主目の姫を助け、藩主に恩を売って場所を聞き出せばいい」
「その先に“霊潮”がある」
霧の庭を抜けると、門の先には蒸気を吐く黒漆の車両が待っていた。
藩主が青磁テックから導入した“蒸気馬車”――護符で霊気を燃やし、金属の心臓で車輪を回す新式の乗り物。町ではまだ珍しいが、政の中枢では既に一部に配備されている。
車輪が回り出す音と共に、ふたりは座席に身を沈めた。
蒸気のうなりが、石畳を滑る音と重なっていく。
道中、蒼龍がぼそりと漏らした。
「影札の依頼主、迎えによこした蒸気馬車、裏で糸を引いてる奴がだれか馬鹿でもわかる。癪だがこの機会を逃せば、門は二度と開かぬだろうな」
瑠宇は静かにうなずいた。
町の喧騒を過ぎ、川沿いの道を越え、やがて城下の白壁が見えてきた。
その奥にそびえるのは、この藩の政の中心――芦原城。
朝日が瓦を照らし、天守の影がゆっくりと庵の者たちを包み込んでいく。