乱れた地脈
蒼龍庵の灯りは薄暗く、深夜の静寂が辺りを支配していた。卓上には、久遠の手記や江戸の地図、符術に関する記録が散乱している。月明かりが部屋の障子を薄く透かし、影札所から得られた断片的な地脈の情報が照らされていた。
蒼龍は難しい表情を崩さず、地図上に視線を落としている。春風は地脈の情報を整理しながら、不安を隠しきれない様子で小さくため息をついた。
手掛かりはある。しかし江戸全体を巻き込む『鏡返し』符術の暴走を止めるには、まだ決定的な情報が足りない。幕府と企業、さらには久遠の残した狂気──幾重にも絡み合った複雑な状況が、三人の心に重くのしかかっていた。
それでも彼らは諦めるわけにはいかない。夜が深まる中、地脈を巡る調査の準備は静かに、そして着実に進められていた。
瑠宇は慎重に白菊重薬の研究施設の裏手にある小さな通用口へと近づいた。約束の時刻を少し過ぎた頃、通用口が静かに開き、佐久間が疲れた表情で顔を覗かせた。
佐久間は瑠宇の姿を認めると、軽くため息をついて口を開いた。
「あの文、やはり君だったか……。瑠宇君、いくら君が師匠の弟子とはいえ、師匠の名を騙って訪ねられては困るな。それにやるならもっと書体を寄せたほうがいい」
瑠宇は頭を下げ、低く丁寧に答えた。
「申し訳ありません、佐久間さん。でも今夜はどうしてもあなたの協力が必要なんです。兄弟子であるあなたしか頼れる方がいないんです」
「……話だけなら聞こう。師匠の身内だからな。ただ、企業の立場もある。情報を簡単に出すわけにはいかないと理解してくれ」
瑠宇は短く頷き、視線を上げて佐久間をまっすぐ見据えた。
「実は、久遠が江戸の地下に『鏡返し』符術を暴走させるための仕掛けを設置していることが分かりました。彼は符術を無限に増幅させ、江戸を巻き込むような規模の暴走を引き起こそうとしているんです」
佐久間の顔が急速に強張り、驚きを隠せない様子で一瞬言葉を失った。
「待て、瑠宇君。今、君は何と言った? 江戸を巻き込む暴走だと? そんなことを久遠はしようとしているのか……?」
瑠宇は重々しく頷き、静かに告げた。
「はい。久遠の遺した手記には、地脈が交差する場所に仕掛けを施し、『鏡返し』を暴走させることが記されていました。もしこれが現実になれば、江戸全域が壊滅するような事態になります」
佐久間の表情はみるみる青ざめ、声も震えていた。
「なんということだ……久遠がそこまで追い詰められていたとは。確かに最近の彼は尋常じゃなかったが、まさかそこまでとは……」
瑠宇は佐久間の反応を見て、さらに慎重に言葉を継いだ。
「佐久間さん、我々だけでは正確な場所が特定できません。あなたは霊薬研究のために江戸全域の地脈を調べていたりしませんか。地脈が最も強く交差する地点の情報を教えてほしいのです」
佐久間は動揺した表情のまま、視線をさまよわせて迷っていたが、やがて小さく息を吐いて応じた。
「……君の話が真実だとすれば、我々白菊重薬にとってもこれは他人事では済まない。だが、企業の機密情報を簡単に提供するわけには……」
瑠宇は静かな決意を込めて語りかけた。
「佐久間さん、これは僕たちだけの問題ではありません。もし久遠の仕掛けが動き出せば、あなたたち白菊重薬もただでは済まないでしょう。師匠も必死に動いています。どうか兄弟子として、力を貸してください」
佐久間は苦渋の表情で唇を噛み、何かを決断するように静かに頷いた。
「わかった。弟弟子にそこまで言われては仕方ない。私が漏らしたことは他言無用だぞ」
瑠宇は深く頷き、誠実に答えた。
「もちろんです、佐久間さん。あなたの協力は決して無駄にはしません」
佐久間は短く息をつき、声を潜めながら話し始めた。
「江戸には地脈が交差する場所がいくつかあるが、特に強力な地点が二つある。一つは江戸城の地下、もう一つは旧市街の中央部にある地下の古い神殿跡だ」
瑠宇が息を呑んで尋ねる。
「その神殿跡とは具体的にはどこにあるのですか?」
佐久間は周囲を警戒しつつ、さらに声を低めて説明を続けた。
「旧市街の中心部だ。かつて霊気を祀っていた場所で、今は放置されているが、地脈の流れが極めて強い。我々も注視していた地点だが、久遠ならそこに目を付ける可能性は高い」
瑠宇は深く頭を下げ、心からの感謝を口にした。
「佐久間さん、本当にありがとうございます。あなたの協力がなければ、ここまで辿り着けませんでした」
佐久間は苦笑を浮かべつつ、少し皮肉を込めて返した。
「恩を着せるつもりはないが……君には困ったものだよ。まあ、弟弟子が困っているとあっては仕方ないがね。師匠にもよろしく伝えてくれ」
瑠宇は穏やかに微笑み、短く頷いた。
「必ず伝えます。そして、この問題は必ず解決してみせます」
佐久間は小さく息を吐き、軽く手を振りながら施設内に戻ろうとして立ち止まった。
「くれぐれも気をつけろよ、弟弟子。それに白菊も久遠の行方は追っていた。私も白菊にいる以上このことは報告しそこに向かうしかない。多少出発を遅らせられるよう工作するが、どのみち現地で会うことになるだろう。それにうちが動けば黄昏も間者を通して知ることになる」
瑠宇は重く頷き、強い決意を込めて答えた。
「承知しています」
「四大企業の二角抗争だ。生半可なものではない。全員死ぬなよ」
「佐久間兄さんもお気をつけて」
佐久間は最後に短く頷くと、静かに扉を閉じて研究所の中に消えていった。
瑠宇は大きく息を吐き、夜の闇に身を潜めながら蒼龍庵へと急いだ。彼の胸の中には、佐久間から得た貴重な情報と共に、兄弟子が最後まで自分たちのことを心配してくれたことへの感謝が強く刻まれていた。




