遺された手記
蒼龍庵は重苦しい空気に満ちていた。瑠宇が持ち帰った、白菊重薬における霊薬治験暴走の報告を受け、蒼龍も春風も言葉少なく沈黙を続けていた。黄昏通信と白菊重薬の符術をめぐる抗争が、いよいよ制御不能の領域へ達しつつあることは明らかだった。
両企業とも『鏡返し』符の制御技術を研究しているものの、その本質的な制御には依然として欠陥がある。どちらの企業も、欠陥を隠しつつ相手の暴走を狙い続けている以上、放置すればやがて市井を巻き込んだ大規模な事故を引き起こすのは時間の問題だった。
瑠宇は真剣な眼差しを二人に向け、静かに切り出した。
「師匠、現状を打開するためには、やはり葛城を殺した久遠という人物を追うしかないように思います。『鏡返し』に関して強く固執し、彼ほど深く研究を進めていた者はいないでしょう」
春風はわずかに眉を寄せ、困惑しながら口を開いた。
「その久遠という人は、元々どんな人だったんですか? 僕は佐久間さんが言っていた、久遠という人は、もう精神的に限界が来ていて、まともに対話することすら難しい状態だという話以外、あまりよく知らなくて……」
瑠宇も春風の言葉に頷きながら、蒼龍へと視線を向ける。蒼龍は目を閉じ、ゆっくりと深い溜息をつくと、静かな口調で話し始めた。
「久遠か……。久遠はかつて幕府の符術研究班に所属しており、『鏡返し』の開発と研究を主導していた人物だ。奴は符術の才に恵まれた秀才だったが、九式護符『破星』の事故で多くの仲間を失った。その事故以来、奴は研究から遠ざかっていると噂されていたが、今回の件をみるに実際は密かに研究を続けていたらしいな」
春風は興味深そうに目を見開き、蒼龍の話に耳を傾けた。
「それじゃあ、久遠はずっと一人で研究を続けていたんですか?」
蒼龍は静かに頷き、どこか苦々しい表情を見せた。
「それはわからんが、久遠が今、白菊重薬に協力しているということは、奴にとって完成に近づいているということだろう。ただ、佐久間の言ったとおりなら、久遠はすでに精神的に限界が来ている。符術の力に飲み込まれ、狂気に近い状態になっているかもしれぬな」
春風は不安そうに問いかけた。
「それでは、まともに話が通じる可能性はないですよね……」
蒼龍は少し考え込んでから答えた。
「まともな対話は難しいかもしれん。しかし、対話が困難だとしても、奴が残した研究資料や手記があれば、何らかの手がかりを掴めるはずだ」
瑠宇は蒼龍の言葉を受け、慎重に提案した。
「師匠、幕府の符術研究施設はもう残っていないかもしれませんが、久遠が個人的に研究を続けていた隠れ家のような場所が存在する可能性はないでしょうか? もしそこに彼の研究が残っていれば、突破口になるかもしれません」
蒼龍は目を細め、記憶を辿るように呟いた。
「隠れ家か……。そういえば、久遠は江戸の郊外に居を構えたという話を聞いたことがある。今も使っているとしたらそこだろうな」
春風は希望を見つけたように顔を上げた。
「それなら、もしかしたら彼の手掛かりがそこに残されているかもしれませんね!」
蒼龍は静かに頷き、厳しい口調で告げた。
「だが油断は禁物だぞ。久遠はおそらく自身の研究が企業や他の者に利用されることを警戒していただろう。何が仕掛けられているかわからない。慎重に行く必要がある」
瑠宇は静かに立ち上がり、毅然とした口調で述べた。
「師匠、それでも行く価値は十分あります。企業間の抗争がこれ以上悪化する前に、久遠が遺した手掛かりを確実に掴むべきです」
蒼龍は瑠宇の言葉に深く頷き、決意を込めて言った。
「向かうことにしよう。両企業に動きを悟られぬよう、すぐにでも出立するぞ」
「僕も頑張ります。久遠さんの研究が抗争を止める鍵になるかもしれないんですよね」
蒼龍は春風に優しい目を向けて微笑み、小さく頷いた。
「その通りだ、春風。だが繰り返し言うが、久遠が遺した符術研究は非常に危険だ。気を引き締めていくのだぞ」
春風は緊張を隠さず、強く頷いた。
「はい、師匠。必ず何かを掴んで戻りましょう!」
三人はすぐさま準備を整えると、江戸の郊外にあるという久遠の庵へ向けて出発した。
聞き込みを重ね、江戸の郊外にある久遠の隠れ家にたどり着いたが、そこは朽ちかけた小屋だった。周囲は草木が生い茂り、人の気配はまるでない。夕暮れ時の薄暗い光の中で、庵はひっそりとした佇まいを見せていた。
蒼龍が先頭に立って慎重に内部を覗き込むと、室内には久遠が使っていたと思われる符術資料や乱雑に散らばった護符が、埃をかぶり山積みになっていた。壁には符術の符文が乱暴に書き殴られている。
「まさしく、ここが久遠の隠れ家だな」
室内に入り手分けして散乱した資料を丹念に確認している中、春風が床に積み重なった巻物や冊子の山から、ひときわ古びた一冊の冊子を見つけた。
「師匠、これ……」
蒼龍は受け取った冊子の表紙を慎重に払うと、小さな声で呟いた。
「久遠が残した個人的な記録のようだ」
瑠宇と春風は顔を見合わせ、静かに頷く。蒼龍がゆっくりとその手記の頁を開くと、薄暗い灯りの中、墨が掠れ、書き殴ったような文字が姿を現した。
『またあの夜の夢を見た。護符が弾け、友の悲鳴が耳を突き刺す。あの惨劇を防げなかったのは、私の未熟さゆえか──否、そもそも符術というもの自体が人の手には余るのかもしれぬ』
蒼龍が読み進めると、頁には久遠が符術研究班にいた頃の混乱や葛藤が断片的に記されていた。しかし内容は錯乱したように時系列が入り乱れ、何度も同じ言葉や符文が繰り返され、まとまりを欠いている。
瑠宇が顔をしかめながら蒼龍に問いかける。
「師匠、この記録は混乱していて……何が書いてあるのか掴みづらいです」
蒼龍も頁をめくりながら頷く。
「久遠の精神が限界だった証かもしれぬな。だが、この混乱の中にも何か重要なことが隠されているはずだ」
更に読み進めていくと、手記には符術研究への執着と、その背後に隠れた狂気とも取れる感情が滲んでいた。
『私は辿り着いた。すべてを終わらせる方法に。あの忌まわしき符術を増幅させ、極限まで引き延ばせば、すべての符術そのものを打ち消せるかもしれない。あるいは逆に──私がこの符術ごと消えるしかないのか。もはや道は一つしかないようだ』
蒼龍が次の頁をめくると、そこには乱雑に書かれた符文と共に、抽象的で不明瞭な言葉が記されていた。
『地の底に反射を刻む。全てを鏡の中に閉じ込めよ。終わりは始まりに重なり、反射は無限を生む──』
春風が戸惑い、呟くように問いかけた。
「これって……一体どういう意味でしょう?」
蒼龍はしばらく無言で頁を睨んでいたが、やがて顔を上げて二人に静かに語りかけた。
「久遠は符術を制御する研究を進めるうちに、その反動で符術そのものに飲み込まれつつあった。精神が壊れかけている奴が、この記録をまともに書き残せなかったのも当然だ。だがこの記述を見る限り、おそらく意図的に『鏡返し』を極限まで暴走させる仕掛けをどこかに準備している。それも、江戸の地の底深くにな」
瑠宇が険しい表情を浮かべて言った。
「地の底に反射を刻む、とは地下に仕掛けを作ったという意味でしょうか……?」
蒼龍は頷き、厳しい口調で答えた。
「ありえるやもしれん。おそらく、この江戸の地下深くに『鏡返し』反射を無限に増幅するための仕掛けを秘密裏に設置したのだろう。それを起動すれば、霊気そのものが手に負えない規模で暴走し、すべてを巻き込みかねない」
春風が慌てて口を開いた。
「そんなことをしたら、江戸が壊滅してしまいますよ!」
「そうだ、だが久遠にとってはそれも覚悟の上だろう。奴自身も符術に飲み込まれつつあり、自らもろとも符術を終わらせるための手段と考えている可能性がある」
「でも、久遠さんはその装置を本当に使うつもりなんでしょうか? まさか、すでに準備が整っているなんてこと……」
「分からぬ。だが、奴の精神状態から考えれば、実行を躊躇う理由はないかもしれぬ。この装置が両企業に知られ、奪われでもしたら──」
瑠宇が強く頷き、焦りを滲ませて言った。
「今すぐ探し出して止めなければなりません。この手記を誰にも知られぬように保管しつつ、すぐに江戸地下を調査するべきです」
「そうしよう。この手記と、ここに残された久遠の研究資料も一緒に持ち帰る。装置の手掛かりが掴めるかもしれない」
三人は急ぎ必要な資料を選び、まとめ始めた。
庵の外に出る頃には月明かりが薄く雲に隠され、周囲は濃い闇に覆われていた。
蒼龍は静かに二人を見つめ、力強く告げた。
「今は時間との勝負だ。装置が起動されれば、江戸そのものが滅びかねぬ。私たちが必ず止めるぞ」
瑠宇も春風も強く頷き、覚悟を固める。
「はい、師匠。必ず見つけ出し、止めましょう」
三人は静かな決意を胸に抱きながら、江戸の町へ向けて歩き出した。背後に佇む久遠の庵は再び闇の中へと飲み込まれ、まるで久遠自身の悲劇的な運命を示すかのように静かに沈んでいた──。




