抗争の予兆
白菊重薬の研究施設を訪れてから数日が過ぎたが、再び江戸の空には厚く灰色の雲が垂れ込めていた。いつ降り出してもおかしくないような空気が、町全体を静かに包み込んでいる。
蒼龍庵の縁側では、蒼龍が厳しい表情で庭を眺めながら茶をすすり、瑠宇は施設訪問で得た情報を整理している。春風はその隣で考え込んだまま、手元の青丹鉱を無意識に指で転がしていた。
「あの日、白菊重薬の研究所で見た『幽鏡水晶』がどうも気になるんです……」
春風がぽつりと呟くと、蒼龍と瑠宇は同時に視線を向けた。春風は少し戸惑ったように頭をかき、言葉を継いだ。
「白菊重薬があの水晶で本当に符術の霊気を制御できるつもりでいるなら、なぜあそこまで焦って僕たちを引き入れようとするんでしょうか? そもそも僕らは符の知識があるだけの符術師ですよ。触媒なんか触ったことがありません」
蒼龍は軽く眉を寄せ、瑠宇も真剣な眼差しを春風に向けた。庵の庭に吹き抜ける微風が、草花を静かに揺らしている。
蒼龍は春風の問いに静かに頷き、ゆっくりと口を開いた。
「春風、お前の疑問はもっともだな。確かに白菊重薬が言うように水晶の触媒で制御が可能なら、なぜ門外漢である我々を保険として巻き込む必要があるのか……、正直取り込まれたところで尻拭いさせられるのが関の山だろう」
瑠宇も深く頷き、静かな声で補足した。
「確かに、幽鏡水晶を複数並列に置いて霊気を反射・分散させる仕組みは理論上有効でしょう。しかし、僕もあの現場で霊気暴走の一歩手前の状況を目の当たりにしました。実際は何らかの原因で制御が難しいのかもしれません」
蒼龍と瑠宇が春風の言葉を待って静かに座っていた。春風は緊張気味に何度か咳払いをし、墨と筆を手に取りながら言葉を選び始める。
「僕、白菊重薬の施設を見学して、ずっと考えていたんです。あの、僕が見て思ったんですが……『鏡返し』の符術は元々、反射による増幅が本質ですよね? つまり、そもそも霊気の反射を抑えるというのは符術の特性そのものを否定しているような気がして」
蒼龍が興味深げに視線を向け、瑠宇も身を乗り出した。
「続けてくれ、春風。お前の推測をもっと詳しく聞きたい」
二人は真剣に春風を見つめる。春風は丁寧に墨をすり始め、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「白菊重薬の『幽鏡水晶』による制御は、霊気の反射による減衰を繰り返して霊薬を安定させる方式ですよね。これの最大の利点は、装置が比較的簡単に作れて、水晶をいじれば反射率が細かく調整できることだと思います。でも、その分反射の均衡が一度でも乱れ減衰が効かなくなったら……霊気が無限に増幅されるリスクがあります」
春風が筆で白紙の上に反射を表す曲線を描き始めた。墨線が幾重にも交差し、霊気の動きを視覚的に示している。
「次に瑠宇兄さんから聞いた黄昏通信の方法は、鎮潮柱の技術を応用して膨れ上がった霊気を吸収・消費して暴走を抑える仕組みですよね。こちらは暴走した時に霊気を即座に収束させる可能性がありますが、消費しきれなかった場合には、あふれ出た霊気で破壊的な暴走を引き起こすかもしれないという欠点があります」
春風は鎮潮柱を示すように、縦に一本の線を書き、その周囲に渦巻く霊気の動きを筆で描き出した。
蒼龍はその概念図を興味深く見つめている。
「確かに、どちらも一長一短だな」
瑠宇も頷き、真剣な眼差しを向ける。
春風は自信なさげに頷き、思い切って口を開いた。
「はい、僕が考えたのは、両方の制御方式をうまく組み合わせたらどうか、ということなんです」
蒼龍の目が鋭く光り、瑠宇も前のめりになった。春風は意を決して再び筆を執り、より詳細な概念図を描き始めた。
まず幽鏡水晶の反射・減衰を描き、その外側に鎮潮柱の霊気吸収装置を図示した。二つの仕組みが精巧に絡み合い、霊気の流れを細かくコントロールする様子が浮かび上がる。
「幽鏡水晶が細かな反射を制御して、日常的な霊気のバランスを整える。そして、その中で制御しきれないほど膨張した霊気が生じた場合は、鎮潮柱の吸収機能で即座に収めるんです。そうすれば、白菊の仕組みが崩れても黄昏の吸収技術が暴走を防ぎ、逆に黄昏の吸収技術が限界に達しても幽鏡水晶がそれを緩和します。お互いの欠点を補い合えると思います」
春風の説明が終わると、しばらくの沈黙が訪れた。蒼龍は難しい表情で顎に手を当て考え込み、瑠宇も感嘆と共に深い溜息をついた。
「確かにこの二つの仕組みが組み合わされれば、相当精巧な霊気制御が実現できるかもしれない。お前が描いた概念図は実に興味深い……、だが春風、一つ見逃してはならぬことがある」
春風が不安げに師匠を見つめると、蒼龍は厳しい眼差しを向けて静かに言った。
「白菊と黄昏は企業として、あくまで相手の失敗を狙い、互いに競争することで社会的優位を得ようとしている。このような精巧な制御方式を構築するためには、本来なら両社の協力が必要だ。しかし互いが競い合う限り、それは望めぬ。むしろお前の描いたような組み合わせを目指しつつも、互いの欠点をつつき合うことで、より危険な事態が引き起こされる可能性すらあるのだ」
「確かに師匠の言う通りです。白菊も黄昏も、『鏡返し』符を基にした技術を使って、それぞれ通信と霊薬という違う分野で覇権を狙っていますよね。でも、どちらかが大きな事故を起こせば、相手はそれを利用して一気に自分たちの技術を宣伝できます。もっと言えば、黄昏が白菊の制御が暴走するように仕向ければ、黄昏は白菊に法外な値段で自分の制御技術を売り込める、その逆もまた然りです」
春風は困惑し、小さく俯いた。
「つまり両社とも、自分たちの制御技術の優位性を誇示するために、相手企業が重大な事故を起こすように仕向けているかもしれないと? 師匠……僕は、単純に技術的な可能性を考えただけで……」
蒼龍は優しく頷き、春風の肩に手を置いた。
「わかっている。お前の発想は非常に鋭い。そのような制御方法を思いつく者は稀だろう。だが問題は技術ではなく、人間の欲望と競争心の方なのだよ」
「師匠、両企業が『鏡返し』符という危険な符術の完成を競い合いながら、互いの研究妨害を仕掛け合っているとすれば、市井を巻き込んだ大きな暴走事件が起こる可能性は高いです。改めて白菊重薬の施設を調査する必要があります。僕がもう一度施設周辺を監視してみます」
蒼龍は静かに頷いた。
「深追いは禁物だぞ」
瑠宇は頷き、その夜遅くに単独で調査に出た。
雲の隙間から細い月明かりが差し込む中、瑠宇は先日招き入れられた白菊重薬の施設付近に静かに潜んでいた。周囲の静寂は張り詰めていて、耳を澄ませば遠くで微かな護符術の波動が伝わってくるようだった。
(春風の推測と施設で見た資料が正しければ、この施設のどこかで幽鏡水晶による治験が行われているはずだ……)
瑠宇は慎重に足音を殺し、施設の外壁沿いを静かに移動する。先日の訪問で内部構造は頭に叩き入れている。施設の周囲には警備の護符が点在しているものの、今夜の瑠宇はすでに護符を使って自身の霊気を巧みに消し去っていた。彼の姿は闇と完全に一体化し、誰にも気づかれることなく施設の背後へと回り込んだ。
施設の裏手に到着すると、小さな通風孔が壁に埋め込まれていることに気付く。瑠宇は素早く周囲を見回した後、その通風孔に近づき中を覗き込んだ──。瑠宇が通風孔から覗き込むと、薄暗い施設内部には青白く光る幽鏡水晶が整然と配置されていた。部屋の中央では、数人の研究員たちが慌ただしく装置を調整している。
「霊気反射率を上げろ! 減衰速度が追い付いていない!」
険しい声で指示を出しているのは佐久間だった。その表情はこれまで見たどんな時よりも切迫しており、額には冷や汗が浮かんでいた。装置の中央には治験対象と思われる患者が固定されており、その身体からは制御しきれない霊気が激しく噴き出している。
「佐久間主任、このままでは水晶がもたないかもしれません……!」
若い研究員が焦りながら報告するが、佐久間は動じず鋭く返した。
「予備の水晶を直ちに起動しろ! 絶対に反射率を下げるな。減衰さえ維持できれば暴走は防げるはずだ!」
研究員たちは震える手で追加の幽鏡水晶を起動させるが、患者から放出される霊気は減衰をはるかに上回り、徐々に膨張し始める。
瑠宇はその光景を見て、春風の懸念が正しかったことを痛感した。霊気は反射による減衰に不備があれば、際限なく反射を繰り返し、暴走に転じてしまう。彼が見ている今まさに、その暴走寸前の状態が現出しているのだ。
(やはり春風の推測通りだ……。このままでは間違いなく暴走する)
瑠宇は焦りながら、どうすべきか考え始めた。その時だった──。
「霊気が制御限界に達します! 佐久間主任、中止して霊気を地脈に流すしかありません!」
若手の研究員が叫ぶように提案するが、佐久間は苦い表情でそれを拒否した。
「だめだ! 限界まで抑えろ! このままでは我々の技術が不完全だと認めることになる。上層部はそれを絶対に許さない……!」
その直後、患者が激しい叫び声を上げ、霊気が膨張し始めた。幽鏡水晶が次々と音を立てて砕け散り、霊気が部屋中を乱反射する。佐久間たちは慌てて新しい水晶を持ち込もうとするが間に合わない。
「佐久間主任、暴走します! もう止められません!」
若手研究員の悲鳴に、佐久間は唇を震わせて赤い取っ手がついた装置の前に立ち尽くした。
「くそっ……また失敗なのか……! 霊気を地脈に流す!」
佐久間が赤い取っ手を下ろしたその瞬間、施設全体に霊気の衝撃波が広がった。瑠宇は慌てて通風孔から離れ、壁に背をつけるようにして激しい波動をやり過ごした。
(このままでは施設ごと吹き飛ぶぞ……!)
激しい振動が止むと、施設の内部では再び動きがあった。瑠宇が覗き込むと、設備が乱雑に散らかっているものの、霊気の暴走は収束しつつあった。佐久間は肩を落とし、疲れ切った様子で研究員に指示を出した。
「すぐに患者を運び出し処理しろ。この件は絶対に外部に漏らすな。黄昏通信に知られたら致命的だ」
白菊重薬は黄昏通信との競争のため、自社の技術の欠陥を必死で隠そうとしている。このままでは必ず大きな事故が起き、市井が巻き込まれるだろう。
瑠宇はその場を静かに離れ、施設から脱出する道を辿った。頭の中では、先ほどの霊気暴走の光景が何度も繰り返されていた。
(黄昏通信も白菊重薬も、このままでは必ず破局を招く……。春風の考えたように双方の技術を合わせるしかないが、企業の競争心がそれを許さない)
瑠宇が施設の外に出ると、月が冷たく空に輝いていた。彼は深呼吸をし、急いで蒼龍庵へと戻ることにした。
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蒼龍庵に戻った瑠宇は、息を切らせながら蒼龍と春風に施設での出来事を報告した。蒼龍は重く息を吐き、険しい表情を崩さずにいた。
「やはりな……白菊の霊薬実験は既に限界に来ているようだ。このまま放置すれば必ず取り返しのつかない事態になる」
春風も青ざめた顔で言った。
「師匠、黄昏通信の方はどうなんでしょう……?」
蒼龍が答える前に、玄関から切羽詰まったような春風の声が聞こえた。
「師匠、瑠宇兄さん、大変です! 黄昏通信の使者が来ています。至急会いたいと!」
瑠宇は驚いて蒼龍に目を向ける。
「このタイミングで黄昏が動いたとなると、白菊重薬の実験暴走の情報を既に掴んでいる可能性がありますね」
蒼龍は静かに頷き、ゆっくりと立ち上がった。
「そうだろうな。いよいよ企業間の抗争が本格的に動き出したということだ」
瑠宇と春風は蒼龍の後に続き、玄関に向かって急いだ。蒼龍庵には重苦しい空気が立ち込め、企業の符術競争が社会を巻き込んだ暴走事件へと確実に繋がりつつある現実を示していた──。




