鏡薬計画
数日続いた霧雨がようやく止み、薄灰色の雲間からぼんやりと淡い陽光が差し込んでいる。蒼龍庵の庭先では、雨に濡れた草花が瑞々しく輝き、縁側には雨上がりの爽やかな空気が流れ込んでいた。
しかし、その爽やかさとは裏腹に、庵の内部では張り詰めた緊張が漂っていた。瑠宇が拾った白菊重薬の探霊符を巡り、蒼龍、瑠宇、春風が静かに対策を話し合っている最中、庵の門前に再び白菊重薬の使者が現れたのである。
使者は前回訪れた古橋であった。彼は慎重な足取りで庵の門をくぐると、丁寧に深々と頭を下げ、蒼龍の前に立った。その表情には前回とは異なり、明確な目的を秘めた強い決意が宿っているように見えた。
「再三のご訪問、失礼いたします、蒼龍様。白菊重薬より正式にお招き申し上げたいと思い参りました」
古橋の落ち着いた声音には、有無を言わせぬ切迫感が滲んでいた。蒼龍は静かな視線を送り、ゆっくりと息をついた。
「白菊重薬がそこまでして私たちを巻き込もうとする理由、改めて聞かせてもらおうか」
庭先を抜けてきた微風が、わずかに縁側の風鈴を揺らし、甲高くも儚い音色が庵の中に響き渡った。
古橋は蒼龍の鋭い眼差しに静かに目を伏せ、わずかに息を整えると、穏やかな口調で話し始めた。
「単刀直入に申し上げます。黄昏通信が進めている『鏡返し』符の制御技術は我々の予測より遥かに進んでいます。このままでは、市井どころか他の企業ですら黄昏通信に抗えなくなるでしょう」
「その話は先日も聞いた。何が言いたい」
「ご存じの通り、我々も霊薬研究に『鏡返し』符の応用を霊薬の製造に用いています。黄昏通信とは根本的に異なる独自の制御方式を採用しており、現状では安定していますが──蒼龍様、あなたほどの符術師をお迎えすれば、万が一の事態にも備えることが可能になります」
蒼龍は少し目を細め、警戒するような声音で問いかける。
「黄昏通信との符術競争に勝つため、私を『保険』として雇おうというわけだな。しかし先日の研究施設での騒ぎを私は見た。万が一ではなく十中八九だろう。まだ賭場に巣くうごろつきどもに文無し保険を売る方が儲かるだろうな」
古橋は苦い表情を隠さず、すぐに頭を下げて答えた。
「あの騒ぎは黄昏通信の工作員による妨害が原因です。我々の技術自体に問題はありません」
その言葉に瑠宇が口を挟む。
「しかし、先日施設で『鏡返し』符の暴走寸前の状況を私も見ています。制御は完全とは言い難いのでは?」
古橋はゆっくりと顔を上げ、瑠宇の視線を真っ直ぐに見返した。
「いいえ、我々の制御方式は符そのものに手を加える黄昏通信とは異なります。薬剤と符の間に特殊な霊気触媒、『幽鏡水晶』を設置し、霊気の流れを外部制御することで暴走の可能性を極限まで低減しています」
瑠宇は『幽鏡水晶』という言葉に微かに眉をひそめた。
「霊気触媒ですか……」
「ええ。符自体に無理な改造を施さないため、暴走時の破滅的な結果を防ぐことができるのです」
蒼龍は軽く息を吐き、慎重な口調で問い返した。
「触媒が壊れたり、意図せず霊気を遮断されたりしたらどうなる?」
「その懸念はありますが、実際の運用では万全の対策を講じています。しかしそこに蒼龍様のような符術に精通した方の助力を得られれば、さらに安全性が高まるでしょう」
「なるほど、だから私を引き込みたいわけか。私を迎え入れておけば、万が一触媒が機能しなくなった場合でも対処できると考えているのだろう?」
「その通りです。蒼龍様ほどの符術師がいれば、『鏡返し』の運用に伴うあらゆる危険性を限りなくゼロに近づけられます」
その時、横で話を黙って聞いていた春風が思わず口を挟んだ。
「でも、それって結局、危ないって認めているのと同じじゃありませんか?」
「いえ、それは──」
蒼龍がゆっくりと手を挙げて制した。
「春風の言う通りだ。お前たちの言う通りに制御ができているなら、私の存在など不要だろう」
「――確かに完全な制御にはいまだ課題があります。ただ、黄昏通信が完成させる前に、我々がより安全な技術を確立する必要があるのです。どうか一度だけでもお越しいただき、助言をいただければ」
畳に額をこすりつける古橋を蒼龍は静かに見据え告げた。
「よかろう。一度だけ施設を見させてもらう。しかし、それで協力するかどうかは別だぞ」
古橋は安堵したように頭を挙げた。
「ありがとうございます。施設でお待ちしております」
古橋が庵を去った後、瑠宇が口を開いた。
「師匠、本当にいいのでしょうか。白菊に協力するようなことをしてしまって」
「私たちに足りないものは何だと思う、瑠宇」
「……情報でしょうか?」
「そうだ。四大企業と比べて私たちは圧倒的に情報が少ない。少しでも有利に立ち回るには危険だとわかっていても情報を拾うしかない。今回のことは好都合だ。黄昏の制御法はお前が知った。白菊の制御法もこれで分かる。もしどちらかを相手取る必要があるならその制御の隙を突くしかない。目を皿のようにして見るんだよ。あと春風」
春風はまさか自分の名前が呼ばれるとは思っておらず上ずった声で返事をした。
「今回はお前も来い。四大企業の符の技術を学ぶいい機会だ。策を練るのにお前の頭を使う必要があるかもしれない。今までは瑠宇と二人だったが、三人寄れば文殊の知恵だ」
「しょ、承知しました。お供させていただきます」
翌日、蒼龍、瑠宇、そして春風の三人は白菊重薬の研究施設に足を踏み入れた。施設内は清潔で整然としており、静かに機械音が響いている。ほどなく研究室で佐久間が現れ、蒼龍を見て僅かに表情を曇らせた。
「佐久間殿、やつれましたね」
瑠宇が声をかけると、佐久間は疲れた顔で微笑んだ。
「ええ、『鏡返し』の制御に苦戦しておりますので……」
佐久間は言葉を濁したが、傍らに立つ古橋が笑顔で言葉を引き取った。
「佐久間は慎重派ですので心配が多くて当然なのです。こちらをご覧ください」
古橋はそう言うと、特殊なガラスケースの中に淡く輝く結晶を示した。
「これが霊気触媒『幽鏡水晶』です。これを介在させている限り、符の暴走は起こりません。この水晶は霊気を多重に反射・分散させる特性を持ち、符術の暴走を未然に防ぐ役割を担っています」
春風は興味深そうに目を凝らすが、蒼龍は眉間にしわを寄せて黙り込んでいる。
「符術の霊気を反射・分散させるというが、触媒の管理に問題があれば暴走もありうる」
古橋は自信を崩さず答えた。
「その場合は、霊気の暴走が起こる可能性は否定できません。ただし我々は、複数の幽鏡水晶を並列に接続し、相互に霊気を補完しあう安全装置を構築しています。これが黄昏通信とは根本的に異なる我々独自の制御方法なのです」
「つまり、完全な制御とは程遠いということだな」
佐久間は視線を落とし、小さく頷いた。
「はい、完全ではありません。だからこそ、師匠のような強力な符術師の助けが必要なのです」
春風が口を開いた。
「じゃあ、やっぱり危険なんじゃないですか? そこまで無理に使わなくてもいいと思いますけど……」
佐久間は思わず春風に視線を向け、古橋は慌てて説明を付け加えた。
「危険性がないとは言えませんが、この研究が成功すれば、霊薬の効果を劇的に向上させ、多くの患者を救えるのです。黄昏通信のように通信網の支配を狙うものとは違います」
瑠宇は施設内を注意深く観察しながら、ふと別室の扉が僅かに開いていることに気づいた。そっと扉の隙間を覗き込むと、机の上には何枚もの資料が無造作に広げられていた。その中には人体に『鏡返し』符の霊薬を投与したと示す記録が並んでいた。
(すでに治験まで進んでいるのか……)
瑠宇は眉を寄せ、強い違和感を覚えながら、急いで蒼龍のもとへ戻った。
蒼龍はその瑠宇の表情を見て、何かを察したように静かに頷き、穏やかに口を開いた。
「施設は十分見せてもらった。今日はこれで失礼する」
古橋は丁重に出口まで案内し、深く頭を下げて見送った。
蒼龍庵へ戻る道中、瑠宇は低い声で蒼龍に報告した。
「師匠、白菊はすでに人体への治験段階まで進めているようです。『鏡返し』の霊薬を直接人体に投与した記録を確認しました」
蒼龍は重く息を吐き、厳しい表情で応じた。
「予想はしていたが、想像以上に深刻な状況だな。治験まで進んだ以上、白菊も容易には後戻りできまい」
「師匠、それってやっぱり危険ですよね?」
春風が不安そうに問いかける。
蒼龍は頷き、静かな口調で答えた。
「黄昏通信とは異なるが、白菊もまた危険な道を歩んでいる。両者の競争が激化すれば、間違いなく我々を巻き込んだ騒動が起きるだろう」
瑠宇は決意を固めたように口を開く。
「師匠、早急に手を打つ必要があると思います。これ以上放置すれば本当に取り返しがつかなくなります」
蒼龍はゆっくりと頷き、春風を見つめながら落ち着いた声で告げた。
「企業同士の符術開発競争はもはや避けられぬ。我々が動くべき時は、近づいているのかもしれぬな」
三人は無言のまま足を速め、雨上がりの湿った道を蒼龍庵へと急いだ。背後の空には再び雲が厚く垂れこめ始め、不吉な予兆を感じさせていた。




