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影札商売  作者: To-Marigi
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霊薬の陰

降り続く霧雨が江戸の町並みを静かに濡らし、灰色の空は朝から低く垂れ込めていた。蒼龍庵の庭先には水滴をまとった青葉が静かに揺れ、静謐な空気が漂っている。


蒼龍と瑠宇は縁側に腰を下ろし、静かに茶を飲んでいた。黄昏通信江戸支部で目にした『鏡返し』符の暴走未遂や、その後に感じた監視の気配を振り返り、二人は静かに話を交わしていた。


その時、庵の門前に人影が現れた。傘を手にした男はゆっくりと門をくぐり、庭先に立ち止まると深々と頭を下げる。胸元には白菊重薬の紋が小さく光り、冷静な表情の奥には隠しきれぬ緊張が宿っていた。


蒼龍は視線を静かに向け、その来訪者を見定めるように小さく息をついた。


「白菊重薬か……。なにやら面倒な話を持ち込んできたようだな」

「そのようですね」


筒仕事をしていた春風が門前の来訪者に気が付くと手際よく招き入れた。霧雨がさらに細かく降り注ぎ、庵の庭を静かに湿らせていた。


白菊重薬の使者は静かに蒼龍の前に座り、一礼した。落ち着いた声で丁寧に話し始める。


「蒼龍様、突然の訪問、失礼いたします。私は白菊重薬の古橋と申します」


蒼龍は冷静な目でじっと使者を見据え、穏やかに返した。


「挨拶はよい。それより、白菊重薬がわざわざここを訪ねた理由を聞こうか」


古橋はわずかに唇を引き締め、小さく息を整えた後、慎重に切り出した。


「先日の黄昏通信での一件について、ぜひとも情報交換をお願いしたいのです。葛城慎之介という男についても……」

「葛城殿は黄昏通信の人物だが、白菊重薬とはどう関わるのか?」


古橋は再び言葉を選び、やや声を潜めて続けた。


「実は、葛城慎之介は我々白菊重薬の間者として黄昏通信に送り込まれた者です。彼の任務は、黄昏通信が『鏡返し』をどの程度制御しているか、その技術を探ることでした」

「なるほど。それで白菊は葛城殿からどの程度の情報を得ていたのだ?」

「残念ながら葛城は命を落とし、十分な情報を得られませんでした。ただ、彼が命がけで得ようとした情報が『鏡返し』符の通信技術への転用だったことは把握しております」


蒼龍は短く息を吐き、じっと相手を見つめる。先日、蒼龍が白菊重薬の研究所で佐久間と会ったことは黄昏通信の襲撃に紛れうやむやになっているようだった。


「しかし、白菊もまた、『鏡返し』符を霊薬研究に応用しているだろう。符を利用し霊薬の薬効を持続・増幅させる研究を進めていると聞いているが?」


古橋は小さく息を呑み、やや身構えるように答えた。


「よくご存じで、はい。その通りでございます。ただ、黄昏通信のやり方とは異なります。我々はあくまで治療目的の霊薬開発のため、慎重に『鏡返し』符を制御し、その技術を完成させています」


蒼龍は研究所での一件を思い起こし、静かな声音で反論した。


「間者のせいとはいえ試作符のおかげでお前たちの研究所が騒ぎになっていたではないか。完全制御などありえぬぞ。どのような方法にも、相当な危険が伴うことは否めぬ。葛城殿の末路を見てもそれは明らかだ」


古橋は冷静さを装い、蒼龍の言葉を否定するように首を振った。


「葛城の死は黄昏通信の符術の危険性を物語るものです。我々はすでに符の制御技術を完全に確立しております」


その時、部屋の障子が静かに開き、春風が茶を運びながら入ってきた。彼は場の空気を察知してか、ややぎこちなく茶を置いた。


「お茶をお持ちしました、師匠」


春風が小声で告げると、古橋がふと彼に目を向ける。


「こちらは?」


瑠宇が素早く口を挟んだ。


「弟弟子の春風です。護符師としてまだ未熟ですが、才能は確かな者ですよ」


春風は困ったような笑みを浮かべ、小さく頭を下げた。


「春風と申します。お構いなく……」


古橋は春風に僅かに微笑を返したが、再び視線を蒼龍に戻した。


「蒼龍様、我々は黄昏通信の行動が甚大な被害をもたらすことを危惧しております。その点については貴方様と利害が一致しているはずです。ぜひともご協力をいただきたい」


蒼龍は静かに茶を口に運び、一息置いた後に答えた。


「お前たちの危惧はもっともだが、私たちは企業の抗争に巻き込まれるつもりはない。四大企業であればなおさら」

「しかし、このままでは黄昏通信が先んじて『鏡返し』符の通信技術を完成させる可能性があります。そうなれば我々だけでなく、市井にも影響は避けられません」


瑠宇は口を挟まずに黙っていたが、黄昏通信支部の地下で見た『鏡返し』の試作符が並べられた室内の光景を何度も脳裏に浮かべていた。


春風が思わず口を挟む。


「あの……そんなに危険なら、無理して使わなくても良いのでは……」


春風の素朴な疑問に、古橋は苦笑いを浮かべて返した。


「確かに、しかし我々が制御を完成させねば、黄昏通信が先に危険な用途で使い始めるでしょう。止められるのは我々しかいません」


蒼龍は静かに言葉を遮った。


「制御が可能という慢心が最大の危険だ。その考えこそが暴走を招く。完全制御などないと心得るべきだ」


古橋は無言で頷いたが、その表情には納得しきれていない色が浮かんでいた。


しばし沈黙ののち、古橋は静かに立ち上がった。


「本日は突然の訪問、失礼いたしました。お考えが変わりましたら、いつでもお声掛けください」


彼が去った後、蒼龍は小さく溜息をついた。


「白菊重薬も黄昏通信も、己の力を過信している。しかし、二社ともこちらに接触してきている以上どのみち巻き込まれるか……」


瑠宇が頷きながら呟く。


「師匠、どう動きましょうか?」


蒼龍は落ち着いて茶碗を置き、ゆっくりと答えた。


「企業同士が牽制し合っているうちはよいが、どちらかが突出した時こそ最も危険になる。その瞬間を見逃してはならない」


春風がぽつりと呟いた。


「企業同士って、なんだか怖いですね……」


蒼龍は静かに微笑み、春風に優しく言った。


「お前が今後護符師として歩むなら、このような抗争にも巻き込まれることは避けられぬ。その稀有な才能を持つなら否が応でもだ。しっかり覚悟を決め、抗える力を身に着けておきなさい」


春風は唾を飲み込み、小さく頷いた。


「はい、師匠……」


その夜遅く、瑠宇は庵の庭先を見回ると、物陰に微かな霊気の歪みがあった。そこには見覚えのない護符が貼られており、白菊重薬の紋様がくっきりと刻まれていた。霊気が微かに揺らめき、瑠宇の指先を冷たく撫でるようだった。


「これは……」


護符を手にしたまま瑠宇は蒼龍の元へ急ぎ、その不穏な存在を伝えるべく足を速めた──。


瑠宇が拾い上げた護符を見た瞬間、蒼龍の表情が険しくなった。護符に刻まれた白菊重薬の紋は確かにその素性を物語っていたが、二人にはそれ以上の意味がはっきりと分かっていた。


「これは──探霊符か」


蒼龍が低く呟いた。瑠宇も無言で頷き、蒼龍に応えた。


「ええ。しかも、ただの探霊符ではありませんね。これは術者の気配を隠しつつ、対象の霊気を探るための特殊な探霊符……。白菊重薬が密かにこちらの動きを探るために置いたのでしょう」


蒼龍はゆっくりと符を裏返し、そこに刻まれた繊細な符文を確かめるように指でなぞった。


「白菊も本格的に動き始めたようだ」


蒼龍は護符を静かに床に置き、小さくため息をついた。


二人が黙り込んだその時、庭先から微かな物音がした。二人は鋭く視線を向けたが、そこにもう誰もいなかった。だが、探霊符を置いた者がまだ近くに潜んでいることは明白だった──。


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