江戸支部潜入
雨は小降りとなり、街灯に照らされた江戸の町並みが再び静けさを取り戻しつつあった。蒼龍と瑠宇が目指す黄昏通信江戸支部は、市中に紛れるようにひっそりと建つ、ごくありふれた商家の装いをしている。表向きは情報屋、裏では影札仕事を仲介する拠点だ。
周囲に気を配りながら近づくと、玄関先にはうっすらと灯りが灯り、夜遅くまで誰かが働いていることを示していた。普段は静かなこの支部も、今夜は明らかに違う。霊気を帯びた護符が建物の周囲を厳重に巡回し、わずかな緊張感が漂っているのが肌で感じられた。
「師匠、やはり葛城殿の一件で警戒を強めているようですね」
瑠宇が警戒を滲ませて囁く。蒼龍は小さく頷き、懐から黄昏通信から預かった影札を取り出して見せた。
「今夜は我々も依頼主への報告者だ。正面から堂々と入り、この騒動に乗じて内部の状況を確かめさせてもらうよ」
二人は深呼吸をし、緊張を押し殺して玄関の扉を叩いた。中からゆっくりと足音が近づき、扉が静かに開かれた──。
黄昏通信江戸支部の応接間は静寂に満ちていた。支部長の神谷は落ち着いた所作で蒼龍を迎え、深々と礼をした。
「蒼龍殿、遅い時間に恐れ入ります。それで……調査結果はいかがでしたでしょうか」
蒼龍は静かな視線を神谷に向け、低く落ち着いた声で答える。
「葛城慎之介殿の死因は、『鏡返し』符の暴走によるものと見て間違いあるまい。現場は鏡のように歪み、尋常ならざる霊気が乱れておった」
「やはりそうですか。葛城は我々の中でも特に情報戦略を推進していた男でしたが……」
蒼龍はその言葉を遮るように静かに続けた。
「葛城殿は『鏡返し』符の実用化に反対だったようだな。その強い拒絶の意志が本人に跳ね返り、命を奪ったものと推測している」
「葛城が反対派ですと? それは少々驚きました。我々の見解とは異なりますね……」
「人の心とは、存外移ろいやすいものだよ。『鏡返し』ほどの強大な力に触れれば、考えを改めることも珍しくはない」
神谷は納得するようにうなずいた後、ややためらいがちに言った。
「ところで蒼龍殿、先ほど白菊重薬にも寄られたようですが」
蒼龍は動じず、視線を神谷に据えたまま淡々と答えた。
「白菊が霊薬研究に符を利用していると聞き及んでな。念のため確認に寄ったまでのことだ」
「それで、白菊重薬側の状況は?」
蒼龍は神谷の目をじっと見据えたまま答えた。
「予想通り、霊薬の開発に護符を応用しているようだ。しかしこちらとは方向性が違う。少なくとも葛城殿の死に直接関与している可能性は薄かろう。白菊自身も試験段階で難航している様子であった」
「なるほど。白菊もそれほどまで苦慮していると……。まあ、我々としては先手を打つまでのことですが」
蒼龍は淡々と告げる。
「いずれにせよ、ご依頼の調査はここまでだ。影札仕事は完了したと考えてよろしいかな?」
神谷は即座にうなずき、背後の棚から漆塗りの箱を取り出して蒼龍に差し出した。
「蒼龍殿には、いつも迅速かつ正確な仕事をいただき感謝しております。報酬はこちらです、ご確認ください」
蒼龍は箱を受け取って瑠宇に渡した。瑠宇は手早く中を確認し事前の報酬と違わないことを確認すると蒼龍に目配せした。
「確かに受け取った」
神谷は軽く息を吐き、言いにくそうに続けた。
「……もう一つだけよろしいでしょうか。葛城の死に、久遠が絡んでいるという情報がありますが、何か掴んでおられますか?」
「久遠か……。確かに奴がこの件の裏にいる可能性は高い。だが、詳しいことはまだ掴めておらぬ」
神谷は苦い表情を隠せずに答える。
「やはりそう簡単には掴めませんか……。葛城の件と二式符の件、いずれも久遠が鍵を握っていると我々も睨んでおります」
蒼龍は神谷をまっすぐ見据え、静かに忠告した。
「久遠は危険だ。奴が追い詰められれば、甚大な被害を招きかねん。神谷殿もその辺り、よく心得ておかれることだな」
「心得ました。蒼龍殿のご忠告、肝に銘じます」
神谷は姿勢を正し、慇懃無礼に頭を下げた。
神谷はやがてゆっくりと立ち上がり、穏やかな口調で告げる。
「蒼龍殿、瑠宇殿、遅くまでお疲れのことでしょう。しばし支部内でお休みくださいませ。ご自由にお使いいただいて構いません」
蒼龍は落ち着いて頷いた。
「では、しばし休ませてもらおう」
神谷が部屋を出て扉が閉まると、瑠宇は小さく声を潜めて問いかけた。
「師匠、本当にここで休むのですか?」
蒼龍は視線を閉ざしたまま、静かな声音で返した。
「言葉は方便だよ。神谷は肝心な情報を隠している。今はむしろ絶好の機会といえるだろう。支部内の様子を探っておく必要がある」
瑠宇はうなずき、慎重に声を落とした。
「では私が先に内部を探って参ります。師匠はここでお待ちください」
蒼龍は静かに息をついた。
「よいか、瑠宇。黄昏通信は符術の護符を張り巡らせている。決して油断するなよ。お前なら大丈夫だろうが、決して無理はせぬようにな」
瑠宇は力強く頷いた。
「承知しました」
瑠宇が部屋を静かに去った後、蒼龍はひとり応接間の椅子に深く腰掛け、目を閉じた。応接間には再び深い静寂が戻り、部屋の外からは微かな足音や囁くような話し声が漏れ聞こえている。黄昏通信の支部は一見落ち着きを取り戻したように見えたが、その静けさがかえって緊張を高めていた。
しばらくすると、蒼龍はゆっくりと目を開け、鋭く周囲を見回した。
(支部の中枢は地下だろう。おそらく神谷殿が肝心なことを隠しているとすれば、そこだな)
蒼龍は立ち上がり、部屋の隅にかけられていた壁掛けの護符に軽く手を触れた。護符はわずかに霊気を帯びており、霊脈が地下へと向かって流れていることを彼女は敏感に感じ取った。
「やはりか……」
小さく呟くと同時に、微かな物音がした。廊下の向こうから近づく気配に耳を澄ませる。瑠宇のものではない、誰か別の者がこちらに向かってきていた。
扉がゆっくりと開かれる寸前、蒼龍は再び椅子に深く座り直し、何事もなかったかのように目を閉じた。支部内に潜む謎を解くためには、この小さな駆け引きにも耐える必要があった。彼女は静かに時を待った。扉が開く音が、次の波乱の始まりを告げるように響いた──。




