反射の謎
激しい雨音が、静まり返った白菊重薬の研究施設を包み込んでいた。夜闇の中で鈍く光る外壁は、企業間の緊張を象徴するかのように冷たく濡れそぼり、敷地内の石畳には無数の水たまりが光を反射させている。
蒼龍と瑠宇は雨具をしっかりと整えながら、施設の正門前で足を止めた。蒼龍の視線は、門の奥にひっそりと佇む研究棟に向けられている。施設全体に張り巡らされた結界や霊気を探知する護符の微かな波動が、空気中に不穏な緊張を走らせていた。
「師匠、この警備体制を見る限り、簡単に入ることは難しそうですね」
瑠宇の声にも警戒が滲む。蒼龍は微かに眉をひそめ、低く呟いた。
「私たちが来たことを知れば、佐久間は必ず顔を見せる。そうすれば少なくとも話を聞く機会はあるはずだよ」
その言葉に導かれるように、蒼龍は静かに門へと近づき、護符を取り出して警備の符へと軽く接触させる。霊気が微かに反応すると、敷地内の空気がぴりりと震え、正門奥の建物の扉が開き、誰かがこちらに駆け寄ってくる気配がした。
正門から駆け寄ってきた男は、傘もささずに雨に濡れながら、蒼龍の姿を確認すると驚きのあまり立ち止まった。
「師匠……なぜここに?」
「久しぶりだね、佐久間。こんな夜分に押しかけて申し訳ないけれど、急ぎの用事なんだよ」
佐久間は約十年前まで蒼龍庵で符術を学んでいた弟子の一人だった。瑠宇の弟子入りの数年前に庵を巣立ち、その後白菊重薬に籍を置き、現在は霊薬研究と符術研究の責任者となっている。温厚で誠実な性格だが、やや内気で、企業の論理には馴染み切れていないことを蒼龍は案じていた。
「ここは企業の施設です。いくら師匠とはいえ、無許可で立ち入るのは困ります……」
佐久間は困惑しつつ背後の警備員を気にしたが、蒼龍はそれを見抜いて穏やかに言った。
「そうだろうね。だが葛城慎之介という男が死んでね、黄昏通信の男だ。そこに『鏡返し』が関わっていることは把握しているよ」
佐久間は一瞬表情がこわばった。蒼龍はその反応を見逃さず、さりげなくさらに一押しをかけた。
「それにお前たち白菊重薬が『鏡返し』を研究していることも掴んでいる」
佐久間の目が動揺で揺れた。その動揺を見て、蒼龍は内心、やはり鎌をかけて正解だったと確信した。
佐久間は警備員に少し離れるよう指示し、小声で言った。
「黄昏……、師匠、こちらへ」
案内された佐久間の研究室は、資料と霊薬瓶が整然と並ぶ落ち着いた部屋だった。椅子に座ると、佐久間がため息混じりに口を開いた。
「師匠、どこまで知っているのですか?」
蒼龍は淡々と答える。
「葛城の死因が『鏡返し』の暴走であることは現場を見て明らかだったよ。だが、黄昏通信だけではこの符の研究は難しいだろうと踏んでいたからね。ほかの二つは脳筋と蘭学狂いだ。残るは、比較的まともで頭もよくて地道な研究が大好きなお前たち白菊重薬しかない。協力してるのか、間者が入っているのか。まあ間者だろうが。どのみち、お前は私の鎌に引っかかったというわけだ」
佐久間は顔を伏せ、悔しそうに唇を噛んだ。
「私は企業の一員として秘密を守る義務があります……それに葛城という人物も知らない。しかし、師匠の推測通り『鏡返し』はここで研究しています。ですが、軍事転用などが目的ではありません。霊薬の純度と効能を飛躍的に高めるために符の反射作用を応用しようとしているだけです」
蒼龍は静かに問いかける。
「だが、その研究で問題が起きているのではないかい?」
佐久間は苦しげに目を逸らした。
「……試験段階の符で、精神に異常をきたした研究員が数人います。『鏡返し』は術者の負の感情や罪悪感を増幅し反射します。制御が難しく、危険性が極めて高い符なのです」
瑠宇が口を挟んだ。
「もしかすると、葛城殿の死因もそれによるものかもしれませんね。彼はおそらく『鏡返し』の使用を阻止しようと動いた結果、その強い拒否感や否定の意志が反射されて亡くなったのではないでしょうか」
佐久間は弟弟子の問いかけに「そういうこともあるだろう」と目を伏せた。
蒼龍が鋭く言う。
「佐久間、その研究には久遠が関与しているのだろう?」
佐久間はぎくりとして顔を上げた。
「……ええ。久遠はよき協力者でしたが、すでに精神が限界に達していて、まともな対話すら難しい状態です。符の力に蝕まれているようで……」
蒼龍は複雑な表情で頷いた。
「久遠が絡んでいるならなおさらだ。彼を放置すればまた悲劇が起きるだろう」
その時だった。突然施設内に警報音が鳴り響き、佐久間は焦って立ち上がった。
「これは──まさか、黄昏通信か?」
蒼龍はすかさず確認する。
「黄昏通信がなぜ『鏡返し』を狙う?」
佐久間は冷静さを失い、勢い込んで答える。
「情報のためですよ! 黄昏通信は我々の『鏡返し』研究を奪い、護符を使った『反射通信符』を作ろうとしているんです。『鏡返し』の性質を使えば、攻撃や妨害をすべて跳ね返し、通信網を無敵にできる。企業同士の争いで圧倒的な優位性を持つことになる」
蒼龍と瑠宇は目を合わせた。黄昏通信の目的が明確になった瞬間だった。
「佐久間、その試作品を奪われた場合、何が起きる?」
佐久間は蒼ざめて言った。
「試作符はまだ不完全で制御不能です。もし強引に使われれば暴走します。今使われてしまったら──」
言葉を遮るように、部屋が激しく揺れ始めた。霊気が暴れ出し、空間が鏡面状に歪み始める。
「くそっ!やりやがった……!」
佐久間が悲痛に叫ぶ。蒼龍は瑠宇に立つよう指示し、すぐに出口へ向かった。
「佐久間、ここは危険だ。安全な場所へ避難しなさい。私たちもここを出る」
佐久間は震える声で告げた。
「師匠、本当にすみません……私の研究が、こんな事態を招いて……」
蒼龍は佐久間の肩に優しく手を置き、力強く言った。
「お前一人の責任じゃないよ。企業同士の争いはだれにも止めることはできない」
蒼龍と瑠宇が研究室を飛び出すと、廊下はすでに霊気の渦が荒れ狂い始めていた。施設の壁が波打ち、鏡面が次々と広がる。
瑠宇が険しい表情で蒼龍を見た。
「師匠、次は黄昏通信の江戸支部ですね」
蒼龍は重々しく頷いた。
「そうだね。影札仕事は終わらせる。だが、この問題の根本を探らなければならない」
二人は混乱する施設を後にし、降りしきる雨の中へと駆け出した。彼らの前には、霊気が暴れ回る施設の明かりが不気味に揺らめいていた。
降りしきる雨の中、研究施設の外に飛び出した蒼龍と瑠宇は、施設全体が激しい霊気の歪みに飲まれ始めるのを振り返った。激しく揺れ動く鏡面の反射が、夜空を不気味なほどに照らし出している。
「師匠、このままでは白菊重薬の研究施設は壊滅してしまいます」
瑠宇の表情に焦りが滲んだが、蒼龍は静かに頷くだけだった。
「止められるのは、発動した黄昏通信だけだろう。私たちには止められない」
蒼龍は険しい目つきで、混乱する施設を見つめ続けている。
「佐久間殿は大丈夫でしょうか」
「佐久間は私が育てた弟子だよ。奴も一人前なら符術師としての最低限の身の守り方は知っているさ。それに、白菊重薬の研究成果も、ここで全て失われるとは限らない」
遠くから警備の怒号や叫び声が聞こえてきた。蒼龍は施設から目を逸らし、夜闇に浮かぶ街灯の灯りが揺らぐ道を見据えた。
「瑠宇、次は黄昏通信だ。私たちは報告という形で正面から入り、内情を掴むよ」
瑠宇が決然と頷き返した。
「承知しました、師匠」
雨脚はますます強まり、彼らの決意を試すように叩きつけていた。




