不可解な死
江戸郊外にある黄昏通信社員の邸宅は、どんよりと曇った空の下、ひっそりと静まり返っていた。周囲は人気がなく、雑草が伸び放題となった庭には、風に揺れる古びた風鈴の音だけが、寂しく響いている。蒼龍と瑠宇が邸宅の門をくぐると、敷石に付着した血痕が生々しく目に飛び込んできた。玄関扉はわずかに開き、何かが起きたことを物語っているかのように、不自然な角度で傾いていた。
蒼龍は慎重な手つきで懐から影札を取り出し、改めて内容を確認した。黄昏通信特有の暗号化された文字列は、彼が指で軽くなぞると淡く光り、読み取れる情報を浮かび上がらせる。
『黄昏通信社員・葛城慎之介が、自宅にて不可解な死を遂げた。遺体には外傷はないが、室内には鏡面状の特異な反射痕が残されている。現場の状況から、符術による何らかの攻撃、あるいは地脈干渉が疑われる。極秘裏に現場の詳細な調査を求む。また、同社員は、近頃二式護符の研究に関する重要機密に接触していた模様。詳細は直接報告を願う──黄昏通信 江戸支部』
蒼龍の表情が、かすかに険しくなる。
「九式護符──二式・鏡返しだろうな……」
二人は息を整え、意を決してその扉を押し開けた。中から漂ってきたのは、かすかな鉄錆の匂いと、霊気が焦げた独特の臭気だった──。
玄関をくぐった二人の目に最初に飛び込んできたのは、廊下の壁面に異常なほど滑らかに反射する鏡面だった。明らかに人工物とは異なるその輝きは、不気味なほど透明で、廊下の向こう側が歪みながら映り込んでいる。
「師匠、これはやはり……」
瑠宇が息を呑み、壁面に慎重に指を触れた。彼の指がわずかに霊気に弾かれるような感触に眉をひそめる。
「ああ、間違いないね。二式・鏡返しだ」
蒼龍は静かな声音で答えると、懐から護符を取り出し、慎重に壁面にかざした。護符が微かな輝きを放ち、壁に接すると一瞬だけ鏡面にひびが走り、すぐに元の滑らかさを取り戻した。
「空間そのものが書き換えられている」
蒼龍は息を吐き、ゆっくりと歩を進めた。廊下を進むと、部屋の扉がわずかに開いており、その奥には荒れた書斎が見えた。
「失礼します──」
瑠宇が丁寧に告げ、扉を慎重に押し開ける。室内は荒らされていた。机はひっくり返され、書類や護符が床に散乱している。瑠宇は眉間に皺を寄せながら慎重に床の紙を拾い上げた。
「護符研究の資料ですね。黄昏通信の印がありますが……これは調査記録のようです」
蒼龍は瑠宇の拾い上げた資料に視線を落とした。黄昏通信の印が押された書類には、緻密な調査結果が細かい文字で記されていた。
『二式護符『鏡返し』の実験痕跡を確認。企業による二式護符の実用化阻止が最優先課題。符術師・久遠が完成に執着しており、極めて危険。警戒を強化せよ──葛城』
蒼龍は厳しい顔つきで頷いた。
「葛城慎之介は、二式護符の完成を阻止しようとしていたようだね。しかも久遠を名指しで警戒している」
瑠宇が慎重に問いかける。
「久遠という人物が、この件の鍵を握っているのですね?」
蒼龍は静かな目で頷いた。
「久遠は私と同じく、かつて幕府護符研究班に所属していた符術師だ。三十五年前、九式護符『破星』の暴走事故で研究班が壊滅した際の死にぞこないの一人だよ。以来、奴は企業に追われながら、二式・鏡返しの完成に固執している」
蒼龍の言葉を受け止めた瑠宇が、わずかに眉根を寄せた。
「なぜ久遠はそれほどまでに二式・鏡返しにこだわるのでしょう?」
「奴はあの事故の責任を自ら背負い、二式を完成させることで自分自身と、符術への執着をも終わらせようとしているのかもしれない。ただ、その強力すぎる力が企業や他者の手に渡れば、さらなる悲劇を生むことは明白だ」
蒼龍が言葉を切ると、瑠宇がふと顔を上げ、部屋の隅に置かれた大型の姿見に目を留める。
「師匠、あの鏡は妙に綺麗ですね。この状況にしては……」
蒼龍も気づき、ゆっくりと近づいて鏡の前に立った。その瞬間、鏡面が波紋のように揺らぎ、二人の姿が歪んで映り込んだ。
「これは──」
その時だった。鏡の中の蒼龍と瑠宇の姿が急に動き出し、現実の二人とは異なる動きを見せた。瑠宇ははっと身構える。
「師匠、これは普通じゃありません……!」
「落ち着け瑠宇。これはまだ残響にすぎない。『鏡返し』の影響で記録された過去の映像だ」
鏡の中で動き出した蒼龍たちの映像はすぐに崩れ去り、今度は葛城の姿が映り込んだ。葛城はひどく狼狽し、誰かと口論をしている。
『久遠……お前、本気なのか! 二式を完成させれば、あの悲劇が再び──』
鏡の中から葛城の叫びが響く。相手の姿は鏡の角度のため見えないが、葛城の視線は強い敵意と恐怖に満ちている。
『もうこれ以上犠牲を出すわけにはいかない!』
葛城の言葉は途中で途切れ、何かに苦しむように胸元を押さえ、そのまま崩れ落ちる様子が映し出された。映像はそこで歪み、途絶えた。蒼龍は険しい表情で息を吐いた。
「葛城は久遠に直接接触していたようだ。二式の完成を止めようと説得に及んだが失敗した。そして、何かによって命を奪われた」
瑠宇が冷静に問いかける。
「この『鏡返し』の護符の特性は、攻撃や意図を反射するものだと伺っています。ならば葛城殿が亡くなった原因もそれに関連するのでしょうか?」
「おそらくね。葛城は何らかの術を用いて久遠を止めようとしたが、それが反射され、自らの命を奪った可能性がある。ただ、それを断定するにはまだ情報が足りない」
蒼龍の言葉を聞き、瑠宇が姿勢を正した。
「では、我々はどう動きましょうか?」
蒼龍は冷静に考えを巡らせる。
「まず黄昏通信へ調査結果を報告する。それと同時に、久遠が現在どこにいるのか、その足取りを掴む必要がある」
瑠宇は静かに頷いた。
「承知いたしました、師匠」
蒼龍はゆっくりと頷き返すと、再び室内に視線を戻し、散乱する資料や護符の残骸を静かに見回した。彼女の瞳には、かつての同僚であり、今や敵とも味方ともつかぬ久遠への複雑な感情が入り混じっていた。部屋に再び沈黙が戻ったが、その空気は確実に張り詰め、二人の胸には静かな緊張が宿った。
調査を終え、二人は邸宅を後にした。空はいつの間にかさらに暗くなり、今にも雨が降り出しそうだった。門を出たところで瑠宇がふと振り返り、蒼龍に尋ねる。
「師匠、久遠という方を追うのであれば、彼に関する手がかりはどこにあるのでしょうか?」
蒼龍は静かに歩を止め、しばらく考えるように目を閉じた。
「かつて幕府研究班が崩壊した後、久遠は行方をくらませ、姿を見せることは滅多になかった。ただ、もし彼が動き出しているのだとすれば──おそらく企業が絡んでいるはずだ」
その言葉を口にした瞬間、蒼龍はふと何かに気づいたように表情を変えた。
「師匠、どうされました?」
「黄昏通信に報告する前に、もう一つ立ち寄るべき場所がある。瑠宇、少し遠回りになるが、白菊重薬に向かうよ」
瑠宇は驚きを隠せずに蒼龍を見つめ返した。
「白菊重薬──企業間抗争に巻き込まれることになるのですか?」
蒼龍は険しい表情で空を仰いだ。
「巻き込まれるのではない、すでに巻き込まれているんだよ」
その時、遠雷が静かに響き、二人の行く手を示すかのように最初の雨粒が地面を叩き始めた。




