月影谷への旅立ち
山々は濃い緑の衣をまとい、遥か彼方まで連なっていた。
その山の一つ、切り立った尾根の向こうから、二つの人影が姿を現す。
膝丈まである雑草を踏み分け、重い荷を背負った蒼龍と瑠宇だ。
だが、二人の足取りは驚くほど軽やかだった。
足首には、それぞれ小さな護符が貼られている。
「軽歩符」――霊気を用いて重みを軽減し、険しい山道でも平地を歩くように進める符だ。
「符のおかげで、これほど荷を背負っても足が軽いですが、早足だと息が上がるのは仕方ありませんね」
瑠宇が息を整えつつ言う。。
「贅沢を言うな。この符がなければ、そもそも背負ってる荷の半分も持てん」
蒼龍は笑い、先を進む。
荷には食料、符の道具、武器、その他必要な資材――生半可な重量ではなかった。
道中のことを、瑠宇はふと思い出す。
城を発ってから、二人はまず典膳の計らいで蒸気馬車で移動することとなった。
城から月影谷まで至る山道は、野を越え山を越える一月近い行程だ。だが、藩主典膳の配慮により、五つある村のうち三つ目の村まで蒸気馬車で送り届けてもらった。
城から五つの村を越えて月影谷に至る街道の、ちょうど三つ目の村まで彼らを運んでくれた。
残る道のりは、険しい山越えだ。
なぜ最後まで送らなかったのか――それは、万が一何か起こった時、藩主の関与が疑われないようにするためだった。
あくまで、龍と瑠宇だけの「私事」として処理できるように。
そのおかげで、彼らは本来一月近くかかる道のりを、ほぼ半月で月影谷近くまで迫ることができた。
玄作たちは先行して七日ほどの差をつけていたが、足手まといの護符匠を連れた義肢兵たちでは、進軍速度も鈍る。
これなら、月影谷の道中のどこかで追いつける――そう踏んでいた。
瑠宇は、歩きながら符の束を懐から取り出し、ペンを走らせる。
夕方、二人は小さな丘の中腹で野営の支度を始めた。
焚き火を起こし、簡素な夕餉を済ませると、それぞれ道具を整える時間になった。
瑠宇は懐から筆と符を取り出した。
こうした細かな作業は、足元が安定している野営の夜でなければできない。
「群符……。対象を個々に扱うんじゃなく、ひとまとめに制御する……」
蒼龍が焚き火を見つめながら声をかけた。
「新しい符でも試しているのか?」
「はい、群符の改良を進めています。複数の対象を一度に制御できれば、戦闘の際に役立つかと思いまして」
「いい心がけだ。だが、霊気の流れを一点に集めすぎるなよ。負荷で破綻するぞ」
「承知いたしました。重ね書きで霊気を分散させる設計にしてみます」
蒼龍も思索を続けていた。
(……一式・時裂が完成し、霊潮域で使われたら――)
思い出すのは、栞姫に起きた症状だ。
強い霊気に晒され、意識が混濁し、時間の流れさえ歪むような症状。
だが――若返り?
瑠宇から聞かされた、玄作の野望。
若返りを狙って一式・時裂を作成しようとしているという話。
蒼龍は眉を寄せ、静かにつぶやいた。
「……もしや、若返るとは肉体ではなく“自我を巻き戻す”ことか」
若返るとは、肉体ではなく精神の初期化。
意識を巻き戻すことで、人は「若かった頃の自分」に戻ったかのように錯覚する。
だがその代償として、過去も経験も忘れ去る。
蒼龍の脳裏に、嫌な予感が渦巻いた。
夜が迫り、二人は小さな開け地で野営を取った。
焚き火を囲み、簡素な食事を済ませると、互いに無言のまま眠りについた。
明け方、森を抜けると――
視界が開けた先に、黒火重工の野営地が現れた。
軍用テントが幾つも張られ、義肢兵たちが周囲を警戒している。
その中央、縄で縛られた玄作の姿が、かすかに見えた。
蒼龍は静かに刀の柄に手をかけた。
瑠宇も懐から火縄拳銃を引き抜き、静かに気合を込める。
頷き合い、二人は森の影から躍り出た。
銃声が森にこだまする。
瑠宇の火縄銃から放たれた霊気弾が、見張りの義肢兵の外殻を割り鮮血をまき散らした。
蒼龍は一気に間合いを詰め、鋭い太刀筋で兵士たちを薙ぎ払う。
「敵襲――!」
野営地が瞬時に騒然となる。
黒火の義肢兵たちは並みの相手ではなかった。
重い義肢を駆使し、恐るべき俊敏さで反撃してくる。
蒼龍は森の影を縫うように駆け、霊鉄鎖を解き放った。
しなる鎖が義肢兵の脚を絡め取り、隙を作り出す。
その隙を逃さず、瑠宇が霊合を交換しながら連続発砲する。
火筒操術独自の軽やかな身のこなしと、二挺の火筒が鋭い弾幕を作った。
隊長格と思しき男が鋭く指示を飛ばす。
「玄作を護れ! こいつらを引き離せ!」
統率は見事だった。
義肢兵たちは守りを崩さず、玄作を護衛しながら、徐々に撤退を始めた。
蒼龍は刀を抜き、滑るように切り結び、霊鉄鎖を巧みに操ることで義肢兵の盾を無理やり傾ける。
それを見た瑠宇はそのわずかな隙を正確に撃ち抜く。
剣と火筒。
近接と中距離。
二人は互いの動きを読んで、流れるように戦った。
蒼龍の刃が義肢兵の肘を裂き、
そこへ瑠宇の霊気弾が装甲の継ぎ目を撃ち抜く。
一撃一撃が無駄なくつながり、義肢兵たちの隊列を徐々に崩していった。
だが――
玄作が腰から一枚の符を抜いた。
「止まれ、若造ども」
彼が地面に叩きつけた瞬間、
眩い光が辺りを覆った。
視界を灼く閃光。
玄作のはなった目つぶしに二人がたじろぐと、そこに義肢兵が蹴りを入れ体勢を崩す。
「退け!」
隊長格の男の声がとどろくと、すでに敵の背中は森の向こうに消えかけていた。
「……逃がしたか」
目を開けたとき、玄作たちの姿はすでになかった。
野営地には、打ち捨てられた荷物と、倒れた義肢兵たちだけが残されていた。
蒼龍は刀を鞘に納め、息を整えた。
「まあ、義肢兵を減らし、野営の物資を押さえられただけでも、よしとするか」
瑠宇も火縄銃を収め、うなずいた。
朝霧の中、二人は残された荷物を調べながら、次なる手がかりを探し始めた。




