親と子
瑠宇の視界は、完全に第五倉庫の中に閉じ込められていた。体が固く強張り、視線一つ、指一本すら動かせない。
目の前では玄作がよろめきながら、何かをぶつぶつと呟いていた。彼の表情には満足感と、同時に深刻な戸惑いが交じっていた。
「なるほど……符の効果は概ね想定通り。認識を乱し、記憶の連続性を遮断する……だが問題は副作用だ。これほど霊気の波が強いと術者自身も巻き込まれる。改良するなら霊気の流出を抑える仕組みが必要……」
玄作は自身の頭を押さえながら苦しそうに呻いた。
「くそっ、これでは使えん……もう少し改良を……」
その時、黒火の義肢兵が倉庫の奥からゆっくりと姿を現した。彼は重厚な黒光りする義肢を装備した男で、鋭い眼差しで玄作を睨んだ。
「玄作、時間だ。行くぞ」
玄作はまだ頭を押さえたまま、よろよろと立ち上がった。
「ああ、行こう。次は霊潮だな? もっと安定した環境で符を試さねば……」
義肢兵は冷たく頷き、ほかの義肢兵に鋭い声で指示を出した。
「おい、『月影谷』へ向かうぞ。霊気装備を忘れるな。護符の準備を急げ」
「了解!」
兵士たちが迅速に動き始め、玄作を護送して倉庫から出ていく。やがて人の気配が消え去り、倉庫内に再び静寂が訪れた。
朝日が徐々に倉庫の隙間から差し込み、瑠宇の視界を赤く染め始めた――。
「瑠宇! おい、瑠宇!」
激しく揺さぶられて、瑠宇は突然現実へと引き戻された。目の前には蒼龍の焦りに満ちた表情があった。
「師匠……?」
「気が付いたか! 五分も動かなかったぞ!」
「五分……?」
瑠宇の体感では、軽く五時間は経っていた。彼は戸惑いながら、ようやく理解した。
「師匠、記憶が戻りました。玄作殿が一式・時裂を使用したのちのことです」
「なに? 少なくとも今のお前の霊気は健やかな流れだ。そのせいで記憶が戻っただと……?」
「はい、記憶が戻ったのちの朝日が差し込むところまで、そうか……これは記憶が回復する過程だったのですね。極小の霊気だまりが遮っていた記憶を認識するための」
「ひとまず記憶については置いておこう、ともかくこれで姫を助ける方法は分かった。だが、体への負担が予想以上に大きい。これを姫に使うには危険が伴う」
瑠宇は気力を振り絞って起き上がり、自ら符を書き始めた。
「次は師匠の番です。この体験を共有していただかねば」
瑠宇は蒼龍の手助けを得ながら符を完成させ、蒼龍に使用した。蒼龍もまた深い幻覚を体験し、玄作や黒火たちの行動を目の当たりにした。
「なるほどな……」
蒼龍は汗だくになりながら、いましがたの体験をかみしめ静かに頷いた。
「私にもこの符は効いた。ひとつづつ霊気だまりを解くよりも格段に体力の消耗は減った。これで治療法は確定だ。だが寝たきりの栞姫にそのまま使うわけにはいかん。まだ体力の消耗が多すぎる」
「いったいどうすれば」
「考えがある。芦原殿が首を縦に振ればだが……」
二人は汗だくの身を清めると、共に藩主・芦原典膳への報告に向かった。
典膳は報告を聞くと、深く考え込んだ。
「体力をそれほど消耗するというのか……」
「はい。そこでご提案があります。栞姫様と典膳様が手を繋ぎ、符で霊気を繋げて、体力の消耗を肩代わりしていただきたいのです」
側近の者たちは典膳を諌めた。
「殿、危険でございます! 万一のことがあれば藩そのものが……」
典膳は静かに手を挙げ、周囲の者を制した。藩主としてではなく、父親としての葛藤がその表情に現れていた。
しばし沈黙が流れたのち、典膳は決然と言った。
「私は藩主である前に一人の父だ。子を救うためにできることをしないで何が父だ。蒼龍、任せるぞ」
蒼龍は深く頭を下げた。
夜、栞姫の寝室には藩主と両人のお付きの者が入り、話し声一つたてず静かな緊張が満ちていた。
お付きの者どもは寝室に湯桶と手ぬぐい、掛布団、握り飯などを持ちこみ、何があってもよいように様々な道具を用意していた。
栞姫は眠りの中で時折苦しそうに眉間を寄せている。典膳は姫の手を握り、覚悟を決めた表情で側に座った。
「よし、蒼龍。やれ」
蒼龍は静かに典膳が握り重ねた栞姫の手の上に符を置き、瑠宇と共に念を込め始めた。
「霊気を繋いだ。これより符を行使する。芦原殿、決して手を放さずどうか耐えてくだされ」
符が発動すると、部屋中に淡い青白い霊気が広がり始め、お付きの者どもがどよめいた。典膳は苦痛に顔を歪め、額に汗を浮かべるが、その手は決して離さなかった。
「栞……戻ってこい……」
典膳の声は微かに震えていた。お付きの者どもが栞姫と典膳の顔に噴き出る汗を拭こうとするが、ことごとく瑠宇に阻まれた。
霊気を繋ぐ符を使用している以上、当事者以外が触れると何が起こるかわからないためだ。
やがて姫の呼吸が深まり、眉間の皺がゆっくりと伸び始めた。典膳もまた消耗が激しく、唇が青白くなりながらも耐え続けた。
「師匠、霊気だまりがまとまりました!」
瑠宇が叫ぶと同時に、蒼龍が解きの符を発動し、栞姫を蝕んでいた霊気が一気に解放された。
先ほどの霊気の爆光が嘘のように静まり、明かりになれた目には静まり返った漆黒の闇が広がっていた。
「父……上……?」
畳の上から、静寂に慣れた耳にはっきりと微かな声が聞こえた。
典膳は力尽きたように倒れ込みかけたが、かろうじてその手は姫の手を握ったままだった。
「栞……よく戻った……」
蒼龍と瑠宇は肩で息をしながら安堵した。お付きの者どもも歓声を上げ、一部の者が白中に伝えに走る。典膳の呼吸も次第に整い、栞姫も意識がはっきりとしてきた。
窓から朝日が差し込み、部屋を明るく照らし出した。姫の意識は無事戻り、全員が無事であった。瑠宇ももはや者どもが汗を拭う手を止める必要はなかった。




