第3話 必殺!! 無限イキ地獄!!
創作の源とは、愛である。多くは、自己愛。筆者も例に漏れない。しかし、世界には他者への愛を源として筆を動かす人間もいる。ロニ、希有な男。
女の醜い裸なんぞ見たくねぇ。ロニはそう言った。そう言い切ったのだ。腐り切った腐女子だって、そうそう言い切れるものではない言霊だ。それでも、筆を動かす。キャンバスに女の裸を浮かばせる。
愛しているのだ、正史郎を。出会ったばかりの中年を、愛しているのだ。ナルキッソスもびっくりな美青年が、愛しているのだ。
異世界だから、といったご都合主義ではない。この愛にはロジックが存在している。鳥類の刷り込みに酷似したロジックが・・・・・・ロニは、正史郎の手ほどきを受け、生まれて初めてイッたのだ。無論、精通だったなんていうファンタジーではない。射精、そんなものは生理現象でしかなく、女がそうであるように、男も真にイクということは、心がイクということなのだ。再び、言おう。ロニは、正史郎の手ほどきを受け、生れて初めてイッたのだ。初体験をくれた中年に、抱く思いは、言わずもがな、愛という名の刷り込みだった。快感とは、本能に比類する劇薬である。
醜いと称した女の裸は、作者の主観に反して、美しかった。仕上げのニスさえもが艶を引き立てるほどに。
時刻と相まって、正史郎は白昼夢にあるかのような錯覚を覚えた。余りにも、余りにも、ロニの絵はど真ん中のストライクが過ぎた。
「デフォルメはされていない。しかし、この絵は紛れもなく、エロ画像だ」40号サイズの絵を、正史郎はデカい上半身で包み込んだ。「ロニよ。お前がPIXIVを戦場としたならば、AIとの最終戦争を生き残ることができるだろう」
愛する男が醸し出す満足感に、ロニは至福を覚えた。与える喜びは、授乳のよう。母乳だけが正義ではない。自ずと、愛の形は多様なのだ。
ここで、読者のあなたに問いたい。好物のオカズが目の前に転がっていたら、どうしますか? 言わずもがな、ヌキますよね。恥ずかしがらなくていいんです、ヌキますよね。即刻、ヌキますよね。あなたは健全で素晴らしい人間です。しかし、それでは常人の域を出ない。即刻ヌイているようでは、真のオナニストたりえない。正史郎を見てほしい。全裸という臨戦態勢でありながらも、ちんちんに意識を向けていない。ならばどこに意識を向けているのか?
「鰻を食える店はあるか、ロニ?」オナニストの答えだった。「鰻を食わねばならん」
「お気に召しませんでしたか?」失意の影が差して、ロニの白い肌は青みを帯びた。「僕の絵は、正史郎様のオカズとなるには不足でしたか?」
大粒の涙がこぼれ落ちて、しかしそれが床を濡らすことはなく、唯、正史郎の指を濡らした。
「勘違いするな、ロニよ」目元を優しく拭ってやる。「お前の絵は俺のちんちんの琴線に触れた。鰻を食らうは下準備よ。極上のオカズを食らうための、な」
「食らうために、食らう?」意味が、分からなかった。「意味が、分かりません」
「惰性による射精は排尿と同じ」正史郎が諭した。「ボクシングはリングに上がる前に勝敗が決しているもの。オナニーも同じ。シコる前に勝敗は決しているのだ。すなわち、精液の錬成は、常日頃の食、筋トレ、睡眠によって成る。まずは、食。朝昼晩と一日三食、精の付くものを食らい、射精量によっては補食も取る。アスリートみたいなものだ。次に、筋トレ。これは血行を良くし、男性ホルモンも増やせる、正にオナニーのお供だ。上半身を鍛えるのは当然として、重要なのは下半身の筋肉。スクワット中心のメニューを組むが必定。アスリートみたいなものだ。最後は、睡眠。夜間にしっかりと八時間、睡眠を取る。ニ十分間の昼寝も忘れるな。アスリートみたいなものだ」
抗い難しは、加齢。正史郎も39歳、オヤジ化が進んでいる。つまり、教えたがりになってきているということだ。若い子を捕まえたら、無限に諭しちまう。
「朝勃ちは偶然ではなく、必然。オナニーのジャストタイミングは朝、ということだ。まず、午前六時に起床。朝食を食らい、風呂に入る。シャワーだけで済ますな、湯船に浸かって血行を良くしろ。そうして、午前八時からオナニー開始だ。正午までの四時間、寸止めを繰り返し、濃い精液を発射する。射精後、昼寝をし、昼食を取り、筋トレ開始。四時間、しっかりと鍛える。筋トレが終わったら、晩飯を食らい、後は就寝までエロの開拓、および翌朝に用いるオカズの厳選に勤しむ。これを365日、欠かさず行うことこそが、オナニストの証・・・・・・」
「正史郎様、お仕事は、お仕事はなさらないのですか?」
話の腰を折られ、しかし正史郎は高らかに笑った。人間が出来ている。
「ロニよ! 仕事をする時間がどこにある!?」
察して、ロニは温かい微笑みを浮かべた。
「話は聞かせてもらったぞ、正史郎!」いつの間にか目を覚ましていたマルコが、言った。「破門された修道士が店主をやっている料理屋で美味い鰻が食えるぞ! 私の行きつけの店だ! 付いてくるがよい!」
意気揚々と外へ出たマルコに、正史郎が続いた。
ロニは、急いで衣服を身に付け、正史郎を追いかけた。
太陽が、高い。微風が陰毛を撫でる。ビンビンに最高の陽気は、正史郎の歩を自然と速めた。
「急がずとも、鰻は逃げんぞ!」マルコは笑った。「うい奴め!」
我々庶民は、貴族のパワーに驚愕せねばならない。連れが全裸でも咎められることがないのだ、貴族は! 貴族の連れなら咎められることがないのだ、全裸が! 老若男女問わず、道行く誰もがマルコに頭を下げ、正史郎には一瞥をくれるのみ。無茶がまかり通っている。異世界に限らず、現実世界にも通じるパワーの論理だ。
「見えたぞ、あの店だ!」小洒落た木造建築を指差して、マルコは言った。「お勧めは鰻のカチャトーラだ! 三人前で192ドル! 案ずるな! お前と、ロニの分も、私が支払おう!」
「一人当たり9000円ほどか」正史郎は舌なめずりをした。「正に鰻といった価格設定だ」
中世ヨーロッパ風の世界に、日本家屋は実在した。桐材を用いた引き戸を開けば、小上がりが目に入る。靴を脱いで上がれば、足裏にハードでソフトな刺激。畳だ、畳じゃないか。さすがは高級な鰻屋だ、上等なイ草を使っている。さあ、座布団に尻を置こう。そうして、座敷机に頬を当てるのだ。ほら、漆の涼が感じられる。障子を開いて、格子窓から覗く小さな庭は、枯山水。現代ヨーロッパに存在する日本料理屋よりも、よっぽど日本を再現している。
「へい! らっしゃい!」江戸っ子を絵に描いたような店主が注文を取りに来た。「マルコ! コノヤロー!」
「随分な挨拶だ、シケタ!」マルコは笑った。「この地で私にそんな口をきくのはお前だけだぞ!」
「3秒以内に注文を決めねえと、叩き出すぞ!」江戸っ子らしく、せっかちだ。「コノヤロー!」
「うな重」微塵も臆さず、正史郎は言った。「特上で」
「ウナジュウ? バカヤロー! そんなメニューは取り扱ってねぇ!」
「鰻を蒲焼きにしたものだ」
「カバヤキ? バカヤロー! 鰻はワインで煮るもんだ!」
「ソーリー。日本的な店構えに先入観を持ってしまった」正史郎はマルコを見やった。「お勧めは、鰻のカズレーサーだったか?」
「カチャトーラだ!」マルコは笑った。「それを三人前頼むぞ、シケタ!」
隣の客席が近い。日本によくある詰め込み式の店舗だ。汗ばむ。人の熱で、汗ばむ。
襟をはだけて、覗いた鎖骨に、ロニは手うちわで風を当てた。ああ、色っぽい。よく見れば、横座りしているじゃないか、ロニよ。連なる素足、その裏側はシルクのように滑らか。ああ、色っぽい。ちんちんが付いてるって? 構うものか!
「鰻は切らしてるんでい!」シケタは小判帽を投げ捨てた。「パンでも焼けっていうんか、バカヤロー!」
「まだ正午を回ったばかりだ」マルコが言った。「何があった、シケタ?」
「貴族のくせに何にも知らねぇのか、おめえは!」シケタのつばが飛ぶ。「ポンポコ教の大司教がこの街に来てるんだろうがよ! 魚の類一切は、そのバカヤローに献上させられちまった!」
「鰻はどこで獲っている?」正史郎が尋ねた。「シケタよ」
「町から南に2キロ行った場所にある川でい!」
「種類は?」
「二ホンウナギでい!」
「養殖か、天然か?」
「バカヤロー! こちとら天然素材に誇りを持ってるんでい!」
「では三匹、必要か」正史郎は立ち上がった。「待っていろ、ニ十分で戻る」
「全裸、コノヤロー! 産卵期が近いぞ!」
「分かっている!」正史郎はもう、走り出していた。「雌には手を出さんさ!」
大抵、風を切って走るとは比喩であるが、この場合には例に漏れた。風を切って走っている、物理的に。100メートルを9秒台で走る速度、そいつを10キロメートルは維持できる持久力だ。
凄まじい健脚で、正史郎の後姿はたちまち見えなくなった。
「イイ男じゃねえかい、マルコ!」シケタはマルコの背中を叩いた。「おめえさんも人を見る目が備わってきたか!」
マルコがはにかんだ、刹那に、表から悲鳴が聞こえてきた。
「喧嘩か!? 火事か!?」
江戸っ子らしく、シケタは躊躇なく表へ飛び出した。マルコとロニも後に続く。
西から、馬車がやってくる。ファンタジーらしいデカさの馬、ファンタジーらしいデカさのキャビンだ。10トントラックよりデカい。
シケタの頬を、冷や汗が伝った。
馬車に縄で繋がれて、三人の男がダッシュを強要されていた。全員、汗だくだ。一体どれだけ走らされたのか見当もつかない。
「広場まで来ましたね」キャビンの中から声がした。「停めなさい」
馬車が停止すると同時に、三人の男は倒れた。朦朧とした瞳、乾ききった息。縄できつく結ばれた両手首からは出血までしている。満身創痍だ。
「何を休んでいる、クズども!」
そう言って、御者は三人の男を鞭で打った。痛苦に満ちた絶叫が響き渡る。
御者のサイズも、馬車と同様に規格外だった。クスリの使用を疑わざるを得ないほどに隆起した筋肉を纏い、タッパは3メートルを優に超えている。これじゃあ異世界じゃねぇ、世紀末だ。
「お止めなさい」
キャビンから出てきた男が、御者を制止した。
「はい! 分かりました!」御者は鞭を振る手を止めた。「ドントニール大司教!」
ドントニールと呼ばれた男もまた、デカかった。御者よりデカい、と言えばそのデカさが伝わるだろう。
「乱れた性の根源である異端者どもは、神の御業によって罰せられなければなりません」ドントニールが言った。「用意しなさい。神の裁きを具現した、ちんちんギロチンを」
命じられて、御者はキャビンからギロチン台を三台、下ろした。このギロチン台、馬車とは違ってサイズがスモールだ。切断部を挿入するくぼみは手指が三本しか入らない程度の大きさで、刃が上がる高さの上限も2メートル足らず。真っ当なギロチン台でないことは火を見るよりも明らかだ。
「立て、クズども!」御者は鞭で三人を脅かした。「ちんちんギロチンの前に直立しろ!」
恐怖が、弱り切った体に力を呼び戻した。男が一人、全速力で駆け出す。
「クズめ、逃がさんぞ!」
怒声と同時に繰り出された鞭は、その強力なしなりを以てして、男の背中に裂傷を加えた。
か細い声が短く響いて、男は前のめりに倒れた。
御者は男に近付き、髪をつかんで顔を上げさせた。
「おお、生きてるか。いいぞ、貴様。俺は今まで、逃げ出した男を何人もこの鞭で殺してきたんだ。その度、ドントニール大司教から大目玉を食らってよ。今日は運がいいぜ、へへへ」
「あなたたちは逃げ出そうなどとは考えないことです」顔面蒼白な二人の男に向かって、ドントニールが言った。「逃げて命を落としたならば、死体は埋葬されず、野ざらしにされます。それはつまり、安らかな眠りにつけず、神の御側にも行けないということ。逃げ出そうなどとは、考えないことです」
御者は、引きずってきた男をギロチン台、元いちんちんギロチンの前に立たせた。
残りの二人も、ちんちんギロチンの前に立つ・・・・・・おや、よく見るとこの三人、全員が全員、イケメンだ。びっくりするくらい顔面が整っている。体系もほっそりしていて高身長で・・・・・・悔しいです!
「ボトムスを脱ぎなさい」
暴力は自尊心を奪う。三人は言われるがままに下半身を露にした。
イケメンたちのイケメンたちは、萎れて、下を向いていた。当然だ。死を目前にしてそそり立つ勇者など、フィクションでしかないのだから。
「いつもながら世話が焼けるぜ!」
言うや否や、御者は懐から錠剤を取り出した。それを三人に飲み込ませる。
「ポンポコ教に伝わる秘薬、ラグアイバです」ドントニールは邪悪に微笑んだ。「その効力はご覧の通り」
ムラムラした。ムラムラして、三人は嬌声を上げつつ頬を上気させた。全身が弛緩する。萎れていたモノも、どんどんどんどん脈打って、上を向いていく。
直に、その名に恥じぬ肉棒が出来上がって、後はもう、そいつをちんちんギロチンのくぼみに挿入すれば万事OKなのであった。
「ちんちんギロチンの刑、執行の準備は整いました!」三人の挿入が済んだのを確認して、ドントニールは叫んだ。「神の代理として、私、ドントニールが、異端者たちの贖罪を見届けます!」
歓声が上がった。処刑現場に無数の観衆が詰めかけていたのだ。古来より、公開処刑は人類の最大の娯楽。21世紀になってさえ、炎上という名の公開処刑は健在だ。度し難い、真に度し難い人間のサガは、処される三人を一層、追い詰めた。
「お待ちになってください! 大司教様!」
奇跡とは、こういう事象を指すのであろう。大音量の罵詈雑言が轟くなか、女の儚い叫びは全員の耳にはっきりと届いた。
女が、ヒールの折れた靴を握りしめ、裸足で駆けてくる。途方もない距離を走ってきたのであろう、汗だくで、足裏も傷だらけだ。
ドントニールは、女を見詰め、目じりを下げた。
「うら若き乙女よ! あなたの訴え、このドントニールが聞きましょう! 皆の者、道を開けなさい! 彼女を私の側へ!」
モーゼもびっくり、人込みに道が開けた。信仰の恐るべきパワーである。
女は、ドントニールの足下で跪いた。
「大司教様! お願いいたします! 彼を、解放してください!」女は、三人の内の一人を指差した。「彼はポンポコ教の敬虔な信徒です! 彼とは交際して2年になりますが、未だにキスはおろか手をつないだことさえありません! 今日のデートも、きちんと2メートルの距離を取り、連れ立っておりました! そうだというのに、強引に連行した挙句、すぐさま処刑などとは、あんまりでございます!」
下がっていた目尻が、上がった。憤怒が、醜い顔をより一層醜くする。
「貴様もイケメンを擁護するかぁ!」
感情を動力とした平手打ちが炸裂する。吹き飛ばされた女は、顔を両手で抑えつつ、うめいた。
「お止めください! 大司教様!」彼氏が、叫んだ。「ちんちんギロチンの刑、潔く受けます! ですから、彼女にだけは乱暴をしないで下さい! お願いします!」
火に油を注ぐとは正にこのことだった。ドントニールは彼氏に駆け寄り、平手打ちを放った。
「イケメンに生まれた上に、かっこいいセリフまで吐くか!? この、欲張り! 欲張り! 欲張り!」欲張り! 一回につき平手打ち一発だ。「欲張り! 欲張り! 欲張り!」
「ドントニール大司教! お心をお静めください!」御者の制止だった。「これ以上続けては、処刑の前に死んでしまいます!」
彼氏は、気を失っていた。ちんちんを固定されているため吹き飛ぶことも出来ず、ジャストミートで打たれ続けた顔は大きく腫れ上がり、最早イケメンの体を成していなかった。
彼氏の顔に満足を覚え、ドントニールは笑顔を取り戻した。
「皆の者、聞きなさい!」ドントニールは両手を大きく開き、天を仰いで叫んだ。「イケメンとは、すなわち悪魔の化身なり! 女をたぶらかし、女を独占し、イケメンならざる者たちに無限の辛苦を与える災厄そのもの! 想像してごらんなさい、イケメンの存在しない世界を! そこには差別も屈辱もない! 誰もが皆平等に、愛を享受できるのです! イケメンの根絶こそが神の御心! 私は過去に106人のイケメンをちんちんギロチンの刑に処してきました! しかし、神はまだ足りないと仰っておられる! 今、この邪悪な三人を処することによって、為される善行は煩悩の数を超え、更なる断罪の足掛かりとなるでしょう! 神が作りたもうた完璧な世界、そこに生じてしまった汚れを浄化するため、全てのイケメンに死を!」
同情の余地はある、共感も全く出来ないと言えば噓になる。しかし、それでも、それでもだ。暴力を扇動する主張は肯定されるべきではない。とはいえ、観衆は等しく人間だ。人間という邪悪な種だ。歓喜する。歓喜している。彼らにとって、正しいか正しくないか、そんなものは鼻くそ程の価値もない。自分以外の誰かが傷付き、苦しみ、絶望にのたうつ。その様を見るのが快感なのだ。快感だけを欲しているのだ。それが、公開処刑の場に渦巻くもの。
いいないいな人間っていいな、そんな風に口ずさめていたころが懐かしく愛おしい。今ではもうすっかり、人間が嫌になった。しかし、それでも、それでもだ。人間だって捨てたものじゃないんだ。その証拠に、ほら、勇気ある若者の声が、醜悪な空間を切り裂いた。
「話は聞かせてもらったぞ!」マルコが声を上げたのだ。「イケメンである、それだけを理由に命を奪うとは! これは偏見と独断による私刑に他ならない! 見るに堪えん悪行だ! お前らぁ人間じゃぁねぇ・・・・・・たたっ切ってやらぁ!」
剣を抜き、切りかかる。微動だにしないドントニールとの距離はあっという間に縮まった。
マルコ、僧侶が相手ということもあり、袈裟切りを狙う。袈裟だけに・・・・・・それは仏教だ、マルコよ。ポンポコ教は全く仏教っぽくないぞ。なんたって中世ヨーロッパ風の異世界だ。
全力で振り下ろされる刃。殺意100パーセントだ。悪党にかける慈悲はない。
切った、と誰もが確信した刹那に響く、金属の悲鳴。それは、巨岩に打ち付けられた日本刀の悲鳴によく似ていた。
真っ二つに折れた刃の片割れが、宙を舞い、地に落ちる。信じ難い状況に、マルコは唯々、目を泳がせた。
切り裂かれた祭服から覗くデカい肩は、無傷。ドントニールの笑顔が満面のものとなった。
この異世界における大司教は、地球上における大司教と同等のポストに当たる。すなわち、VIPだ。そんな人物が、お供に御者を一人しか付けず、下々の生活圏に踏み入っていた訳は、自身の戦闘能力に抱く絶対の自信、それ故だった。
「なまくらではありませんでしたが・・・・・・」
言いながら、ドントニールは上半身に力を込めた。祭服が弾け飛ぶ。そうして露になった筋肉は、直径4メートル級のタイヤ二本分の質量を有していた。
「私の鍛え上げられた肉体を傷付けるには至りませんでしたね」
マルコは、既に戦意を失っていた。貴族としてのプライドから敵前逃亡もできず、彼にはもう、突っ立っていることしか出来なかった。
「御者よ、この若者に罰を与えてやりなさい」ドントニールの瞳はマルコのエンブレムを映していた。「ただし、殺さない程度で。貴族ですからね、命の価値は、多少は重い」
「仰せのままに」
言うや否や、鞭を振るう。
鞭に打たれ、マルコは悲鳴を上げるとともに蹲った。
「もっといい声で鳴いてみろ、お貴族様よ!」
容赦ない、連打。服が裂け、皮膚が裂け、肉まで裂ける。御者の野郎、殺さない程度、の意味をまるで理解しちゃいねぇ。
マルコの悲鳴は、打たれるたびに弱まっていった。
「とどめだ!」
鞭の握りを強める。握力イコール振るわれる武器の威力だ。この一撃を受ければ、確実に命は持たない。
御者の暴挙に対して、ドントニールは笑顔を絶やさず、やれやれと首を振るばかりであった。子犬の粗相を見やるかのような有様だ。多少は重い、そんなものは、軽いと同義だった。
鞭が、高々と振り上げられた。
死を目前とした緊張感で、喧騒に満ちていた場は静まり返った。
短い静寂が、破られる。強烈なしなりが空を切る音、によってではなく、真っ赤な液体が空を焦がす音によって。
「熱いぃ!」真っ赤な液体を浴び、御者は鞭を投げ捨て、絶叫した。「何これ!? 熱湯!?」
「煮込んだ赤ワインだ、バカヤロー!」
そう言って、シケタは深鍋を放り投げた。
「正気か、てめえは!?」御者の顔と上半身の左半分は、火傷で腫れ上がっていた。「100度を超えてるだろ、これ!」
「悪党にはこれくらいが丁度いいんだ、バカヤロー!」
「バカヤローバカヤローって、バカバカ言うなよ! バカって言う奴がバカだぞ!」
「バカヤローはバカヤローだろーが、バカヤロー!」
真っ正面から向かい合い、距離を詰める二人。口喧嘩はここまでだ。最早ステゴロ待ったなし。
御者が、硬い拳骨を繰り出した。それを両の前腕で受けたシケタは、10メートルほど後方に吹き飛ばされるも、空中で体勢を整え、しっかりと両足で着地した。
「都合よく、距離が空いたぜ。くらえ! 必殺の、テラビジョンタックル!」
言うや否や、腰を深く落とし、引いた足で地面を強く蹴る。そうして飛び出す、技名通りのタックルは、秒速50キロメートルのスピードで、御者に直撃した。
日系人みたいな体格のシケタでは、体重なんてせいぜい100キログラム以下だ。それでも、異次元のスピードが加われば、華奢な体も鉄球に変わる。とびきりビッグな鉄球に、だ。
えげつない衝撃に踏ん張りが利かなくなった御者は、多くの観衆を巻き添えにしつつ100メートルほど後方に吹っ飛び、広場の隅に体を横たえた。
「次はてめえだ」シケタはドントニールを睨み付けた。「コノヤロー!」
混乱の渦中である。聖域を犯され、自身に被害が及ぶ可能性を認知した観衆が逃げ出し始めたのだ。東京メトロもびっくりの込み具合にあって、人体のドミノ倒しまで発生する地獄絵図。その中心である。その中心にあって、ドントニールはこの日一番の笑顔を浮かべ、のんびりな拍子で拍手をした。
「とてつもない威力のタックルでした。あなた、唯の一般ピーポーではありませんね」
「元はてめえと同じ神に仕える身だ」苦虫を噛み潰したような顔で、言う。「黒歴史だ、バカヤロー!」
「なるほど、納得です。この程度の戦闘力であれば、異端者狩りの先鋒隊を務めていた、といったところでしょうか」
「この程度、とは随分じゃねえか、コノヤロー!」
「この程度、ですよ」ドントニールはシケタの後方を指差した。「その証拠に、ほら、私の御者はぴんぴんしていますよ」
悪寒が、シケタの顔色を奪った。振り向き、一層と青ざめる。
「やるじゃないの、ジジイ」首を回しながら、御者が歩いてくる。「久しぶりに肝が冷えたぜ」
タックルの直撃で仕留められなかった、それすなわち、万策が尽きているのである。
シケタにはもう、ニヒルな笑みを浮かべることしか出来なかった。
「ジジイ、教えてやるよ。タックルっていうのは、こうやるんだ」
言うや否や、腰を深く落とし、引いた足で地面を強く蹴る。そうして飛び出す、宣言通りのタックルは、秒速100キロメートルのスピードで、シケタに直撃した。
えげつない衝撃に踏ん張りが利かなくなったシケタは、多くの観衆を巻き添えにしつつ500メートルほど後方に吹っ飛び、広場を出たところで体を横たえた。
「おいらも今年で78歳だ」仰向けのまま、シケタは弱々しい声を発した。「若い頃ならよ、タックル一発でよ、出版社の一つや二つ破壊できたんだ。それが今じゃ、人一人も破壊できねえ。歳はとりたくねぇなぁ、ちくしょう」
幾つもの慎ましい雲が、ゆっくり、ゆっくりと、東へ流れていく。人の営みを知らない空は、果てしなく穏やかだった。
一方の、地上。既に百人以上の怪我人が出た広場は、阿鼻叫喚を超越した惨状で、互いに押し合う人々は地獄の亡者と大差がなかった。
「とどめを刺してやるぜ、ジジイ」
「その必要はありません」シケタの側まで行こうとした御者を、ドントニールが制止した。「道を踏み外したとはいえ一度は神に仕えた者ですからね、命の価値は、重い」
宗教家の立場が強すぎる。正しく中世ヨーロッパ風であった。
相も変わらず、混乱の渦中に平常心を失わないドントニールは、目ざとく、マルコの側で屈んでいる人間を見やった。
「何をなさっているのですか、お嬢さん?」
掛けられた声に小さな肩を震わせ、恐る恐る顔を上げたのは、ロニだった。
「女! ドントニール大司教が問うておるのだぞ!」御者がロニに詰め寄った。「即答しろ!」
「彼の、治療を行っていました」怯え切った声をしぼり出す。「治癒の魔法で」
「勝手な真似をしやがって!」
「やめねぇか!」
強い調子で命じられて、御者は振り上げたこぶしをすぐさま腰の後ろに回した。
「健気ですねぇ」コロッと声音を変えて、ドントニールはロニの側に寄った。「顔も綺麗だ。私はね、女に対しては面食いなのですよ」
そう言ってからキスまでが速かった。その速度0.0205秒。アーニー・ヒルの早撃ちより速い。
ブサメンながらキスに迷いがない・・・・・・イケメンに匹敵するほどの自信・・・・・・大司教という肩書が、男の気持ちを大きくしていた。
かさかさの唇とぬめぬめの舌を口元に押し当てられて、ロニは涙目になりながらもがいた。しかし、細いウエストをデカい手で掴まれていて体を大きく動かせない。
悲しいかな、キスはされるがままとなった。
ドントニールは、空き手でロニの体をまさぐり始めた。いるよね、キスの最中にまさぐる奴。ロマンチックの欠片もねぇ。
尻を堪能し、太ももを蹂躙し、後はもう、上に行くだけ。そうして、宝玉の手応えを指先に覚え、その不可解を理解すべくしっかりと握って、男を知る。
「男か、貴様!」唇を離して、ドントニールは叫んだ。「俺は顔の綺麗な男が大嫌いなんだよ!」
宗教家のお家芸といえば、そう、憤死である。ドントニールは、その寸前までいった。
「ただでは殺さねえ! おい、御者よ! ちんちんギロチンをもう一台、用意しろ!」
手慣れているが故の高速で、御者は4台目のちんちんギロチンを表に出した。そのまま流れるような動作で、ロニに近寄り、可憐な上腕を掴み、引っ張る。
パワーに差があり過ぎて、一切の抵抗が無に等しかった。すんなりと、ロニはちんちんギロチンの前に立たされた。
「皆の者、注目なさい! 新たな異端者が神の御前に立ちました!」
ドントニールの声に、人々は一様な反応を示した。それは、新しいおもちゃの登場に対する熱狂。忘れる。日頃のうっ憤だけではない、ほんの数秒前まで感じていた身の危険すら忘れる。他人の破滅は、劇薬だ。
混乱は瞬く間に収まった。よく訓練されたライブ会場みたいな安定感が場を支配する。誰もが、ロニを見詰め、汚い言葉を吐き散らす。これもまた、地獄絵図。
「ズボンを脱げ!」
御者の声に、ロニは抗った。
「脱げというに!」
強引に脱がす、なんて穏便な手段では済まなかった。御者は、ロニのズボンを両手で破ったのだ。ライズの部位を、びりっと大胆に。リネンは裂けるチーズ並みの強度しか持たない、そう錯覚させるほどの握力だった。
下着なんて上等な物は端から身に付けていなかった。ロニのロニは、その健全な血潮に陽光を浴び、神秘的な光沢を帯びた。
見られている・・・・・・千を優に超える数の人間から見られている・・・・・・むくむく、むくむく。自ずと、むくむく、むくむく。
ロニがマゾであることが、露見した。
「こいつは手間が省けたぜ」懐に手を入れていた御者が、言った。「勝手に、おっ勃ってよ。とんだ変態だぜ」
変態、というキーワードが、ロニの熱を一気に強めた。そうして出来上がった肉棒は、天然らしく、愛らしかった。
ロニのロニも、ちんちんギロチンに挿入完了。後はもう、刃を落とすだけ。
刃に繋がる紐を、御者が握った。
何事にも、ピークがある。この処刑の場にとって、今が正にそれだった。
「神よ! 正しき行いに祝福を!」ドントニールは恍惚とした声を上げた。「ちんちんギロチンの刑、執・・・・・・」
御者は、じゃんけんをする際、じゃんけんぽん、の、ぽん、を言い終わったタイミングで手を出す人間だ。だからこそ、彼は紐を緩めず、待った。ドントニールの、執行、の、行、の言い終わる瞬間を。しかし、その瞬間が訪れることは、なかった。
危機察知能力! 人間が文明と共に失った能力の一つだ。君子危うきに近寄らず、は死語で、老若男女問わず、誰もがデンジャラス目掛けてダイブする昨今。そんな世界に、優れた危機察知能力を有した人間がいた。そう、ドントニールだ! まるで、兎。可愛くない兎。危機を察知している。だからこそ、彼は言葉を詰まらせ、遠く、見えもしない遠くを、唯々、凝視したのだ。
御者も観衆も、釣られて、ドントニールの視線の先を見やった。
埃に塗れて視覚化した南風、その中心に、少しずつ、少しずつ、男の姿が現れてくる。デカい鰻を一匹、肩に担いだ男の姿が。
まだ顔も判別できない距離、それでも、愛する男を案じる心が、ロニの声帯を震わせた。
「セーイ!! 来ちゃだめー!!」
「案ずるな。ロニよ」
歩みを止めない。進み続ける。アメリカの経済みたいだ。
直に、ロニも、御者も、ドントニールも、男の淡いほうれい線を見つけられた。
言わずもがな、男は正史郎だ。
担いでいた鰻を、優しく地に下ろす。眠っている赤ん坊をベビーベッドに寝かせるが如き優しさだ。それにしても、鰻がデカい。二ホンウナギながら全長3メートルを優に超えている。オオウナギよりデカい。これなら三人前も余裕だ。
「おい、チビ!」
身長213センチメートルの正史郎に向かって、御者が言った。自分より小さい奴はみんなチビ。詰まる所、この世で一番デカい奴以外はみんなチビということだ。最強の雄以外はみんな雌、に通じる論理である。
「処刑を見に来たってツラじゃねぇよな」御者はとびっきりの笑顔を作った。「殺されたいのかい?」
「痛い目にあいたくはないだろう」微塵も臆するところのない、正史郎の声だった。「その四人を解放しろ」
「痛い目にあっちゃうの? 解放しないと、僕、痛い目にあっちゃうの?」
御者がお道化て、観衆は笑った。
「三度は言わんぞ」ブレない声。「痛い目にあいたくなければ四人を解放しろ」
ショーではないと、誰もが確信した。笑いが、ぴたっと止んだ。
「ドントニール大司教・・・・・・」怒りに身を震わせながら、御者は言った。「刑の執行は、あのチビを八つ裂きにしてからでよろしいでしょうか?」
「構いません」ドントニールは無表情だった。「あの身の程知らずを、今すぐに、殺しなさい」
紐を放し、ずんずん歩いて、正史郎の真っ正面に立つ。拳が届く距離だ。
「けちけちせずによ、三度目、言ってくれや」拳の握りを限界まで強め、言う。「そいつをゴングにしようや」
「痛いぞ」間髪入れず、言った。「泣いても許さん」
ブチッ、という音がはっきりと聞こえた。間違いなく、御者はキレた。
「顔と体をさよならさせてやる!」
そう言い終わると同時に、拳を繰り出す。全体重を乗せた、愚直なまでのストレート。
無法同然のステゴロにも、たった一つだけ掟がある。それは、自分よりデカい奴のパンチは受けるな、である。駄目なのだ。掟になるくらい駄目なのだ、自分よりデカい奴のパンチは。生死に直結するのだ、自分よりデカい奴のパンチは。避けるなり防ぐなりするしかねぇ。そうだというのに、正史郎、ノーガードで御者のストレートを受ける覚悟。ストリートファイトにプロレスを持ち込むメンタリティだ。必然、直撃。顔面に良い一発をもらう。
過去、数多の顔面を破壊してきたストレート。破壊の瞬間にはいつだって、拳に暴力のパッションを感じられた。俗に言う手応えである。しかし、その馴染みある感触が、この時ばかりは全く感じられなかった。
タイマンの最中にあっては致命的なまでのスロースピードで、拳を引く。そうして目撃した顔面は、鼻骨すら折れていない、明らかなノーダメージであった。
御者は、生まれながらにしての強者だった。五歳の時点で身長180センチメートルを突破し、小学校に入学するころには地元の族を三つ潰していた。常に、暴力を行使する側だった。故に、恐怖なんて知らない。
得てして、初体験は未知のもので、処理のしようもない感情に、御者は唯々、混乱した。
絶叫に似た奇声を上げつつ、拳を繰り出す。何度も、何度も、正史郎に向かって。意図せずして放たれる百裂拳。
直に、疲労の限界が訪れて、拳は止まった。肩を大きく上下させつつ、正史郎を見詰める。明らかなノーダメージ。
御者は、苦笑いした。
「千円以下の電マだって、もう少しマシな衝撃を与えてくれるぜ」
そう言って、正史郎は拳を繰り出した。ジャブだ。
胸部を狙ったジャブ、なんて言えばジョークでしかないが、正史郎のそれはジョークでは済まない一撃だった。胸骨を粉砕する。誇張は、なかった。
強すぎる衝撃と痛みに、御者は悲鳴を上げ、のたうち回った。
徐に、正史郎は鞭を拾った。
「この鞭は、お前の物か?」
「だったら何だ!」御者は強がった。「うじ虫野郎!」
「惨い鞭だ」強がりを全く意に介さない。「テールに血肉がこびり付いている。これは鞭が本来あるべき姿ではない」
「人の肉を剥ぐ以外に鞭の使い道があるかよ!」
「文豪、更科修太郎は言った。鞭とは心を叩くもの」
鞭を、振るう。いい音が、出た。有言実行、心を叩きにいっている。
尻に鞭を受けて、御者は、喘いだ。本日二度目の初体験は、最初のものとは違い、甘美だった。
驚くべきは、尻のアフター。あんなにもいい音を出した鞭、さぞや叩かれた尻の状態は無惨かと思いきや、綺麗な紅の筋が浮かび上がっている程度。これなら湯船に浸かるだけで尻はビフォーの状態に戻るだろう。
尻の状態が物語る通り、肉体の痛みは大したものではなかった。偏に、心がうずくのみ。
御者は、欲した。性欲であった。サドがマゾに裏返っている。よくある事だ。
二度目の鞭を待って、しかし与えてもらえず、到頭しびれを切らし、口を開く。
「ください! お願いします!」
「ブタはブタ小屋へ行け!」
そう言った正史郎の指差す先には、一人の男が立っていた。すごい、すごいファッションだ。水着ともバトルアーマーとも取れるファッション。言うなれば、夏を刺激するT.M.Revolutionだ。そういうファッションだ。
ファッションもすごいが、筋肉もすごい。何より、体毛がすごい。剣山みたいな剛毛が肌色のほとんどを隠している。マッチョイズムがそのまま男性ホルモンに変換されているのだ。
サングラスの奥にある鋭い瞳が、光を放った。ちょいちょい、と指を振る。来い、というのだ。
まるで光に誘われる虫だった。御者は、ふらふらと、男のもとへ歩いていった。
男と御者は、ゆっくりな足取りで、広場を去っていった。こうして、御者の新しい日々が始まったのだ。マゾブタとしての過酷な日々が・・・・・・。
「後はお前だけだ」今度はドントニールを指差す。「選べ。解放か、苦痛か」
ドントニールの顔には、笑みが戻っていた。彼もまた、中年。自分と相手の筋力の差を見極める目を有していなければ、とても中年まで生きながらえることは出来ない。
笑みは、余裕の表れだった。
「素晴らしい戦闘力です! 強烈な攻撃をものともしないタフネスに、筋肉の鎧をものともしないフィスト!」余裕があるから、絶賛できる。「何より、サディズムの権化であったあの御者をマゾブタに裏返したマジック! あっぱれ! あっぱれです!」
「解放か苦痛か、選べ」
称賛を無下にされ、気分を害する。笑みが、意地の悪さを増した。
ドントニールは、両腕を大きく開いた。大胸筋が広々とする。
「打ってみなさい。苦痛を与えられかどうか、試してみなさい」
「俺は加減ができんぞ」
間髪入れず、パンチを放つ。なにせ広々とした大胸筋だ、外しようがない。必然の、クリーンヒット。ラガーマンも戦慄を覚えるほどの衝撃。
感触。裸の上半身と裸の拳が触れ合う、感触。それはステゴロの醍醐味で、だからこそ人々は今日も半裸でストリートファイトに明け暮れるのだ。感触。人体の弾力に思いをはせる、感触。そこに弾力がなければ、困惑すら通り越し、笑ってしまうだろう。
分厚い鉄板を殴ったような感触に、正史郎は、笑った。
「月並みですがね、蚊に刺されたかと思いましたよ」
そう言い終わらぬうちから、平手打ちを放つ。
平手打ちがこめかみに直撃して、正史郎はよろめいた。
「私のこの筋肉こそが、虐げられるブサメンの悲劇を物語っている!」ノーダメージの肉体で決めたポージングは、モストマスキュラーだった。「女は私の顔を見るだけで嫌悪を示す! 否! そもそも私の顔を視界に入れない! 私の顔を、存在を、無いものとして扱っている! イケメン以外は見えていないんだ、あいつらは! だから、鍛えた! 体を鍛えた! 容姿のアドバンテージを僅かでも得るために、鍛えた! モテたかった訳じゃない! 唯、人並みの愛が欲しかった! それでも、駄目だった! シュワちゃんみたいな体になったって、結局はこの顔だ! 女の視界に入れない!」
慟哭であった。泣いている。ドントニールだけじゃない、観衆も泣いている。筆者が独断と偏見でとった統計によると、人間の雄におけるイケメンの割合は0.8パーセント。この数値から分かる通り、ほとんどがブサメンなのだ、人間の雄は。フツメン、なんて逃げ道は存在しない。フツメンの正体はフツメンを装ったブサメンです。だからこそ、こんなにも多くの男が泣いているのだ。
「愛を諦めるか鍛え続けるか、この究極の二択に直面して、私は鍛え続ける道を選んだ! その結果が、この無敵の筋肉だ! ここまで鍛えてさえ、愛はどこにも無い! 永遠に終わらんぞ、この筋トレは!」
ポージングでパンプアップを発生させる。この常軌を逸した事象が、ドントニールの言葉が真実であることを裏付けた。
「泣けよ、お前も!」観衆が、正史郎にやじを飛ばした。「ブサメンだろ、お前も!」
己のブサメンを認められないほど、正史郎は幼くない。身に染みている。ドントニールの言葉は、誰よりも。それでも、泣かない。39歳。涙はもう枯れてる・・・・・・・・・。
「大司教、その財力を目的に近付いてくる女は、居た!」馴染みの居酒屋に居る気分で、ドントニールは語り続けた。「その女どもときたら、どいつもこいつも、情事の最中はずっと目をつぶっているんだぜ! 愛なんてどこにもねぇ! それでも、必死に繋ぎ止めようとしてマンションを買ってやったら、どいつこいつも、すぐにイケメンと同棲を始めやがる! この世界は、狂っている! この世界は、狂っている!」
苦しみを味わっているのは、男に限った話ではない。ドントニールの人生は、そのまま女の人生に置き換えられる。男だって、美女しか眼中にないではないか。筆者が独断と偏見でとった統計によると、人間の雌における美女の割合は0.8パーセント。この数値から分かる通り、ほとんどがブスなのだ、人間の雌は。かわいい、なんて逃げ道は存在しない。かわいいの正体はかわいいを装ったブスです。だからこそ、女たちも泣いているのだ。
ちんちんが付いていようがいまいが等しく加害者であり被害者。正しく人類は悲劇の運命共同体。なんて世界だ!
「所詮、人は見た目が9割! 所詮、人は見た目が9割!」涙を拭い、ドントニールは正史郎に握手を求めた。「私たちに、愛される未来など、ありはしない。違いますか、同士よ? 所詮、人は見た目が9割」
己の手によく似た、色気のない手だった。胸に抱いてやりたい衝動に、揺れる。それでも、正史郎は心を鬼にして、手を払い、叫ぶのだった。
「ならば1割に全てを懸ける!」
共感を求められた際に一番やってはいけないことは、正論を返すことだ。そんな返しをされたら、誰だってキレちゃう。
「ナマ言ってんじゃないよ!」
泣いた大司教がもう怒る。そうして繰り出される平手打ちの連打・・・・・・否、これは既に平手打ちなんて生易しいものじゃない。張り手だ、これは。意図せずして放たれる百裂張り手。
攻撃の嵐が、止んだ。その時にはもう、正史郎は膝を着いていた。
幸い、脳や骨に損傷はなかった。しかし、全身から内出血はしている。ダメージは、十分に大きい。
不意に、澄んだ雫が零れて、大地を濡らした。それは、枯れたはずの涙だった。
「ようやく泣きましたか」ドントニールは満足そうに言った。「肉体の痛みでしか泣けないとは、貧しい感性ですねぇ」
「これは心の涙だ」その言葉に嘘偽りはなかった。「お前の百の張り手は、お前の千の言葉より、お前の悲哀を物語っていた。愛を知らぬ者の、想像を絶する悲哀を」
「分かってくれましたか! 同士よ!」
「俺はお前の同士ではない」ゆっくりと、立ち上がる。「俺はブサメンではないなどと子供染みたことを言っているのではない。俺は、愛を知っている」
「愛を知っているって!? 笑わせるんじゃない! そんなもの、我々には決して与えられない!」
「愛は与えられるものじゃねぇ!」内出血を無視して、全身の筋肉に力を込める。「自らに与えるものだ!」
覇気が存在するのは何もワンピースの世界に限ったことではない。現実の世界にだって、異世界にだって存在する。揺るがない意思は、そのまま、覇気。
気圧されて、ドントニールは慄いた。
「お前は、何者なんだ・・・・・・」震える声は、無意識に発せられたものだった。「答えろ!」
「俺は村雨正史郎! オナニーの伝道者にしてオナニストだ!」
全身の筋肉に力を込め過ぎた。内出血が外側に勢いよく噴き出す。このままでは直ぐに失血死・・・・・・その心配は、無用。なにせオナニストだ。何時如何なる時でもイケるよう、常に体内の血液量を成人男性の五倍、保っている。失血死する前には、かさぶたが出来て血が止まるさ。現に、ほら、もう全身かさぶただ。
「ポンポコ聖書で読んだことがある」広場まで這ってきたシケタが、言った。「45章45節。抑圧と暴力が世界を覆い尽くす時、全裸のオナニスト来りて、神の世に変革をもたらさん」
「お前が、ポンポコ聖書に記されるオナニストだと!?」耳聡いドントニールであった。「神の世に変革をもたらすオナニストだと! 私の筋肉に全くダメージを与えられない程度の戦闘力で、何をヌカすか! ビッグマウスも甚だしい!」
「肉体にダメージを与えることだけが戦闘ではない」正史郎はファイティングポーズをとった。「見せてやろう。オナニーを極めた者だけが体得する、自慰神拳を」
「しゃらくせぇ!」
繰り出される張り手、それに合わせて、正史郎はドントニールの股ぐらに手を伸ばした。狙いは、陰嚢だ。
腐っても大司教。祭服の、弾き飛ばした部位は上半分のみ。半裸までで済ましているのは最低限の嗜みだ。故に、下半身は今も上等な亜麻布に包まれている。必然、陰嚢の位置は目視できない。そうだというのに、正史郎の手は寸分の狂いもなく狙った獲物に触れた。分かっている。分かり切っている。陰嚢の位置を分かり切っている。己のそれに触れた回数は星の数より多いのだ。例え他人のそれであったとしても、容易に位置を見破れる。オナニストだぜ、当然だろ。
手触りだけではっきりと分かる、陰嚢の毛深さ。豊かな茂みを指先で掻き分け、後はもう、皺の縁に隠れたスポットを刺激するだけだった。
股ぐらに手を伸ばしてから陰嚢を刺激するまで、要した時は0.02秒ジャスト。その間に、張り手を一発もらうのは覚悟の上。正しくカウンターであった。
陰嚢に違和感を覚え、ドントニールは連打に用いようとした手を引っ込め、退いた。
「何をした?」両足が、がくがくと震え出した。「私のナニに何をした!?」
「無限イキ地獄の性感帯を刺激した」虚空に語り掛けているかのような、正史郎の声だった。「貴様には、万死すら生温い」
がくがくが止まらない。ドントニールは膝から崩れ、四つん這いになった。
唐突に、獣の雄叫びに似た声が響いた。それは、ドントニールの口から溢れ出たものだった。
生乳よりも濃い白色が、上等な亜麻布に染みを作る。
恍惚として、しかし余韻に浸る間もなく、二発目が発射される。更に、三発目、四発目、五発目と、二分刻みで発射。
腰砕けになって、四つん這いすらキープできず、ドントニールはのたうった。
「このままじゃ、おかしくなっちゃう!」嬌声混じりの声で、言う。「私、どうなっちゃうの!?」
「地獄へ落ちるんだ。文字通り、な」
青ざめようとするも叶わず、火照った体は頬を紅潮させた。
体力は尽きるも、精力は一向に尽きない。
明らかな異常を実感し、恐怖は強まった。ドントニールは、泣き叫んだ。
「助けて! 助けて下さい!」
「貴様は、そうやって命乞いをしたイケメンのちんちんを何本切り落としてきた?」
「イケメンが妬ましかったんです! 憎かったんですよぅ! しょうがないじゃないかぁ!」
「イケメンって言うくらいだ、顔が綺麗なんだぜ。女にしちまえば良いのさ。ちんちんを切り落としたりせず、尻でも突いてやってな」正史郎はドントニールに背を向けた。「貴様はイケメンに対して憎しみではなく愛を以て向き合うべきだった」
「助けて、助けてくれないんですか!?」
「慈悲はない」
六発目が、放たれた。その際に発せられた声は、五発目までのような甘いものではなかった。
「痛いぃ!」
快感を遥かに上回る激痛が、ちんちんに走った。その痛みたるや、形容のしようがない。それくらい痛いんですよ!
ドントニールが味わっている激痛を、筆者も若い頃に味わったことがある。インターバル無しの連続射精にトライしたときのことだ。一発目、二発目は、快感。三発目、四発目は、惰性。五発目は、虚無。そうして、六発目だ。激痛が、ちんちんに走ったのだ。前述の通り、形容のしようがない痛み。呼吸が乱れた。発汗した。目がちかちかした。七発目は不味いと、本能で理解できた。それでも、その先にあるものが知りたくて、シコった。結果、七発目は六発目の百倍以上の痛みを有し、筆者は気絶したのであった。我が半生、後にも先にも、気絶したのはあの時だけである。
時は来た。ドントニールも七発目の痛みを初体験。
断末魔と大差ない叫びが、上がった。気絶することだけが、痛みから逃げ出す唯一の方法だった。
白目をむいたドントニールは、それ以上、ぴくりとも動かなかった。
「救世主が来たのだ」シケタは合掌していた。「変革の時が来たのだ」
強い陽光が、全裸を隠した。それはまるで、黄金の衣を纏っているかのようだった。