第1話 死してなお勃つ
古代ギリシアの哲学者ハンスケカミナンデス(前454年~前354年)は言った。膣に放たれる精は肥えたネズミの臭いがし、空に放たれる精はメープルシロップの匂いがする、と。
その日、村雨正史郎が現し世で放った最後の精は、確かにメープルシロップの匂いがした。
正しく神の住まう地であった。異世界の入り口であるならば細かな描写など無粋だろう。正しく神の住まう地であった。
「儂は神じゃ」出会って最初の言葉がそれだった。「正史郎、お前は死んだ」
「39歳での9連発は無茶があったか」煤けたタンクトップだけを身に付けた姿で、正史郎はニヒルに笑った。「若き日の15連発が懐かしいぜ」
「両親の死後、路頭に迷った果てに新宿の路地裏で老衰死・・・・・・40年後のお前に訪れるはずだった正しい死の運命だ。今この時、お前が儂の前に立っているのは、9連発の暴挙を予知できなかった儂の落ち度によるもの。謝罪しよう。すまなかった」深々と頭を下げる。「詫びと言っては何だが、お前を異世界に転生させてやろう」
「神よ、人類の惨状を見よ。酷いものだろう? お前が作った世界だ。今更お前の落ち度の一つや二つ、責める気にもならん」
「言うじゃない、こいつ」神のこめかみに血管が浮かび上がった。「チート能力あげるの、やめちゃおっかなぁ」
「チート能力? そんなものはいらん。俺が欲するものは唯一つ。ペガサスの跳躍のように軽やかにイケた、16歳の頃のペニスだけだ」
「16歳の頃のペニス!?」神、驚愕。「16歳の頃のペニス!?」
「そうだ。ペニスシックスティーンだ」
「ジーザス・・・・・・」
「出来るな? 神であるお前なら」
「お前のペニスを16歳の頃のものに戻す。もちろん、可能だ。しかし、よいのか、それで? 異世界の全てを思うがままに出来るほどの超強力なチート能力を拒否してまで、それでよいのか?」
「若き日のペニス以上に価値のあるものがあるかい?」
神は熟考した。1999年7月、ノストラダムスに便乗して人類を滅ぼそうかと考えたとき以上に熟考した。そうして、悟る。
「ないわな!」
言い終わった時にはもう、正史郎のペニスは16歳の若さを取り戻していた。
「儂も色んなクレイジー野郎を異世界に送り込んできたが、お前ほど狂っとる奴は知らん!」神は親指を立てた。「異世界を楽しみな! グッドラック!」
こうして、稀代のオナニスト村雨正史郎は異世界に舞い降りた。
正しく中世ヨーロッパであった。異世界であるならば細かな描写など無粋だろう。正しく中世ヨーロッパであった。
赤の他人の胎内に寄生するほど落ちぶれてはいない。39歳の体で、16歳のペニスで、異世界の地を踏む。
「風に吹かれただけでイっちまいそうだ」煤けたタンクトップだけを身に付けた姿そのままだ。「褒めてやるぞ、神。こいつは正真正銘、ペニスシックスティーンだ」
風の行方を目で追う。ほう、デカい町があるな。南東の方角か。ここからの距離は1キロメートルもあるまい。
フルチンながらも躊躇なく、町を目指す。足が、軽い。聞いたことがある。若者の腸内細菌を移植された老人は身体機能を向上させる、と。それと同じ理屈なのだろう。16歳のペニスが39歳の体を活性化している。まるで魔法だ。
そんなこんなで、町に到着。建造物やら町人の衣服やら、何から何まで中世ヨーロッパだ・・・・・・中世ヨーロッパ! なんて万能なワードであろうか! 21世紀最大の発明といっても過言ではない!
闊歩する、フルチン。白人みたいな顔をした町人に混じって闊歩する、黄色人のフルチン。注目を浴びている。当然だ。懐が深い異世界にも許容の限度はある。
この破廉恥なイエローモンキーを今すぐ町から追い出したい、それが町人の総意だった。しかし、手が出せない。口も出せない。何故か? 堂々としているからだ。ビンテージのジーパンをはいているかのように堂々としているからだ。フルチンは目の錯覚なのではないかと疑わずにはいられない。あるいは、馬鹿には見えない布地を使っているのか? 俺は馬鹿じゃねぇっ! 俺は馬鹿じゃねぇっ!!
リアル裸の王様、そんな状態がしばらく続いて、ようやく、無垢な人間が声を上げた。
「ポコチンが丸出しではないか!」
貴族だった。何を以て貴族と定義するのかは不明だが、この無垢な人間は間違いなく貴族だった。
「見るに堪えん。切り落としてやろう」
言うや否や剣を抜く。江戸っ子よりも喧嘩っ早い。
高々と上がった刃が陽光に煌めく。そうして、全力の振り下ろし。ペニスに対する慈悲は皆無だ。
刃が鼻先をかすめた、刹那に、正史郎は口を開いた。
「イカしたワッペンだ」その声は落ち着き払っていた。「匠の仕事だな」
刃は、ペニスに触れる直前で止まった。
「この胸のエンブレムに着目するか」貴族は、微笑んだ。「これは我がディープシュナイダー家の誇り。先祖代々受け継がれてきた、ライオンハートの象徴そのものだ」
「俺たちは似た者同士だ」正史郎は握手を求めた。「お前は胸に家の誇りをぶら下げている。俺は股に俺の誇りをぶら下げている」
貴族は、自問した。切りかかってきた相手に握手を求めることが出来るか? 無理だ。到底、無理だ。
『このフルチン、器が違う!』
男は男に惚れる生き物だ。性的な意味ではない。男は男に惚れる生き物だ。
「私はディープシュナイダー家8代目当主、マルコだ」剣を収めながら、言う。「君の名は」
「村雨正史郎。絶倫王になる男だ」
「既に絶倫王であろう!」マルコは高らかに笑った。「切りかかられてさえ、そそり立っておるのだからな!」
「やんちゃ坊主なのさ」
がっちりと、握手。恋人つなぎの手が軽薄なものに思えてくるほど魂のこもった握手だ。
「マルコ、一つ尋ねたい」
「何でも聞いてくれ、心の友よ」
「この町に絵描きはいるか?」
「いるともさ」言いながら、町の大通りを指差す。「あれを南に200メートルほど進んだところに宿屋がある。デカい看板が出ているから通り過ぎる心配はないだろう。その宿屋の隣にある掘っ立て小屋が、ロニという男のアトリエだ」
「ありがとう、マルコ」
「絵描きなんぞに会ってどうするつもりだ、正史郎?」
「オカズを用意してもらうのさ」
そう言い残して、正史郎は大通りを歩いていった。
「おもしれー男」正史郎の後姿を見送りながら、つないでいた手の匂いを嗅ぐ。「こいつは、メープルシロップ、か」
「お前がロニか?」アトリエのドアを勢いよく開いて、正史郎は言った。「エロい絵は描けるか、ロニ?」
「何ですか、あなたは!?」筆を落として、ロニは叫んだ。「フルチン!?」
「ほう、美しい男だな」
正史郎の審美眼は正常だった。ロニは、若く美しい男だった。異性愛者の筆者でさえ淫らな気持ちを抱いてしまうほどに。
「エロい絵は描けるか、ロニ?」
「訳が分からない・・・・・・これは夢か?」
「現実だ、ロニ。順を追って話そう。お前に絵の依頼をしたい。オカズに用いるエロい絵だ。描いてくれるな、ロニ?」
「オカズ? すみません。オカズ、の意味が分かりません」
異世界に舞い降りて初めて、正史郎はカルチャーショックを受けた。オカズを知らない? そんな人間がいるのか?
「オカズとは、オナニーに用いる視覚や聴覚に訴える類のパッションだ」
「オナニー? すみません。オナニー、の意味が分かりません」
かまととぶっている訳ではない、と理解できた。正史郎は冷や汗をぬぐい、表に飛び出した。
「誰か、オナニーを知っている者はいないか!?」
道行く人全員に尋ねる。
日が暮れるまで尋ね続けて、とうとうオナニーを知る者は一人も現れなかった。
『何ということだ!』心中で叫び、天を仰ぐ。『この世界にはオナニーという文化が存在しない!』
真実だった・・・・・・何? オナニーが存在しないだなんてこと有り得ないって? 猿だってオナニーしてるんだからって? しゃらくせえ、こんちくしょう! てやんでい! こちとら異世界でい! オナニーが存在しないってくらいの無茶は通ってなんぼのもんでい!
「そうか! 悟ったぞ! 俺がこの世界に舞い降りた理由は、真の快楽を知らない哀れな人々に己自身を愛せと説くためだったのだ!」
夕闇に一筋の光が差した。
正史郎はアトリエに戻った。
「戻ってきた!」ロニが悲鳴を上げた。「もう勘弁してください!」
「ロニ、教えてくれ。お前はどうやって射精している?」
「何を!? そんなこと、教えられるわけがないでしょう!」
「この通りだ、ロニ」そう言って、腰を突き出す。「この通り、俺は全てをさらけ出している。お前も隠し事はなしだ。それが誠意ってもんだろう」
尿道の深い闇を覗く。吸い込まれそうだ。
ロニは、頬を赤く染め、目を逸らした。
「ロニ! 後生だ!」
「妻ですよ! 妻とセックスする際に射精するんです!」
「セックス? すまん。セックス、の意味が分からん」
「正気ですかい!?」
「教えてくれ」
「教えると言ったって・・・・・・男と女が愛を確かめ合う行為、としか言いようがないですよ」
「ああ、俗に言う苦行のことだな」
「何てことを言うんだ、あなたは!」
「ちなみに、妻、の意味も分からんのだ。教えてくれ」
「世界で一番大事な女のことですよ!」
「ああ、俗に言う重荷のことだな」
「何てことを言うんだ、あなたは!」
正史郎は朗らかに笑った。そうして、不意に、真顔になる。
ロニの華奢な肩を、正史郎のデカい手がつかんだ。
ロニはもう、首まで赤く染め上げていた。
「有史以来、配偶者でイケた人間は一人もいないよ、ロニ。男も女も、な」
「そんな、そんなこと、ないです。愛し合っているんですから」
「ほんとにそうか?」
後には長い沈黙があった。その沈黙が破られるまで、正史郎はロニの肩を放さなかった。
「イケません! 妻では!」ロニは泣き出した。「一度だって気持ちよかったこと、なかった!」
「奥さんを責めるなよ」ロニの頭をそっとなでる。「覚えておけ。自分を本当に気持ちよくできるのは自分だけだ」
「あなたの手、温かいですね」涙をぬぐう。「愛情が伝わる」
「俺のせがれは俺の手の温もりしか知らない」その声は神々しくさえあった。「愛情深くもなるさ」
ロニが女の子みたいに笑った。今度は正史郎が真っ赤になる番だった。
「描きますよ。あなたが望む絵を」
「恩に着る」
「依頼は一件につき300ドルになりますが」
「この世界の通貨はドルか。みんな日本語を喋っているから円だとばかり思っていたよ」
「ドル以外は紙くずですよ」
「ロニ。金はないんだ。金よりも尊いもののために生きてきたから」
「それでは、描けません。すみません。僕にも生活があるので」
「交渉しよう。300ドル以上の価値がある情報を教える。それで描いてはくれまいか?」
「その情報とは、何です?」
「オナニーのやり方だ」
「一体全体、オナニーとは何なんですか?」
「発展と堕落が同居する孤高のアクティビティだ」
「意味が分からない、です」
「百聞は一見にしかずだ。ロニ、やってみろ。オナニーをやってみろ。その上で、300ドル以上の価値があるか否か、判断してくれ」
「やってみろと言われましても、何から始めればよいのやら・・・・・・」
「まずは下半身をさらけ出せ。全てはそれからだ」
「あなたのようにフルチンになれと!? そんな恥ずかしいこと出来ません!」
「ロニ。お前は生まれたての赤ん坊を恥知らずと罵るのか?」その声には言霊が宿っていた。「そういうことだ」
言い返すことが出来ず、退路は断たれた。ロニは、健全な恥じらいのうちに、下半身を露にした。
ヒヨコの産毛であるかのような黄金が、慎み深い真の黄金を隠す。そんな秘密の花園から突き出す花弁に似た槍は、隙間風を受けるたびに小さく震えた。
「いいキンタマだ」筆者も正史郎に同意である。「お前はエロいよ、ロニ」
「そんなこと、言わないでください」ロニは顔を両手で覆った。「恥ずかしい」
「この手は顔を隠すためにあるのではない」言いながら、手を取って、下半身へと導く。「この手は愛を握るためにある」
導かれるまま、ギュッと握る。
「強く握り過ぎるな。勃起障害を始めとした様々な疾患になりうるぞ」
「でも、でも、加減が分かりません」
「映画、ゴースト、は観たことがあるか?」
「はい。午後ロードで」
「ろくろを回すデミ・ムーアの手、あの柔らかさで握るんだ」
言われた通りにして、しっくりきた。嬌声が響く。
「後は、シコシコしごく。握りが強くならないように注意しろ」
ロニは従順だった。
「皮を上下させることを意識しろ。それでいて、皮に依存し過ぎるな。タートルヘッドは常に露出しているようにしろ」
ロニは従順だった。しかし・・・・・・。
「駄目。イケない。イケないよぉ」
オカズがない、それ故の惨劇であることに、正史郎は素早く気付いた。
「エロいことを思い浮かべろ!」
「エロいことなんて、思い浮かびません!」
『そうだ! この若者はオナニーのない世界を生きてきたのだ! 脳のハードディスクにエロが保存されていないことは必然!』
策は、ない。槍の強度がマイルドになってきた。策は、ない。
正史郎は、膝から崩れ落ちた。失意。オナニストにあるまじき結末に、失意。
『俺は、無垢な若者一人イカせてやれないのか』
涙が流れた。成分は慈悲100パーセントだった。
吐息さえ重苦しく感じられる空間。その渦中で、儚く散る言葉。
汚れなき源泉の細鳴りともいうべき声を、正史郎は耳聡く拾い取った。
「何と言った、ロニ?」
ごにょごにょと、口が動く。そのあざとさに、正史郎は活路を見出した。
『こいつ、まだやる気だ!』
立ち上がる。こいつがやる気なら、俺も!
「ロニ! はっきり分かるように言ってくれ! 何でもする!」
勇気は勇気の呼び水となり、最後には勇気に帰結する。
ロニは、思いの丈を叫んだ。
「あなたの裸を見ながら、イきたい!」
「よしきた!」
言うや否や、上半身に力を込める。元々デカい筋肉が更にデカくなる。そうして、煤けたタンクトップは爆発四散、布切れとなり宙を舞った。
ストリートファイターさえもが嫉妬するであろう裸体は、ロニの熱を高めた。
「あなたのお名前は!?」
「村雨正史郎! オナニーの伝道者だ! さあ、俺の全て、存分にオカズにせい!」
「正史郎様!」
天を穿たんとする槍は愛のパトスとなりて、その切っ先を歓喜の精油で濡らす。おお、愛おしい光沢よ。脈打つは己の温もりで暖を取る気高き獣のサガよ。ジェミニに結びつく玉は連弾の激しさを増し、反り立つ裏側に見るは絶望でなく希望。白濁の血潮、今まさに日の目を見たり。
「イク! イグ! イグニッション!」
その声と同時に放たれた雄のミルクは、悲しいほどに濃い色をしていた。精通から、8年。膣に満たされず、夢精は儚いばかりだった、8年。この濃い色こそが、悲劇の歴史を如実に物語っている。しかし、悲劇の先にあるものは、喜劇。終わったのだ、ロニよ。君は、自由だ。
余韻で乱れる息を止められなかった。まだ霞んでいる目で、想い人を見上げる。
「正史郎様。300ドルはおろか、300億ドル以上の価値がございました」
「それならば、仕事に取り掛かってもらおう」正史郎の目は、未来を見据えていた。「オカズの作成開始だ」
愛の物語が動き出した。後の世に救世主伝説と語り継がれる、愛の物語が。