2.君もそう思わないか?
桜華の視線を感じながら、私はゆっくりと歩きはじめる。夕陽の沈んだ後宮は美しく、なんともいえない哀愁に満ちている。まるで桜華の心のよう――――私はふっと唇をほころばせた。
「陛下――桜華様のこと、このままでよろしいのですか?」
「うん?」
魅音の宮殿へと向かう道すがら、宦官の一人である孝明が尋ねてくる。彼は普段、私のすることに一切口を出さない、わきまえのある男だ。それが、こんなふうに疑問を呈してくるのだから、相当気にかかったのだろう。私はそっと首を傾げた。
「逆に聞くけど、このままじゃダメなのかな?」
「それは……わたくしの口からはなんとも」
皇帝である私に「ダメ」だと言える人間は当然いない。けれど、孝明が本当はどう思っているかは明白だった。私はクックっと喉を鳴らしてから、ふぅと小さく息をつく。
「どうしてそう思った?」
「桜華様があまりにも気の毒で……あんなにも献身的に陛下に仕え、お慕いしていらっしゃいますのに」
「そうだね。桜華は健気で、一途で、本当に可愛い。誰よりも愛しく思っているよ」
それは純然たる私の本心だ。
私は桜華を愛している。
この世の中の誰よりも、なによりも。
「でしたら……」
「だからこそ、私はあの子を妃なんてつまらない枠に当てはめる気はないんだ」
私の言葉に孝明はほんのりと目を見開く。それから私は、桜華を思って目をつぶった。
「妃というのは所詮、ただの役職――子を生むための道具に過ぎない。私はね、桜華には桜華のまま、美しくあってほしいんだ。誰にも――この私にすら汚されてはならない清らかな花。もちろん、他の男にだって指一本触れさせる気はないよ。だからこそ、彼女をこの後宮に入れたのだから」
「ああ、それで……」
孝明は眉間にシワを寄せつつ頭を垂れる。
桜華は私にとって唯一無二の神聖な存在だ。ひと目見たそのときから、彼女は私にとって特別な女性だった。
なにがあっても桜華を汚してはならない。私の手で守り、慈しまなければならない――――それこそが、私に課せられた使命なのだろうと思えるほど、私は桜華を大切に思っている。
それがなぜなのか――――別に、特別なエピソードがあったわけではない。
正直、私にも理由はわからない。
(けれど、理由なんて必要ないだろう?)
私は桜華を愛している。これはゆるぎない事実だ。
そしてそれは、これから先も絶対に変わることはない。私には断言できる。桜華への想いは、私の根幹をなすかけがえのないものだからだ。
「では、陛下は桜華様を後宮から出すつもりは……」
「もちろんないよ。叔父にも、桜華は一生後宮から出さないと――――誰とも結婚させないと宣言してある。桜華には清いまま、一生私の側にいてもらう。私が帝位から退いても、彼女だけは手放さないと決めているんだ」
魅音も、数多いる他の妃たちも、私にとってはどうでもいい。いくらでも替えの効く存在だ。帝位を退いたそのときには、どこへなりと行けばいいと思う。
けれど、桜華だけは放してやらない。絶対に、私の側にいてもらう。
「――そのこと、桜華様はご存知なのでしょうか?」
孝明が尋ねる。私は首を横に振った。
「けれど、桜華も私のことを愛してくれている。皇帝である私の決定に異を唱えることはないよ」
――――そう。桜華もまた、私のことを愛している。その身を強く焦がすほどに。狂おしいほどに。
桜華が私を求めていると感じるたびに、私はたまらなく興奮する。高揚する。桜華の愛情を感じられることが、私にとって一番の幸福だ。私が私でいられることを心から嬉しく思う。その喜びは、どんなものにも代えがたい。
「そもそも、桜華には私の愛情をきちんと伝えている。孝明も聞いているだろう?」
「それは……陛下の仰るとおりなのですが、世の中には言葉だけでは伝わらない感情もございます。それに、妃たちのなかには、陛下に特別に思われている桜華様に対して、複雑な感情を覚えている方も少なくありません。桜華様は妃ではないのに、と」
「ほぅ……それはつまり、私の桜華に醜い嫉妬心を向けているものがいる、ということか?」
ゾワリと私の中の龍が暴れ出す。
桜華に嫉妬? とても許されることではない。
桜華は特別なのだ。私にとって唯一無二の愛しい存在だ。たかが妃が――自分が桜華と同じ土俵に立っていると考えること自体が愚かしい。
「おそれながら――――それが事実でございます。現に、妃に昇格できないからと桜華様を格下扱いする方もいらっしゃいますし、陛下に抱かれることを自慢するような品のない方も……」
「それは聞き捨てならないね」
桜華が格下? そんなこと、絶対にありえない。許せるはずがない。
「少し、思い知らせてやらなければいけないね。孝明、君もそう思わないか?」
呟けば、孝明がブルリと体を震わせる。それから彼は、深々と拱手をするのだった。