12.わかりません、わかりたくありません
「龍晴様、どうしてまたこちらへ? お渡りの時間にはまだ早いのでは? それに、先触れもなにも……」
「桜華、一体なにをしているんだい?」
龍晴様はわたくしの質問には答えない。かわりに、ご自身の疑問を投げかけてきた。
「なにを? ……っ⁉」
龍晴様の視線の先には、わたくしが書いた資料が散らばっている。わたくしは急いでそれらをかき集めた。
けれど、龍晴様が有無を言わさずそれを奪い、静かに視線を走らせる。
「孝明から桜華の様子がおかしいと聞いたんだ。今朝は宮殿回りをしていたそうだね」
「ええ。魅音様の件で、皆様不安に思っているのではないか、と……」
「そうか。桜華は優しいね。それで、これはなに?」
龍晴様がニコリと微笑む。表面上は普段どおり。いつもと同じ口調だ。
けれど、その瞳はあまりにも冷たい。わたくしは身をすくませた。
「これは……今後わたくしになにかがあったときに、引き継げるものがあったほうがいいと思いまして」
「まさか、そんなことにはならないよ。桜華はまだ若く健康だし、なにかなんてあるはずがない。あっても私が全力で君を守る。そうだろう?」
「っつ……」
龍晴様はそう言って、わたくしのことを抱きしめた。あまりの力強さに身体がきしむ。痛い――けれど、そんなことはとても言えない。このままでは息が止まってしまう――そう思ったそのとき、龍晴様はほんの少しだけわたくしを解放した。
「龍晴様……」
「桜華は一生私の側にいる。そうだよね?」
「そ、れは……」
「そうだよね?」
ヒヤリ。首を両手で包まれ、背筋がゾクリと震える。
天龍様と一緒にいるときにも感じる強い気――おそらくは龍神の血によるものだろう――がわたくしに襲いかかる。怖い。心臓が早鐘を打ち、涙が自然とこぼれ落ちる。反射的に首を横に振れば、龍晴様の指先に力がこもった。
「違うの? 私は桜華を愛している。桜華も同じだろう? 生涯私だけを愛し、私の側にいると――そう言っていたじゃないか」
「龍晴様、わたくしは……」
はい、と答えてその場をやり過ごせばいい。頭のどこかでそれが一番だってわかっている。
だけどわたくしは――わたくしの心が、ハッキリとそれを拒んでいた。
その瞬間、懐に入れていた天龍様の龍鱗がまばゆい光を放ちはじめる。
「なっ⁉」
龍晴様の目がくらんだその瞬間、わたくしは彼の隣をすり抜け、勢いよく駆け出した。
宮殿を覆い尽くすほどの美しく強い光。誰もが目をつぶり、顔を伏せるなか、わたくしは必死に走る。
「桜華! 桜華!」
背後から龍晴様の声が聞こえてきた。彼は他の人よりも光の影響が少ないらしい。
(……早く! 早く! 天龍様のところに行かなくちゃ!)
天龍様は今、わたくしの状況を把握してくれているのだろうか? 彼が地界に降りるまでどのくらい時間がかかるかはわからない。けれど、少なくともここにいたらまずい。なんとかして逃げなければ。
宮殿を出て、後宮のなかをひた走る。けれど、その広大さゆえ、簡単に身を隠すことができない。
「桜華! 止まれ! 私の言葉が聞こえないのか?」
龍晴様が間近に迫っている。わたくしは振り返らないまま、首を大きく横に振った。
だけどその瞬間、ドスッという音とともに右肩に激痛が走る。次いで生温かい液体が服を濡らす。振り返れば、弓を構えている宦官の姿が目に入り、手を当ててみれば、ベッタリと赤い血が付着した。
「あ……あぁ……」
「桜華!」
龍晴様がわたくしに追いつく。肩から弓矢が引き抜かれる。ドクドクと血が流れる嫌な感触が肌を伝う。
呆然としているわたくしを龍晴様が抱きしめる。
言葉が、行動が、いろんなことがチグハグで、わたくしにはとても受け入れることができない。
「桜華、私の桜華。痛かっただろう? もう大丈夫だ。私は君を愛している。桜華もわかっているだろう? 戻ろう。戻って、私の側にいるんだ」
「龍晴様……」
傷口が、きしむほどに抱きしめられた身体が――なによりも心が痛い。
わたくしは首を横に振った。
「わかりません」
「……え?」
「わたくしにはあなたが――龍晴様のことがわかりません」
涙がわたくしの頬を濡らす。
本当はもっと早くに、そう伝えるべきだった。今更かもしれない。だけど、ようやく伝えることができた。
胸が苦しい。龍晴様は傷ついたような表情で、わたくしの顔を覗き込んだ。
「わからない? そんな、まさか」
「まさか、ではございません。わたくしには龍晴様のことがわかりません。龍晴様も、わたくしのことをわかっていらっしゃいません。いいえ――今になってようやく、わたくしは龍晴様の心がわかるようになってきました。けれど、わたくしはもう、あなたの願いを、わたくしへの想いを、わかりたくないんです」
龍晴様が望んでいること。それをわかってしまったら、わたくしは本当のわたくしを殺すことになる。
嫌なのだ。
これ以上、彼の思いどおりに生きたくはない。それがこの世の理でも、わたくしは受け入れたくなかった。
「桜華は――桜華は私のものだよ? 誰よりも尊く、愛おしい、私の、私だけの」
「わたくしは尊くなどありません。他の妃たちとなんら変わりない、ただの女です。欲や嫉妬、醜い感情にまみれた、ただの女なのです」
龍晴様はまた、どこかもの悲しげな表情をなさる。わたくしは思わず吹き出してしまった。
「ほら、ね? 龍晴様もわたくしのことをわかろうとしてこなかったでしょう?」
本当はきっと気づいていて、それなのに見なかったふりをして、それからそっと蓋をしてきた。
きっと、わたくしたちはよく似ている。
龍晴様はやがて、静かに息をついた。
「わかった」
彼がわたくしを解放する。
わかってもらえた――ホッとしたのも束の間、視界がグラリと大きく揺れ、夕焼け空と龍晴様の歪んだ笑みがわたくしを見下ろす。背中に固い地面の感触。私はその場に押し倒されていた。
「だったら、桜華を女性として扱えば――そうしたら、君は私の側にいてくれるんだろう? それが君の望みだものね?」
「なっ! ちがっ……」
龍晴様の唇が喉を伝う。わたくしは反射的に首を横に振った。
「これまですまなかったね。桜華を失うぐらいなら、私は君を汚すことを選ぼう。わかっている。桜華は私のことを愛しているのだものね?」
「龍晴様! わたくしは――」
「私も桜華のことを愛しているよ。誰よりも、なによりも、愛している。……そうだ! 君を抱くからには、他の妃たちはもう用済みだね。後宮は解体して、ふたりきりで暮らそう。きっと子供だってすぐにできる。それがいい!」
龍晴様はいよいよわたくしを理解しようという気がなくなったらしい。わたくしの必死の抵抗もまったく意に介さず、自分の想いを語っている。
(嫌だ……)
今のこの展開は、わたくしがずっと望んできたことのはずだ。
だというのに、今のわたくしには嬉しいとは思えない。
「天龍様!」
わたくしが叫んだその瞬間、あたりが再びまばゆい光に包まれた。
龍晴様や宦官たちのうめき声。身体がふわりと宙に浮く。優しい腕。矢傷を受けた肩がポッと温かくなって、血が止まった感覚を覚える。
「遅くなってごめん……迎えに来たよ、桜華」
見上げればそこに、天龍様がいらっしゃった。




