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その女は、とても魅力的だった。
魅力的、魅惑的、蠱惑的──。
彼女の性質を例えるとすれば、様々な呼び方があるだろう。
それでも、彼女は僕にとって、ただただ魅力的だった。
蜜蜂から見た、蜜を湛えた花の如く。
耳を澄まさずにいられない、春鳥のさえずりの如く。
彼女には、人の心を離さない何かがあった。
──否。
人の心、ではない。
彼女に離してもらえないのは、僕の心だった。
とんでもない美人──というわけではない。
美人には美人ではあるのだが、高嶺の花を思わせるような高貴な美人差ではなく、一般的な町娘が持ち合わせている、野に咲く花のような朗らかさを持つ美しさを持っていた。
愛らしさ、と言い換えてもいいのかもしれない。
少しの話でもコロコロと変わる表情。
楽しそうに持ち上がる口角と、そして紅を引いているであろう、赤い、赤い、みずみずしい唇。
色白ながらも活発さを滲ませる、少し幼く見える相貌に、すらりとした細首には、冬の湖を泳ぐ白鳥か、あるいは寒さに負けぬ純白の鶴の類か。
ひざ下まで伸びた黒い学生服はきちんと皺が伸ばされており、ひだまりのような朗らかさの中に、凛と咲く大輪の菊の花のような高貴さが伺える。
その黒塗りの衣服越しに見える体つきも、年のころが同じ女性と比べると、発達しているように思えた。
もちろん、そういったところも男からすれば魅惑的なのだろうが、それはあくまでうわべに過ぎない。
少なくとも、僕はそう思っていた。
彼女の最も魅力的な箇所は、その内面だ。
初対面の時から物腰柔らかで思いやりがあり、しかしそれを押し付けない奥ゆかしさを感じさせる。
そんな女だった。
彼女と初めて出会ったのは、五か月ほど前のことだった。
そう、まだ先の天皇がお隠れになり、元号が大正に変わる前のことだから、まだ蒸し暑い初夏の時期だったような記憶がある。
僕が学校へと通う路の途中に、一軒の茶屋がある。
三軒長屋を改築した茶屋であり、お世辞にも都会とは言えないこの田舎町では、そこそこに繁盛しているのではなかろうか。
その茶屋は、屋号を「長茶屋」といった。
まだ二十歳にも満たない僕には、茶の味の良し悪しなんてとんとわからないが、長茶屋で出されている練羊羹は絶品だった。
歯に、口にくどく残らない滑らかさと、しっかり食べ応えのある甘味。その甘味が、茶の苦みと良く合うのだ。
苦学生である僕には、そこまで頻回に足を運ぶことは適わなかったが、それでも月に二、三度は足を運ぶほどには、僕は長茶屋のことが気に入っていた。
彼女との出会いは、その長茶屋だった。
あくる日、友人と連れ立って、いつものように長茶屋へと寄り道をし、店外の長椅子に腰掛け、羊羹を茶請けにしてお茶を楽しんでいた時のことだった。
「もし……」
店の入り口から、そんな控えめな声が聞こえてきたかと思うと、何かが僕の頭をするりと掠めた。
僕が驚いて左後方を向くと、一人の女性が、そんな僕の様子に驚いたように目を丸くしていた。
そこでようやく、彼女が僕に対して「もし」と声をかけてきたことに気が付く。
「僕に何か?」
驚いてしまったことをごまかすように、努めて冷静に、落ち着いた声を装って、僕は彼女に訊ねてみる。
その様子がどう映ったのだろうか。
彼女は丸く開いていた目をうっすらと細め、口元に手を当て、鈴を転がしたようにころころと笑った。
「いえね、髪の毛にとても可愛いものを着けていらしたので」
「可愛いもの?」
思わず、僕は眉間に力を入れながらオウム返しをしてしまった。
しかし、彼女は特に気を悪くした様子もなく、ええ、と一つ頷いた。そして、そのまま「これ」と言いながら、口元に当てた手とは逆の手を上げて見せた。
「……花?」
彼女の白い指に摘ままれていたのは、少しだけ曲がった純白の花びらであった。
そうです、という言葉の代わりに、彼女は小さく首を横に振った。
「夾竹桃という植物の花びらです。今はまだ散り始める時期ではないので、落ちて髪の毛にくっつく、なんてとても珍しいのですけれど」
運がよろしいのですね、と彼女はまたころころと笑った。
運の良さを褒められているのか、はたまた髪の毛についていることにすら気が付かないずぼらさをけなされているのか──。
おそらく、前者だろう。
少なくとも僕には、彼女に邪気があるようには感じられなかった。
それに、もしけなされているとして、悪いのは彼女ではなく、制帽を小脇に抱えて道を歩いていた自分の方だろう。その程度の分別はわきまえているつもりだ。
「いや、お恥ずかしい……」
頭に手をやって、はにかみながらそう言うと、彼女はふんわりと笑顔を作って「いえいえ」と優し気な声で言った。
「それにしても、よくそれが夾竹桃の花だとわかりましたね」
照れたのをごまかすように、僕は話題をそらしながら、彼女に声をかけた。
そうですね、と彼女は手に持った花に視線を落として答える。
「私、植物には詳しいんです。小さいころから興味があって、今では学校で専攻するくらいですから」
なかなかに、聡い女性のようだった。
その後、十分程だろうか。雑談をしてみたが、植物以外の知識も豊富であり、時世に関してもよく考えているようだ。
しかしながら、これは彼女の人柄だろう。そういった知識群や思想を振りかざすことなく、こちらの振った話に応えるように出してくるものだから、まったく嫌味に感じない。
むしろ、話易くてついついいらないことまでしゃべってしまいそうであった。
僕の友人も交え、ひとしきり話した後、彼女は「用事がありますので、これで……」と頭を下げて帰っていった。
あ、と友人が思い出したように言う。
「そういえば、名前を聞きそびれてしまった」
「あっ」
友人に言われてから、ようやく僕はそのことに気が付いたのだった。
それだけ、彼女との会話が楽しかったのだろう。
またこの店で会えるだろうか。
この店をよく利用するのかということも聞きそびれてしまったことを、少し後悔した。
────
───
──
─
結局、彼女は月に二、三回程度の頻度で、長茶屋を利用しているようであった。
時々入れ違いになることもあれば、初めて会った時のように会話をすることもある。
いつも、楽しかった。
会話の内容を楽しむあまり、毎度のように名前を聞きそびれてしまうのであるが、それもあまり大した問題ではないように思えた。
どこか特徴のある顔立ちというわけではない。派手な出で立ちをしているわけでもない。
言葉は悪いが、ともすれば、ひと月も経てば彼女の顔を忘れてもおかしくはない程度に、彼女は地味な見てくれをしていたように思う。
しかし、僕にとってそれは些細な問題だった。
実際僕は、彼女と三度、五度と顔を合わせて、言葉を交わしているのだから。
ここ最近は彼女の方も、僕との会話を楽しみにしているように思う。入れ違う頻度が減ったのだ。
あまつさえ、「そろそろいらっしゃるんじゃないかって、待ってたんですよ」なんて。
それがちょうど二週間ほど前だろうか。
そろそろまた、長茶屋へ行けば彼女と会えるのではないだろうか。
だから僕は、学校帰りにこうやって、長茶屋の方へと足を向けているのである。
秋も深まり、吹き付ける風は冷たい。
詰襟に首を竦めてみるが、その程度では気休め程度しかならない。
やはり、長茶屋で熱い茶を飲まなければ。
寒くなりついでに、僕は最近巷で話題になっている事件について思い出した。
なんでも、行方不明事件が多発しているらしい。
しかも行方不明になっているのは学生が多いという。
──はて、物騒な時代になったものだ。
若輩ながら、そう思う。
元号が変わるということは、時代が変わるということだ。
国民も政治家も、最近はピリピリとしているから、そういった妙な事件も起きやすいのかもしれない。
上を向いて、ほうと溜め息を吐いてみるが、不安は消えそうになかった。
不安──そう、不安だ。
僕自身がそれに巻き込まれる不安ではない。
学校でも学生運動にはあまり関わらず中立にいるよう意識しているし、周囲には思想家もいないはずだから、僕がそういった政争に巻き込まれる可能性は低いだろう。
不安なのは、彼女がそれに巻き込まれないかである。
例えば彼女が行方知れずになったとして──。
それは少し、耐えられそうになかった。
ふと考える。
このままでいいのだろうか。
もっと、彼女のことを知っておくべきではないだろうか。
何かがあった時に、彼女を守れるように。
そんなことを考えながら、長茶屋へと向かう頃には、少し日が傾き始めた頃だった。
「あっ」
思わず、そんな声を上げてしまう。
ちょうど彼女が、茶屋を後にする所だった。
傾いた日差しに暗くなる背中が、遠く離れていく。
声をかけようと駆け出そうとして、僕はその足をぐっと堪えた。
……暗くなる前に帰ろうという女性を、留めようとするつもりか?
まったく、馬鹿ばかしい。
それはさすがに手前勝手が過ぎるだろう。
──ならば、声をかけて家まで送ればいいのではなかろうか。
しかし、それはなんだか照れくさい。
結局僕が選択したのは──。
(後ろをついて行って、見守ろう)
そんな、やけに臆病な選択を取ってしまった。
……もしかしたら、僕は彼女に焦がれているのかもしれない。
そう、思った。
坂村通りを真っ直ぐ通り、多田代橋を渡って左へ曲がり、左手に方之川を見ながら北へと向かう。
彼女はその間も、真っ直ぐとした背筋と歩調は何も変わらない。
川縁から離れる頃には、辺りもだいぶ暗くなり、ぽつぽつと、点消方がガス灯に火を点している。
暖かな橙の光は暗闇を確かに照らしてくれるが、しかし一寸でも先に行けば、やはり闇は溜まっていることには変わらない。
ちょうど彼女の背中が、誰そ彼と闇に消えてしましそうなくらいに。
そして、そんな微かな明かりも、路地に入ればなくなってしまう。
家と家の隙間にある細道などは、本当の闇だ。
例えば幽霊が。
例えば妖怪が。
そして、例えば犯罪者が紛れていても気が付けない程、全き闇だ。
意識というのは不思議なもので、普段であれば気にならないことも、一度気になってしまえば、頭の片隅から振り払うことが非常に難しい。
何が言いたいかというと、暗闇を湛えた細道の前を通り過ぎるたびに、背筋を冷たいものが這い上がってしまうのだ。
恐怖──。
なのだろう。
学校で聞いたことがある。
我々はもともと昼に活動する生物だ。そして、天敵である肉食獣は夜行性が多い。
つまり、闇を恐れるのはそんな原始的な本能が原因なのだという話を。
まったく、如何ともしがたい。
何かあれば彼女を助けるためにとここまで来て、暗闇が怖くて彼女を見失いましたなんて。
さらに都合の悪いことに、ここは人通りが少ない。
というより、ほとんどないと言ってもいいだろう。
田舎の夜道なんて、こんなものだ。
さらに、こうも寒くては──
ガタリ
僕の右手の家の影から、そんな音が聞こえた。
思わず飛び上がってそちらを見遣る。
がらんと固い音がして、軒先に置いてあった桶が転がった。
トッ、とすぐに微かな音を立てて地面に降り立ったのは、栗色の毛をしたキジトラの猫だった。
──まったく、いったい何に気を取られているんだ。
このままでは、彼女を見失ってしまう。
そう思って振り返ると、すでに彼女はいない。
「しまった」
小さく口の中で呟いて、僕は駆け出した。
彼女を見失った、四つ先のガス灯の所まで駆けるが、やはり彼女は見当たらない。
自分のマヌケさ加減に歯噛みをする。
さて、どうしたものだろう──
「うっ!?」
腕を組んで考え事をしようと思った瞬間だった。
背後から僕の口元に、何か布のようなものが押し当てられた。
(──これはっ!)
件の行方不明事件の──
そう思った時には、なにやら甘い匂いに誘われて、僕の意識は消え去ってしまった。
────
───
──
─
「う……」
不意に、目が覚めた。
体中が痛いような気がするが、怠さのせいで、痛みなのかそうでないのかがよくわからない。
目を開いてみても、どうにも焦点が合わせずらい。
……とりあえず、体を起こしてみようか。
そう思い体を捩ろうとして、それができないことに気が付いた。
まず、腕に、体にうまく力が入らない。全身が弛緩してしまっている。
そして、腹の辺りが、何かとても重いような──。
「あら、目覚めたのですね」
脳みそを蕩かすような甘い声が、その重石の方から聞こえた。
良く目を凝らせば、それは──。
「ふふ、まさか追ってきてくださるほど情熱的だなんて。とっても嬉しい」
そう言って彼女は、蠱惑的に、赤い唇を歪めた。
体の感覚が怪しいというのに、僕は、全身が総毛立つのを感じた。
異国には、食虫植物というものがあるらしい。
甘い香りを以って虫を誘い、その虫を何らかの手段で捕らえ、じわじわと消化する植物が。
彼女に聞いた話だ。
まさか。
いつから?
彼女の蛇のような白い首が、艶めかしく揺れる。
「あら、とても寂しそうな貌をなさるんですね」
少しだけ寂しそうに、彼女が言う。
寂しそう?
なぜ?
僕の中に渦巻くのは、唯、恐怖──
「夜道を追ってくださるほど、求めてくださったのに」
残念そうに、彼女が言う。
ふと視線を落とすと、彼女の右手には注射器のようなものが握られていた。
「……れで、……を……」
言葉が出ない。
口がうまく動かないのだ。
しかし、彼女にはそれでも通じたらしい。
「何を? 妙なことを仰いますね」
童女のような純粋な瞳で、彼女は言う。
「私が何に興味を持っているのか、沢山話を聞いてくださったじゃないですか」
興味を持ったことに、手を出さずにはいられない。
敵意も悪意もなく、ただ知的好奇心を満たすためだけに行動を起こす、無垢な笑みを浮かべて言う。
「少しだけ、実験に付き合ってくださいな。どの植物が体に毒で、どの植物が体に薬なのかを」
そう言って彼女は、鈴を鳴らすようにころころと笑った。
ひとしきり笑った後に、彼女はふわりと僕の顔に、その整った顔をずいと近づける。
ふわりと、甘い香りが鼻腔を侵してきたような気がした。
「あなたは、前の人たちよりも永く、実験に付き合ってくださいね」
ちくり
左腕に、小さな痛みが走る。
何かが注入されるような圧迫感。
「や……」
やめろ。
そう口に出す前に、瞼が閉じてしまう。
いや、違う。
目玉が上へと回っているのか。
いいや。
もう。
なにも。
わからない───
─────
───
──
─
「ねえ薫子、あの噂聞いた?」
「噂? 噂なんて、いくらでも転がっているでしょう?」
「うわ、そうやってカマトトぶっちゃって!」
「ふふ、ごめんなさいね。どの噂のことかしら?」
女学生が二人、連れ立って町中を歩く。
時刻はまだ早朝。
どうやら通学の途中らしい。
「ちょっとした怪談ってヤツよ」
「怪談……? へえ、どんな?」
薫子と呼ばれた女学生が、ふわりと首を傾げた。
もう片方の女学生が、身振り手振りを交えながら語る。
「なんでも夜道を一人で歩いていると、暗がりから女の霊が、こうぬっとあらわれて、若い男を連れ去ってしまうんですって。そして、精魂尽き果てるまで搾り取っちゃうんですって!」
それを聞いた薫子が、コロコロと笑った。
「朝からお下劣ね」
「なによう、実は好きなクセにィ」
頬を膨らませた女学生に、薫子は再び笑みをこぼす。
「それ、最近起こっている事件がモチーフなんでしょう?」
「はあ、流石ね。情報通なんだから」
「今朝の新聞にも載っていたもの、それくらいはわかるわよ」
そんな会話をしながら、二人の女学生が歩いて行く。
そんな女学生の会話を聞き流しながら、長屋の軒下でパイプを揺らして新聞を読む老爺がいた。
「ぶっそうだねェ……」
パイプから煙を吐き、老爺が眉に皺を寄せる。
彼が見る新聞記事の見出しには、こう書いてあった。
『学生徒、行方不明者多数アリ、情報求ム』
と。
茶屋で出会った男女の関係が発展する小噺です(語弊ある言い方(嘘は言っていない))でした。
物語の出発点は、「ストーカーされた方が実はヤバいやつだった話」というネタありきのお話ですので中身はありません。
そんな話に最後までお付き合いいただきありがとうございました