第一部
プロローグ
原罪――
キリスト教において、アダムとエバがはじめて神に背き犯した罪。全ての人間は、アダムの子孫として、生まれながらに罪を背負っている。
ならば、人間じゃない者達から生まれた僕達の罪はなんだったのだろうか。
生きるとは、他人に遣われる事、他人に消費される事、暗闇の中で、自分の罪を許し光だけを追い求め歩き続ける事。簡単そうに見えても、これがなかなかに難しい。だからこそ生きるというのはとても困難なのだろう。
命は公平、命は不平等、それでも尚、奈落の底で命は常に動作し続けている。
だから僕達はこの汚い血溜まりの、奈落の底で永遠に生き続ける。
永遠に
第一話 イアン二世
私は確信しています。死も命も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。
新約聖書、ローマの信徒への手紙の一部だ。パウロは信じるものは救われ、罪から解放されると論じている。法によって罪を、悪を自覚すると。
「あー、疲れた」
読んでいた本をそっと閉じた。久しぶりに活字を追ったせいで、違和感のある目をこする。そもそも、たまには真面目に聖書など読んでみようと思い立ったのが間違いだったのだ。肩はこるし目は疲れるし何より難しくてよく分からないし。だらしなく玉座に腰掛けながら本を横腹に置き、肘掛にもたれる。
シャンデリアのつかない、ただ広いだけの暗い部屋では、金でできた調度品も鎧も宝石も、輝きを失っている。本人曰く少々埃っぽいのがまた、日常から解放されたようで……とても、心地いいらしい。
静まり返った部屋に、重たいドアの軋む音を響かせながら、入口から見慣れた顔がこっちを睨む。
「イアン様、何回も申しますけどね、玉座の部屋には入らないで頂けます? 高い調度品が沢山あるんですから 」
「……別にいいじゃん。ほぼ俺の部屋みたいなもんでしょ? 頭が硬いんだよエリックは」
イアンと呼ばれる青年は、深い青の髪を弄りながら、叱責してきた世話係のエリックに言い返した。
「っていうか暇! 暇なの俺は! 遊び相手でもいたら言いつけ破ったりしないよ!」
爆発したように叫ぶイアンに、薄い茶色の髪をかきあげながらエリックはため息をつく。
そんなことを言う暇があるなら勉強をしてて欲しいのだが……今、こんなことを言っては逆効果であることは目に見えていた。
「私の手が空いている時は構っていますでしょう?」
「うん、チェスするよね。でもさ、勝てた試しがないんだよ。手加減って知らないの?」
「貴方ごときに負けるのは癪なんですよ」
「俺、一応次期国王なんだけどな〜?」
エリックはイアンを無視して、イアンが持ってきたパンやスコーンの皿を重ねて台車に乗せ、せっせと片付けを始めた。
「新しい護衛の方を、アンドレーさんが連れてくるそうですよ。せいぜいその方に期待して下さい」
「アンドレーが? あんな信用ならない奴が連れて来る護衛なんて、相当危なそうなんだけど.......」
「あら、すいませんね。信用ならなくて」
開けっ放しのドアの入口には、帽子を胸にあてたアンドレーと、真っ黒な護衛の制服を着た少女が立っていた。少女は俯き、顔は肩までの黒髪に隠されてよく見えない。
アンドレーはイアンの自身に対する悪口を聞いても尚笑顔を貼り付ける。このアンドレーという男は、年齢不詳、いつから宮殿に住んでいるのかも、役職も一切不明の怪しすぎる男だった。笑顔の目の横に若干のシワが寄っている様子から見て、四十代前後ということが推測できる程度だ。
「失礼しますイアン様。やっぱりここにいたんですね、探しましたよ? 部屋にいないんですから。やっぱり落ちこぼれですから言いつけは守らな――」
「あーーもう! うるさい! ほんとに嫌味ったらしいよね」
アンドレーのお小言と嫌味攻撃に耳を塞ぎ、がばりと起き上がる。イアンの態度から読み取れるが如く、イアンはアンドレーの事が苦手だった。
しっかり手入れされ、片方だけ立ち上げられた黒髪に、いつもにこやかな表情。一見紳士的に見えても、何か、目の奥では憎悪が渦巻いているように見えてならない。
「はいはい。では早速、こちら、新しくいらっしゃった護衛さんです」
アンドレーが軽くあしらい、護衛の少女をイアンの眼前に押しだした。
病的なまでの白い肌に、真っ赤な口紅と目の下の傷のコントラスト。蛇を連想させる金色の虹彩に、真っ赤な縦長の瞳孔。
「よ、よろしく……」
握手を促し少女に手を差し出す。外見への偏見など、特に珍しい青い髪をもつイアン自身にとっては皆無だったが、何故か彼女の目を見れそうになかった。
それは思春期特有のあれそれではなく、もっと何か、本能的な恐怖心からくる逃走反応の様な……。彼女も、アンドレーと同じ部類の人間だと直感した。
それはそうと、彼女から握手が帰ってこない。あれ……? と頭にはてなマークを浮かべ沈黙がすぎる。
「……お断りします。私は仲良しごっこをするためにここに来たわけではないので」
それだけ言って、黙りこくってしまった。本来なら、王族に対する侮辱行為で逮捕されても良い程の失礼さなのだが、イアンにはそんな事は関係ない。
「ま、まぁ、改めてよろしく! 宮殿の中案内するよ、行こう」
お咎めどころか、気さくかつ親切に対応するイアンに、少しばかり護衛は驚いた様子だ。エリックのイタズラはしないように、という注意からそそくさと逃げるように二人は部屋を出ていく。
「ねーねー、君何歳? どこから来たの?」
「……」
「好きなお菓子何? 俺はスコーン」
「……」
「嫌いな食べ物何? 俺パセリ」
「……」
ヘラクレスの間、鏡の間、大理石の中庭……次々と案内をしつつもイアンが護衛に質問し、無視されるという一連の流れを繰り返す。
「……貴方、変な人ですね」
「へ?」
依然と無視を決め込んでいた護衛から突然貶され、目が点になった。
「私の態度に怒らない人初めて見ました」
「自覚あったんだ……」
「時期国王と聞いていましたから、もう少し偉そうなおじさんなのかと」
イアンの表情が少しばかり曇る。イアンは、生まれ持った地位や権力を利用し傲慢に振る舞うことは何となく、羞恥を覚える行為だと考えていた。当時このような考え方は珍しく、周囲の理解も乏しかった。
「別に……俺がたまたま王族に生まれただけで、俺自体が偉いわけじゃないから」
「ふん、やっぱり変な人です」
「さっきから変、変って、何が変な――」
ぐうるるるるる……
イアンの怒りは獣の雄叫びの様な、腹の虫の鳴き声によってかき消された。
音の張本人である護衛は恥ずかしがる素振りすら見せず、何事も無かったかのように無表情だ。
「……お腹、空いてるの?」
「まぁ……」
護衛の失礼な発言に怒りを覚えていたはずなのだが、この雰囲気ではそれを叱責する事も瑣末なことに思えてくる。
「ここからキッチンが近いからさ、誰もいなかったらつまみ食いしようよ」
「さっきの人がイタズラはダメだと」
「エリックの事? いーよいーよ大丈夫! たぶん」
キッチンの手前でそんな会話をしつつ、中を除くと人がいた。
茶髪の髪をふたつにくくり、大きな丸メガネを掛けた女の子のメイドだ。運がいいのか悪いのか、高い所の棚の備品整理をしていてイアン達の事は見えていないようだ。
「ラッキー、ささ、今のうちに。フォークの入ってる食器棚どこかな……」
「あ、キッシュありますよイアン王」
二人はメイドにバレないようにひそひそと話しながら、皿に乗っているキッシュを一口二口フォークでつついては頬張る。型崩れして少し冷めてしまっていたが、焼きたてとはいかずとも暖かく、優しく腹を満たしてくれる。
「ふぅ、お仕事一段落ですね。さーてお昼ごはんおひるごは」
仕事を終えてスッキリとした表情のメイドがくるりと振り返り、イアン達と目が合う。
「わ、私のお昼ごはん……!」
「ご、ごめん、これ君のだったの?」
イアンが申し訳なさそうにフォークを隠すが、護衛はメイドのショックそうな顔を見つめたままもぐもぐと食べ続ける。そのまま余すとこなく食べ尽くすと、ふぅ、と一息ついた。
「つまみ食いなんだから許せ」
「ガッツリフォークで食べてるじゃないですか……!」
メイド自身、お昼を横取りされ怒り狂ってしまいたかったが、相手が主人であるイアンなだけあってそうもいかなかった。暫くはむ、とした表情で護衛を見つめていたが、途中で諦め項垂れているだけになる。
それを見たイアンは、護衛がほぼ食べたとはいえ流石に申し訳なく思い始める。
「えーと……あの、代わりと言ってはなんだけど、俺たちでなんか作るよ」
「え……いいんですか?! あ、いやいやダメですよ、イアン様にそんな事やらせたらバチが当たります」
「大丈夫大丈夫! 元はと言えば俺たちが悪かったしね」
そう言うとイアンは袖をまくり、護衛の腕を引っ張って作業台の前に連れていく。
「何作ろうかな、ケーキとか?」
「ケーキなんて作れるんですか? 難しそうですが」
「昔母さんと作ったことあるしいけるいける」
小麦粉、卵、ミルク……ケーキの材料を眼前に、うむ、と二人は考え込む。
「とりあえず、材料混ぜて焼けばいいよね。君はオーブンの火力調節しててよ」
「はい」
大丈夫なのだろうか……。お詫びとはいえ、ケーキを作ってくれるというイアンの気持ち自体は嬉しいのだが、メイドは不安でしかなかった。
現に、オーブンを見て、何を考えているのやら棒立ちしている護衛が眼前にいるのだから。
「火力……」
そう呟くと、どんどん薪をオーブンに投げ入れていく。
ガコン、ガコン、ガコン
「ああ、ダメですよそんなに入れちゃ……!」
「火力があった方が早く焼けるだろ」
「これじゃ炭になっちゃいますよ」
メイドの協力と助言の元、なんとか適当な火力に出来た。護衛の言動から察するに、料理どころか家事すらした事がないらしい。
「生地できたよ」
タイミングよく、イアンも準備が出来たようだ。
丁寧にケーキ型に流し込んでいく。
「よーし、後は様子見ながら焼けば完成!」
窯でパンやピザを焼く時によく用いるパーラーの上に、ケーキ型を置きゆっくりオーブンに入れていく。
やがて、ジリジリとスポンジが膨らみはじめた。
「これ、なんだ?」
護衛が手に持っているのはオリーブオイルだった。
「ああ、オリーブオイルですよ」
「かけてみるか」
と、唐突に護衛は炎の燻る窯に瓶の中身をぶちまけ始めた。
ボッ!と火柱がたち火の粉が上がる。
「キャー!」
「わー! なにやってんのさ!」
「しっとりして美味しくなるかと……」
メイドとイアンが叫び、バケツに水を組んで消火を試みるも、大きいオーブンなだけになかなか火が消えない。
「あ! 何やってるんですか!」
ドアの入口にエリックが立っていた。どうやら、イアンが火遊びをしていると勘違いしているようだ。
「ちょ、ちが……、あーもう! 逃げるよ!」
イアンは護衛の手を取り、走り出した。叱ろうと迫ってくるエリックの横をすり抜け、焦げ臭いキッチンから抜け出す。
「イ、イアン様ー! 私のお昼ご飯は……?!」
胸を痛めながらも、メイドが叫ぶのも無視し宮殿を抜け、広大な庭に逃げ延びた。
「はぁ、はぁ、……たく、君のせいで散々だよ!」
「そうですか」
息を切らしながらもイアンは護衛に文句を垂れる。その肝心の護衛は、全くもって反省していない様子だが。
「随分と走ったんですけど、ここも宮殿の敷地内なんですか?」
辺りを見渡すと、大きな噴水が続いていた。ヴェルサイユの噴水と呼ばれるそれは、水のない土地にセーヌ川からの水を組み上げ人工的に作った噴水だ。
「まあね。広すぎるのも考えものだよ。小さい頃何度も迷子になってさ」
二人は適当な話をしながらふらりふらりと歩いていく。特に行くところもないが、今宮殿に帰ったら叱られるのは目に見えている。ならばそこら辺をふらつくしかないのだろう。
気がつけば、プチ・トリアノンの辺りまで来てしまっていた。
「ここは?」
「この建物はプチ・トリアノンって言うんだって」
プチ・トリアノンは少々メルヘンチックな内装の建物であり、新古典主義建築かつ内装はロココ様式の最高峰と評される離宮である。さらにその横にはジャルダン・フランセというフランス式庭園が広がっており非常に華やかな雰囲気の場所だ。
「小さい頃、母さんと俺で住んでたんだ。俺、変な子供だったらしくて、母さんが心配して離宮で育ててたんだって」
「……イアン王の母君は」
「うん、死んじゃったけどね」
そ、とジャルダン・フランセに咲く薔薇を撫でる。
「優しくて、暖かくて、大好きだったんだ」
「……そうですか」
沈黙の中、イアンが突然あ! と叫んだ。
「俺、君の名前まだ聞いてなかった! なんて言うの?」
風が吹く。春の暖かい風。なのに、冬の残り香のように少しだけ冷たい。
「私の名は、ラヴィです」
「ラヴィ……」
「命か。いい名前だね。改めまして俺はイアン・ウンジェーヌ。よろしく」
二人の出会いは、運命なのか必然なのか、はたまた策謀か――
新しい護衛、ラヴィが来てから数日がたった。初日でオーブンをキッチンごと燃やしてしまったラヴィだったが、エリックに叱られるのみでお咎めは許して貰えた様だ。そのついでにイアンとその場にいたメイドも叱られたのだが……。
「うーーん……」
まん丸のメガネがきらん、と光を反射させる。
「わかりました! ここに置けばチェックメイトです!」
「ビショップは斜めにしか置けないから無理だぞ」
カン!とビショップの駒を縦の方向に叩きつけ移動させたのは、あのキッチンにいたメイドだった。
「そ、そんな〜!」
「ちなみに、そこにあるポールを奥に進めてプロモーションさせクイーンにして、後ろに三マス下がればチェックメイトだ」
「あ! ちょっとラヴィ、ずるいよ教えないでよ!」
イアンがラヴィのアドバイスを牽制する。一緒に叱られた日から、何となく三人で集まってはボードゲームや暇つぶしをしているのだ。
基本、遊ぶのはメイドとイアンであって、ラヴィはその横で適当に本を読んでいることが多いのだが。
メイドの名は、アン・テレーズというらしい。田舎の孤児院から宮殿のメイドとして住み込みで働きに来ており、まだまだ新人だと自称していた。
「やったー! 私の勝ちです!」
「今のはラヴィが悪いよ俺の勝ちだよ!」
時期国王であるイアンにもお構い無しで反論する。このアンという少女はなかなか図太い性格をしているらしく、数日前もイアンが何となくお茶に誘った所、一回は断ったが二回目のお誘いで食い気味に参加してきた。
「でも私の方が優勢でしたよ〜、あ、スコーン貰ってもいいですか?」
イアンの返事も聞かずにプレートに乗ったスコーンを頬張る。
「ていうかラヴィさ、さっきから何読んでるの?ここ最近ずっと読んでるけど」
バツが悪そうに、イアンが話をそらそうとラヴィに話しかける。ラヴィは本に目線を落としたまま答えた。
「貴方達王族の文献です」
「俺の? なんで?」
「護衛なんてするの初めてなので、主を知ることから始めようかと」
イアンは真面目だなぁ、と呑気に考えた後、ラヴィは新人の護衛だということに気づいた。新人に身を任せるとなると、少しだけ心配が募る。
未だにラヴィの能力は未知数で、ただでさえ不安だというのに、ここまで来るとアンドレーに素人を掴まされたとしか思えなくなってきた。
「そっか、なんか分からないことあったら聞いてね! 宮殿の中とか案内するし」
ガチャガチャとチェスの駒を元の配置に戻す。ラヴィが顔を上げた。
「貴方の両親、天然痘で亡くなってるんですね」
ピタリ、とイアンの手が止まる。
「前代国王ハイドランジア、その妻リーベは五年前天然痘にて逝去。その後はエリックが献身的に貴方の面倒を見ていたみたいですが……」
淡々と話すラヴィ。イアンの向かいに座るアンは、イアンの手が止まるのを不思議そうに見つめている。
「逝去される以前の記録があやふやというかちぐはぐというか」
「何が言いたいの?」
イアンの冷たい物言いに、その場の空気が凍った。ありえないほどキツい目線でラヴィを見つめている。
と、その場の空気に耐えきれなくなったアンは、ラヴィを牽制しようと口を開く。
「らっ、ラヴィさん、そういうこと聞くのは……」
「本当に、死因は天然痘なんですか?」
アンの牽制も虚しく、ラヴィは突き詰めるように質問を放つ。
イアンはさっきまでの冷たい視線が嘘だったかのようににこり、と微笑んだ。
「うん、天然痘だよ。二人ともね」
なんだ、怒っていなかったのか。そう安堵したアンがほっ、と胸を撫で下ろす。
「でもさ」
カン! とキングのコマをボードに叩きつける。
「お前みたいな護衛ごときが、僕にそんな事を煎じ詰めるなんて、本当は死刑にしたいくらい屈辱的なんだけど」
「……そうですか、言いすぎましたね。ごめんなさい」
乱雑に椅子から立ち上がり、部屋を出ていこうとするイアン。
「あっ、イアン王待ってください――」
「触るな!」
イアンの手首を掴むと、乱暴に振り払われた。そのままバン! と軋む扉を閉め外へ行ってしまった。
しばらく扉を凝視していたアンが、ラヴィを、じとり、と見やる。
「ラヴィさん、デリカシーってもんがありませんよデリカシーってもんが」
「……」
ラヴィはその言葉に反応することなく、振り払われた手をじっと見つめている。
「イアン王、なにかおかしくなかったか?」
「え? そうですか? ラヴィさんにデリカシーがないから怒っちゃっただけでしょ?」
「……それだけならいいんだが」
嫌な予感がする。とでも言いたげな表情だ。ラヴィも椅子から立ち上がり、ドアに手をかける。
「もう一度謝ってくる」
「そうですか、デリカシー忘れちゃいけませんよ、ラヴィさん!」
ふぁいと! と応援するアンを横目に部屋から出た。宮殿内、廊下、色々探しても見つからない。と、薔薇園をまだ探していないことに気づいた。
イアンは薔薇園の中央、テーブルと椅子の設置されている場所に居た。
「イアン王」
「……ラヴィ」
「さっきはごめんなさい。気に触ってしまったのなら謝ります」
「ううん、もういいよ」
にこ、と困ったように笑う。ラヴィは向かいの席に腰掛けた。
「俺さ……母さんと父さんが死んだ時のこと、ほぼ覚えてないんだ」
頬杖をつき、薔薇を見ながら呟く。
「思い出そうとすると頭が痛くなって何も考えられなくなる。……病気かな?」
「そんなこと……ないですよ」
ラヴィの気遣いの言葉に、イアンは、あはは、とまた困ったように笑う。
「ていうかラヴィはさ、なんで護衛になったの?」
「……ほんとに、アンドレーから何も知らされてないんですね」
「え?」
ラヴィはガタ、と椅子から立ち上がる。ツカツカと足音を響かせイアンの真横に立った。イアンの手首をそっと握る。
「ラヴィ?」
ずい、と顔を近づける。綺麗な顔がイアンの眼前にあった。普段、ジトリとした目線故に気づかなかったが、かなり端正な顔立ちをしている。ドクドクとイアンの胸が高鳴り始めた。
「ち、近いよ」
「近いといけませんか?」
「いや、その、ラヴィって顔綺麗だから萎縮するっていうか……」
「なるほど、私の顔に好感をお持ちということですね」
そう言うと更に近くなった。まだ若く、異性と接する機会の少ないイアンにとっては、もう心臓が爆発しそうな刺激だった。ああ、今自分の顔はどれだけ赤いのだろう。想像もしたくない。そう考えギュッ、と目をつぶった。
「イアン王、目を開けて。私を見なさい」
言われるがままに目を開ける。やはり近い。手首を握ったまま、目を覗き込まれる。
「ラヴィさーん、イアン様ー?」
イアンとラヴィはハッ、と横を見ると、茂みの角からアンが歩いてきた。
「あ、アン……!」
今のイアンにとっては、アンの存在は救世主だった。アンがいればこんなことやめてくれるだろう。
「あ! いたいた〜。何してたんですか?」
ラヴィがイアンの手を握り近づいている、という構図だった故に質問された。ラヴィはうーん、と考える。
「何って……逢い引き?」
「エエッ!?」
「ちっ、違うよ! 違うからね!?」
ワタワタとラヴィの冗談をかき消すイアン。ラヴィは気にせずイアンから一歩引いた。
「ふーん……あ、ラヴィさん、さっきエリックさんがラヴィさんのこと探してましたよ」
「そうか。分かった」
ラヴィはツカツカと何事も無かったかのように宮殿の方向へ歩き出した。アンはペコり、とイアンに会釈し、ラヴィについて行く。
「ほんとに何してたんですか〜?」
「別に。お前には関係ない。イアン王の許しも貰えたし……気になっていた事も確認できたし。そろそろ仕事しないとな、私もお前も」
「そうですね〜、サボって遊んでるのバレたらクビですもんね」
ラヴィのキツい言い方も気にせずにそのままついて行った。その頃残されたイアンは机に突っ伏していた。
不覚にもラヴィに心乱されてしまった。これではまるで恋物語の男女みたいではないか!
「ラヴィってほんと、なんなんだよ……」
うわぁ、と頭を掻きむしる。イアンの苦悩はまだまだ続きそうだ。
「パレード?」
イアンが埋もれていたソファから顔を上げる。
「ええ。イアン王様のお誕生日の五月二十日、ここからノートルダム大聖堂まで馬車に乗ってパレードの予定です。大聖堂では戴冠式を執り行う予定です」
エリックが書類を見ながら説明し出す。やれマナーだの民衆に対しての態度だの、手を振る時の腕の角度まで口うるさく助言してきた。
数日前、ラヴィ諸共オーブンとキッチンを燃やした事に対してこっぴどく叱られたものだから、文句を垂れるのもバツが悪い。
「周りには軍もいますが念の為護衛もつけます。あ、そういえば、あの護衛さんとはどうなりました?」
「ああ、ラヴィの事? なんていうか、ちょっと変っていうか…ほんとに護衛なの?」
この数日で感じたイアンのラヴィに対しての印象としては、妙に冷たいというか、心を開いてくれる気配が一ミリもなかった。
イアンの歴代護衛はもっと気さくな人が多かっただけあって違和感を感じていた。
「まあでも、今度は長く仕えてくださると嬉しいですね」
「そうだねぇ」
実は、イアンの護衛となった者は三日と立たずやめていくのだ。イアンは自身を気さくな性格であると自負しているし、何か気に触ることをした覚えもない。身に覚えがあるとすれば、おやつを横取りしたり夕食のパセリを押し付けたりした事くらいだ。
「パレードで何か変な事とかあったらすぐ護衛に言ってくださいね。最近物騒なんですから」
「物騒? なにが?」
「ドイツで凶悪殺人犯が捕まったとか逃げ出したとか……? 詳しくは報道されてませんが何かと物騒なんですよ」
「ふーん」
殺人犯が逃げ出そうが捕まろうが、他国の人間であるイアンには関係ない。適当な返事で流す。
数回のノックの後、ラヴィが部屋に入ってきた。
「あ! ラヴィ、おはよー!」
元気に挨拶をしてソファから立ち上がる。
「おはようございます」
「遊ぶ?」
「エリックとパレードの件で打ち合わせがあって来たので」
「なーんだつまんないの」
半分不貞腐れたような態度でまたソファにもたれかかった。ここ数日、ラヴィは護衛の引き継ぎやパレードの打ち合わせでいそがしいようで、イアンの誘いも断ってばかりだった。
イアンは、ラヴィには愛想というものが全く無い。そう心の中でぼやく事が多々あった。
「ね〜、いつ遊んでくれるのさ」
「パレードが終わったらです」
邪魔してくるイアンをあしらいながらラヴィはエリックと打ち合わせを続ける。
「ほんと? じゃあ約束だよ」
「私、基本約束しないので」
「えー、なんで」
「はいはい、イアン様は外で遊んでてください! 話が全く進まないじゃないじゃないですか」
エリックが痺れを切らし、半ば強制的にイアンを部屋から退出させる。エリックとラヴィが二言話せばイアンが三言話しかける、という状況では致し方ないだろう。
「全く……」
エリックが再び席に着く。すると、どもりつつもラヴィに聞いてきた。
「あの、ラヴィさん。イアン様の事……どう思います?」
「どう、とは?」
「あの、違和感とか……いえ、特に感じていないのならいいのです」
エリックが質問の意味をぼかし、誤魔化しつつ本題に戻ろうと書類をとる。
「……なにかがおかしい時がある」
「え?」
「イアン王の平常時、驚いた時の脈拍は初日で確認している。興奮時の反応も確かめたが普通だ」
数日のうちに、ラヴィはイアンの脈拍を一定期間事に確認してはリズムを覚えていた。突然手を握って近づいたりオーブンを燃やしたのも確認のためだったのだろう。
「だが、ある話題を降った時だけ脈拍が速くなり瞳孔も開いている、なのに落ち着いた態度の時がある」
「それはいつですか?」
「父親についての話題を降った時だ」
エリックが少しだけ驚いたような顔を見せる。
「脈拍数は増加、瞳孔がものすごく開いて明らかに動揺しているのに表情や動作が特に変わらない」
「それはどういうことですか?」
「つまり、内心興奮、動揺しつつも全くそれを表に出していない。感情のコントロールが異様に上手いんだ」
ラヴィの考察や観察力に感服しつつも、エリックは目の前のラヴィ本人にも不信感を抱いていた。
ラヴィの発言から察するに、初日の家事も言動も、イアンの行動パターンや思考を見極めるため全て仕組んでいた事だったということだ。その上脈拍や瞳孔、表情を常に気にしているなんて明らかにおかしい。
「まあそれくらいだ。その他は特にない。ただの子供だな」
「子供って……貴女の主ですよ」
会話が終わり、その話題はすっかり頭の片隅へと姿を消していく。
その後、ラヴィとエリックの打ち合わせは続き、数日がたった。
イアン二世王位就任の当日、五月二十日の事である。
「イアン様! 今日はパレード当日ですよ、準備を……て、あれ?」
イアンを叩き起こそうと意気込んでいたエリックの目が点になる。
イアンはかなり朝が弱い方で、なかなか起こしても起きてくれず毎日苦労しているのだが、その日ばかりは既に起きて準備も済ませていた。
「おはよう」
「お、おはようございます」
ベッドに腰掛けたイアンと会話を交わす。パレードの開始時刻や余興等を確認され、イアンにしては珍しく真面目でそこにもエリックは驚いた。
「僕、始まるまでラヴィとお茶でもしてくるよ」
一通りスケジュールを確認したところで、部屋を出ていってしまった。
きっとイアンもパレード当日で緊張しているのだろう。エリックはそう自分を納得させる。
「お味はどう?」
「はあ、まあ美味しいんじゃないですか」
プチ・トリアノンにて、ラヴィはイアンに出された紅茶をちびちび飲みながら答える。この時代、紅茶はコーヒー等と比べてとても高価な品物として位置づけられており、味わったことの無い味に困惑していたのだ。
「なんか香りが強すぎてくらくらしてきますが」
「フレーバー入れてみたんだよ」
イアンもティーカップに口をつけ、そのまま微笑んだ。
「やっぱさ、君のこともっと教えて欲しいんだよね。歳とか出身とかさ」
「私のことですか。世間話をしている暇はないんですけど」
ちら、と時計を見やる。パレードまではまだまだ時間があるが、事前の準備も残っている。あと三十分ほどで宮殿に戻らなければ。
「まあいいじゃん」
「……前も申した通り、名はラヴィ。好きなお菓子はプリン、嫌いなものはプリン以外。ドイツ出身で前職は……ッ、」
ガチャン! と音をたててティーカップが割れる。ラヴィが持っていたティーカップを落としてしまったのだ。苦しそうに胸を押さえる。
「ぐ……ッツ、ゲホ、」
「致死量入れたんだけど、効くの遅かったね」
苦しみ鼻や口腔から血を垂れ流すラヴィに動じず、微笑みながらイアンが続ける。
「今日のパレードでは、僕のこと殺そうとする人がたくさんいるんだって。今日僕は死ぬんだ。でも、護衛がいたらそんな予定も狂っちゃうでしょ? だから悪いけどさ、ここでじっとしといてよ」
イアンが語っている合間もゼエゼエと荒く呼吸を繰り返し、ラヴィはテーブルに塞ぎ込む。
「なぜ、……そんな、ことを望む……ッ、」
息を吐くような、途切れ途切れの問いかけだった。
「僕は生きちゃいけない人間だからだよ」
霞む視界の中、イアンの表情が少しだけ悲しそうに見えた。
すると、外からエリックのイアンを探す声が聞こえてくる。パレードの準備を進めるために呼びに来たのだろう。
「もう行かないとね。ばいばい」
バタン、と扉が閉まった。ラヴィは床に這いつくばりながらも、何とか毒を吐き出そうと喉に指を突っ込む。
「う……ぐっ、おえっ」
解毒剤など持っていない。ここまでなのか。
途切れ掛けの意識の中で、ラヴィは考えていた。今のイアンは、昨日までとは全く別の人格だと。善良ぶっていただけなのかとも思ったが、初日からの数日間で全く気が付かなかったし、その素振りすら見せなかった。
そう、イアンは人格の乖離した多重人格者なのだと、確信していた。
紅茶にフレーバーを入れたのは毒の匂いをかき消すためだったのだ。こんな策は昨日までのイアンが考えていたとは考えにくい。ぐにゃりと歪む視界の中、気を失う。
「あれ? ラヴィさんは一緒じゃないんですか?」
「ああ、誘ったんだけど準備あるからって断られちゃってさ。一人で寛いでたよ」
平然とした顔で、迎えに来たエリックと宮殿に向かう。
式典用の衣装のボタンを一つ一つ止める。実に清々しい気分だ。怖くはない。準備を済ませ、部屋を出て廊下の肖像画に手を添えた。
今はもう会えない、懐かしい母の顔。
やがて、パレードが始まる。楽器によるけたたましい演奏と人々の歓声、痛いほど刺さる視線と揺れる馬車でイアンは気分が悪くなりそうだ。
「はぁ、」
「大丈夫ですか? イアン様」
馬車の隣に乗った、護衛代わりの兵士が心配そうに顔をのぞき込む。ソバカスが特徴的な彼は、鍛え上げられた身体が自慢らしく馬車に乗る前からずっとイアンにアピールしていた。
時間になっても護衛のラヴィが来ないという事で、急遽彼がイアンの護衛につくことになったのだ。
「ううん、ちょっと人酔いしたただけ」
適当に愛想良く返す。わざわざぽんこつのラヴィに毒を盛る必要もなかったかもしれない。なんなら今コイツに盛った方が確実かも。そんな事を考える。
「にしても、ほんとになんなんでしょうか、イアン様の護衛は! 時間になっても来ないなんて」
「はは、寝ちゃったのかな」
「聞けば、あの護衛ヴァロア家ですらないらしいですよ」
ヴァロア家とは、王族の護衛を担当する護衛一族であり、千年近く王族に忠誠を誓っている一族だ。
王族の護衛はヴァロア家しか出来ないものとしてきたし、硬い決まりだったのに何故……と思ったが、きっとアンドレーが嫌がらせで一般人のラヴィをよこしたのだろう。イアンはそういう考えに落ち着いた。
「わざわざ殺さなくってもよかったな」
「え?」
「なんでもないよ」
「……そうですか」
兵士が俯く。次の瞬間、首元を捕まえイアンを押し倒した。
「っ、」
「……ごめんなさい、イアン様、命令なんです、」
震える手元にはナイフが握られていた。事が起きても、行進している周りの兵士達は見て見ぬふりをする。
イアンを邪魔に思う貴族にでも買収されたかのような素振りだ。嗚呼、自分はいつもこうだ。妬まれ続け周りには誰も仲間がいない。イアンは自身に一直線に振り下ろされる剣に目をつぶった。
(やっぱり、ちょっと怖いかも)
鋭い刃が肉を切り裂く音の後、ポタ、ポタと赤い水滴が垂れる。
イアンの顔に。
「……っ、ぐ」
顔を上げると、首を掻っ切られた兵士が苦しそうにもがいている。その後ろにはラヴィがいた。
「……大丈夫ですか? イアン王」
吐いた血も拭わず、ただ冷たい目でイアンを見下ろしている。兵士の首を切ったナイフをホルダーに収めた。
進行していた兵士たちが足を止め、周囲がざわつく。すると、パレードを見ていた民間人の中から、黒いコートを着た集団が銃を構えたまま飛び出してきた。バン! と次々に銃声が放たれる。
「チッ、伏せろ!」
起き上がりかけたイアンを馬車の奥に伏せさせた。
銃声に驚いた輓獣がけたたましく鳴き暴れだす。当然、馬車もガタガタと激しく揺れる。
「ヒヒーン!」
バン!
ラヴィは咄嗟に、馬と馬車が繋がれている金具を銃で撃って破壊した。
馬が逃げたのはいいが、その弾みで馬車のバランスが崩れる。ダン!と大きな音を立てて馬車が横に倒れ、イアンとラヴィが投げ出された。
「……っ、」
イアンは頭を強く打ち、力なく倒れたままになる。
コートの集団は次々と兵士を撃ち殺しラヴィとイアンへ迫ってくる。
ラヴィはガシャン! とホルダーから小型のダガーナイフを取り出し投げつける。ナイフは全てコートの集団の胸に命中し、バタバタと倒れていった。
イアンは頭から血を流したままゆっくり起き上がる。
「……、クソっ、毒を盛ったはずなのに」
そう呟く間にも、ラヴィはコートの集団の一人一人を戦闘不能にしていった。首を掻っ切る、ナイフを投げ急所に当てる、銃を奪い取ってその銃で撃ち殺す。鮮やかに次々と命を奪っていく。並大抵の護衛に出来る技ではなかった。
一方その頃、逃げ惑う民衆の中、人の波に揉まれながらもエリックがアンドレーを問い詰めていた。
「アンドレーさん! あの人なんなんですか!? あんな護衛見たことも――」
「素晴らしいだろう? 彼女はドイツ一……いや、ヨーロッパ一の殺人鬼さ」
エリックがはっ、と思い出したような顔をする。
「殺人鬼!? ドイツって……まさかあの新聞に載ってた殺人鬼ですか!?」
「彼女は五歳から殺人の極意を叩き込まれ、十三年間で二千人近くは殺しているよ。そこら辺の護衛とは比にならない強さだ」
「そんな……、ああもうダメです私を気絶させてください」
エリックはそんな恐ろしい人物と過ごし話し、ましてやイアンに四六時中付けさせていたと考えると、もう恐怖でどうにかなりそうだった。
そんな二人の会話は露知らず、ラヴィはどんどん敵を蹂躙していく。
「おい! 気をつけろ! 兵士より女が手強いぞ!」
イアンの頭の中は、民衆の叫び声、銃声、ナイフの擦れる音、敵の叫び声、悲鳴、親とはぐれてしまった子供の泣き声……全てが凝縮されもうぐちゃぐちゃだった。
ガチャ、と手になにか当たる。見れば、敵の一人が落として弾かれ、イアンのところまで滑り込んできた小型の銃だった。
「そうだ、あの護衛を殺せば……」
ぎゅ、と拳銃を握り、ラヴィへと構える。途端、頭の中で声がした。
(撃つな!)
「!?」
自分の声だった。拳銃を握る手が震える。
(ラヴィは友達だ! 撃っちゃダメだ!)
「っ、うるさいうるさいうるさい! 黙れ!」
はぁっ、はぁっ、と息を切らしながら頭を抑える。頭を打った衝撃で人格が混濁してしまったのだ。
イアンが困惑している中、ラヴィは息切れしながらも応戦している。と、後ろからの敵に気付かず羽交い締めにされてしまった。
「ぐっ、……!」
「散々やりやがってこのアマ!」
ラヴィのこめかみに銃口が突きつけられる。
ドン! と銃声が一発だけ、鳴った。イアンの握る銃の銃口から煙が立ち上がる。イアンの撃った弾はラヴィを羽交い締めにしている男に命中した。
クラクラと意識が遠のく。
暗い、寒い、ここはどこだろうか。
「貴方達ウンジェーヌは生まれてきてはいけない!」
「黙れ!」
誰かが言い合っている声が聞こえる。聞き覚えのある声だ。
「嗚呼……神よお許しください、私はとんでもないバケモノを産んでしまった……」
「いい加減にするんだ!」
「イアンは、イアンは今すぐにでも殺すべきよ! 生きていてはいけない!」
ああ、思い出した。両親が喧嘩しているんだ。忘れてしまっていた、遠い記憶だ。常日頃から死にたいと思っていた。なぜ思っていたのか忘れてしまっていた。母に、言われたんだった。生きてはいけないと。
イアンの目から、一筋涙がこぼれた。
「……イアン王様?」
目を開けると、見慣れた天井。そして心配そうに覗き込むアンの顔があった。
「大丈夫ですか? 泣いてるんですか? どこか痛いんですか?」
「……俺、泣いてた?」
「ちょっとだけ……」
ベッドから起き上がり、ズキリと痛む頭を抑える。
「イタタ……」
「ああ、ゆっくりしててください。頭を強く打ったみたいですから」
「そうなんだ……なんかうっすらとしか思い出せなくて……。ラヴィが助けてくれた気がするんだけど」
「ご名答」
「ワッ!」
イアンは、横に立っていた気配を消していたラヴィに気づき驚く。
「け、気配消さないでよ……」
「あら、すみません」
ラヴィは悪びれる様子もなくドカ! とベッドに腰掛ける。
「無事起きたみたいですしエリックさんにもそう伝えときますね」
そう言ってアンは部屋を後にした。
「……毒、効かなかったの?」
「効きましたよ」
「じゃあなんで助けに来たの」
ジトリ、とイアンはラヴィを睨みつける。
「私には目的があるんです。そしてその目的の絶対条件が貴方を死なせない事。決して貴方への忠誠で助けた訳でないという事をお忘れなく」
「目的? なんの話だよ」
「それは秘密です」
シン……と場が静まり返る。気まずい沈黙だった。
「……僕の計画を邪魔した罪は重いぞ。次は殺してやるからな」
「やれるものなら、どうぞ」
ニコ、とラヴィはにこやかに笑った。貼り付けたような笑顔が余計癪に障る。主に命を狙われる護衛と、目的のために利用される主人。二人の奇妙な関係が、始まった。
ひゅう、と春風の吹く中、パレードの後でぐちゃぐちゃになった街を歩く。真っ黒な服と真っ黒な日傘をさす女。
「ラヴィったら、こんなところにいたのね。面白いものが見れたわ。フフフ」
そう零して踵を返した。これから待ち受けているのは、参謀と因縁、失念の物語。