三年ぶりの再会②
「へ?新しい室長?」
実験棟の用務員から研究室の鍵を受け取ったクラーラは、きょとんとした。コテンと首をかしげたと同時に、腰まであるカプチーノ色の髪が緩く胸に流れる。
「ああ、今日から赴任されるそうで、もう室長部屋にいらっしゃるよ。さっき会ったし」
「嘘!?」
「ははっ、嘘じゃないよ。それに5日前に、掲示板に人事異動の連絡票が張り出されていたじゃないか。……ああ、その顔は見てないんだね。いいさ、そんなの。普段はろくでもない通知しか張り出されないしね。経費削減、経費削減、経費削減、そればっかりだ───っと、話題が逸れてしまったが、驚くなかれ。その室長さん、儂にもちゃんと挨拶してくれたよ。若くてなかなかのイケメンさんだった。ま、つまりは良い人だったよ……ひとまずは」
「そっか。ひとまずは良い人なんだ」
ふむ、と頷いたクラーラに髭もじゃの用務員ことカールは、パチリと茶目っ気のあるウィンクを返した。
「そういうわけだから、就業時間前だけれど挨拶はしといた方がいいよ。何事も最初が肝心だからね」
「はい!そうします」
カールの親切な忠告にクラーラは素直にうなずき、ぺこりと頭を下げた。
***
王都から馬車で一晩駆けても辿り着けない辺境にあるマノア植物研究所は、かつてサナトリウムだった建物を改築しており、敷地内の殆どが白を基調としている。
清潔感溢れる朝日を浴びて輝くような建物がクラーラはとても好きだ。だが、老朽化のせいでよく見れば至るところにひび割れや傷が目立つ。
しかし資金面ではいつも火の車のせいで修繕費は皆無の状態が何年も続いている。特に実験棟は最も古く、補修もままならない状態なので廊下を歩く度にギシギシと音が鳴る。
ここで働き始めた当初、クラーラはまるで悲鳴を上げているかのような廊下に、床が抜けるんじゃないかと、おっかなびっくりしていた。
けれど、木造建築とは意外に丈夫だということを身をもって知った今は、遠慮なく音を響かせることができる。
それに床が抜けたところでここは1階だ。死ぬことは無い。
加えてマノア植物研究所は少数精鋭と言えば聞こえは良いが、万年人手不足状態だから修理するのはこの自分。責任の取りようはわかっているので、やっぱり問題無い。
という理由からクラーラはパタパタと廊下を走る。
小鹿のようなしなやかな動きにあわせて膝下のワンピースの裾がも靡き、しなやかなで白い足を晒す。
流れるように移り変わる景色のなか、頭の中では新しい室長のことでいっぱいだ。
備品を発注する時は嫌な顔をしないで、ちゃんと毎日定刻に出勤してくれて、つまらないことでぶつぶつ文句を言わない人であることを願いたい。加えて、動物好きだとかなり嬉しい。
社会人として当然のことを切実に求める自分に苦笑してしまうが、歴代の室長は人には言えない諸事情を抱えてここに来ただけあって、お世辞にも良い上司とは言えなかったのだ。それに判を押したように、全員動物が苦手だった。
しかし今回の室長は、生き字引のように用務員をしているカールが良いと評価したのだ。しかもイケメンだと。
19歳のクラーラは、こんな辺鄙なところにいても乙女心は捨ててはいない。一刻も早く、そのご尊顔を賜りたい。
とはいえ、何事も最初が肝心。
だからこのままウキウキと室長部屋に飛び込みたい気持ちを押さえて、一先ず研究員たちが過ごす共同研究室兼談話室へと足を向けた。
扉を開け、まずは共同研究室の大きな出窓のカーテンを開ける。朝日が一気に差し込み、クラーラはその眩しさに目を細めた。
かつて治療室として使われていたここは古いながらも、研究員4人全員が資料を広げても問題無い大きさのテーブルが置けるほどかなり広い。
ただ、お世辞にも整理整頓ができているとは言い難い。
一方の壁にある収納棚はビーカーや試験管といった実験道具の他に試作品や本が乱雑に並べられているし、反対側の壁には茶器を置く為のワゴンや、何かの図面らしい丸められた紙が空き箱にだだくさに差し込まれている。
助手として働くクラーラはとても勤勉だ。しかし研究員が揃いも揃って片付けができない連中となると、どうしたって物で溢れかえった部屋になってしまう。
──新しい室長は、これを見たらぎょっとするかなぁ……するだろうなぁ……後でちょこっと片付けしておこう。
そんなことを考えながら、クラーラはポールハンガーから自分の白衣を抜き取り、袖を通す。身だしなみは大切だから、髪もきちんと一つにまとめる。
最後の仕上げにガラス窓を鏡代わりにして白衣の皺を手で叩いていたら、開け放たれたままの扉から白いモフモフとした生き物が飛び込んで来た。マスコット的な存在のウサギのナンテンだ。
突然変異したナンテンは小型犬くらいの大きさがあり、おやつをくれるクラーラにとても懐いている。
そして今もおやつを強請るようにクラーラの膝を鼻先をツンツンする。無表情ではあるが、その仕草はぎゅーっとしたくなるくらい愛らしい。
「うんうん、ちょっと待ってね。今、干しリンゴを……あ、違う違うっ」
ついつい思考が脱線しかけたが、首を横に振って元に戻す。何を置いても、新しい室長様に挨拶をしなくては。
室長部屋と共同研究室は、薄い扉一枚で隔てられている。普段ならそこから出入りをするけれど、やっぱり何事も最初が肝心。心証を悪くしない為にも一度廊下を出て、正式な手順で入室すべきだろう。
「ナンテン、ごめんね。ちょっと待っててね」
無表情ながらもガッカリ感を全開に出すナンテンに声をかけて、クラーラは廊下へ出た。
廊下を出て4歩で到着した室長部屋の扉をノックすれば、すぐに「どうぞ」と若い男の声が聞こえた。クラーラはそっと扉を開けて入室すると深く頭を下げる。
「初めまして、現在研究員の見習いをしていますクラーラ・セランネと申します。雑用や人手が必要な時は、どうぞ私にお申し付けください。それと他の研究員の皆さんは───」
こちらに背を向けて窓の景色を見ている真新しい白衣に身を包んだ室長に、顔を上げながら挨拶の文言を紡いでいたクラーラだが、何かの予感を感じて口をつぐんだ。
それが合図になったかのように室長は、ゆっくりと振り返った。
「久しぶりだね、ララ。相変わらず可愛いらしい声だ。一番最初にこの扉を開けるのが君であるよう早朝からここで待機していて良かった」
ふわりと、今日のような春の日差しのような笑みを浮かべて、声の主はそう言った。
滑らかなテノールが耳に響く。3年前から何一つ変わらない穏やかで、手の甲で撫でられているかのような暖かみのある声。
ゆっくりとこちらに向かってくる青年に、クラーラは息を呑む。
「……ヴァル」
窓から差し込む陽の光に反射して、プラチナブロンドが眩しいほどに輝いている。清潔感のあるミントグリーンの瞳は、尊いものを見るかのように細められている。
この笑みを、声を、自分だけに注がれていた日々があった。そして、それを自分は心から嬉しいと感じていた。
───でも……それは、もう過去のことだった。