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別れを告げたはずの婚約者と、二度目の恋が始まるその時は  作者: 当麻月菜
第一章 上司と部下になった貴方と私
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 リーチェのスカートの中身が見えてしまう際どい位置に立っているヴァルラムは、器用に体の角度をずらしてから口を開いた。


「実はこれを買いに行く前に、倉庫に寄ったんですが木綿のロールはまだ幾分か残っていました。そこで質問なんですが」

「なんですって!?」


 ヴァルラムが言い終えぬうちに青筋立てたリーチェは、一旦足を下ろすとローガの胸倉を掴んだ。


「ちょっと!どういうことよ!!」

「い、いやだってさ。ここに置いてある木綿のロールだけなんか妙に香りが強くなるんだよ。それに何かわかんねぇけど香りの持続時間も長いしさ──ってか、室長なぜこのタイミングでそれを言う!?俺を殺す気なのか!?」


 がくがくと揺さぶられながら、ローガは恨めし気にヴァルラムを睨み付ける。


 しかし、そんな戯言はリーチェの耳に届かない。


「おだまりなさいっ!そんなわけ」

「それが、あるんです」

「え?」


 ヴァルラムが穏やかな口調で遮った途端、リーチェは鳩が豆鉄砲を食ったように目を丸くした。


「まず確認ですが、草木染めをする前に下処理を行うと聞いたことがありますが、リーチェ殿はあの木綿のロールに何か処理を加えた記憶はありますか?」

「ええ。といっても豆乳で洗っただけだけど……」

「それですね」


 訝しそうな顔をしてリーチェが固まった隙に、ヴァルラムはローガを自由の身にする。


 それから二人に向け語り出す。まるで教授が講演するように。


「木綿は植物繊維だから染めにくいと聞きます。ですが豆乳に浸すと一時的ではありますがタンパク質が付着して、絹やウールといった動物繊維と同じ状態になるはず……ここまでは、合っていますか?リーチェ殿」

「ええ、そうよ」


 こくこくと何度も頷くリーチェに、ヴァルラムは一つ頷くと再び語り出した。


「これはあくまで仮設ですが、豆乳で洗ったことで繊維の目が荒くなり、また毛羽立ちやすい動物繊維に変わったせいで香り成分が通常の木綿より多く付着し、持続時間も長くなったと思われます」

 

 流れるような口調で持論を展開したヴァルラムに、リーチェとローガはあんぐりと口を開けた。


 それからしばしの沈黙の後、二人は互いの顔を見合わせた。


「そうかも」

「そうしか考えられない」


 同時に口を開いたリーチェとローガの間には、すでに険悪な空気は無かった。


「あのさぁ」

「あの、ね」


 ローガが自分の乱れた胸元を整えたのが合図となって、二人は口を開く。しかし息がピッタリ合いすぎたせいで、また沈黙が生まれる。


「……悪かったな」


 沈黙を破ったのはローガだった。すぐにリーチェは首を横に振る。


「ううん、私もカッとなり過ぎた。ごめん。怪我とかしてない?」

「ああ、なんとか。ただ、ビーカーを投げるのは止めろ。割れても赤字経費のここはすぐには買えないんだから」

「うん、そうだっね。……次からは割れ物は止めてハサミを使うことにするわ」


 クスッと笑いながら物騒なことを言ったリーチェに、ローガはぎょっとした。


 でもすぐに腹を抱えて笑い合う。仲直りをした証だった。


 ──すごいなぁ。あっという間に仲直りしちゃった。


 いつの間にか壁側に移動したクラーラは、まるで魔法のようなヴァルラムの話術に目を丸くする。大抵のことでは動じないナタリーも、これにはティーカップを持ったまま「おぉっ」と声を出す。


 そこで、ヴァルラムとばっちり目が合った。なんと言葉をかけて良いのかわからず、口ごもってしまう。


 その様が面白かったのか、ヴァルラムがふっと解れたように笑った。そして、そのままリーチェとローガを交互に見る。


「ところでこれは提案なんですが、2ケ月前から保留になっている女性用の寝間着の件ですが、香りを維持する方法が見つかったし、香木の欠片をボタンにすれば、商品化できるのではないかと思うのです」

「あ!」

「そうか!」 

 

 さらりと言ったヴァルラムの提案に、二人は同時に声を上げた。


 実はリーチェとローガはそこそこ大きい商社から”長期間香りが維持するパステル色の寝間着”の依頼を受け、ずっと共同開発している。だがこれ、簡単そうでなかなか難しく暗礁に乗り上げていた。


 それが、ヴァルラムの助言によって実現可能になるかもしれない。


 気付けば二人は、「さっそく取り掛かるかっ」とハイタッチをする。とはいえリーチェが依頼されていた染物を片付けるのが先決だ。


「じゃ、まずはリーチェの急ぎの案件、片付けるか。俺も豆乳の下処理を覚えたいし、手伝うよ。いや、手伝わせてくれ」

「オッケー。こき使ってあげるわ」

「……お手柔らかに頼む」

「それはあんたの頑張り次第よ」


 こんな感じで、あれよあれよいう間に今後の段取りを決めた二人は、居ずまいを正してヴァルラムと向き合った。


「ありがとうな室長っ。恩に着る!よし、寝間着のサンプルができたら俺の秘蔵の酒を出してやっからな」

「私もお礼を言わせて。本当にありがとう!今度、タイを染めてあげるからっ。リクエストがあったら教えてねっ」


 満面の笑みで礼を言うリーチェとローガに、ヴァルラムは「お役に立て良かったです」と室長然して、個別の研究室に向かう二人を見送った。


 香料担当のナタリーも、豆乳の下処理が気になるのだろう。「私も手伝うー」と言いながらリーチェたちを追うように部屋を出ていってしまった。


 パタンと扉が閉まり、共同研究室にはヴァルラムとクラーラの二人っきりになる。


「あの……えっと……ありがとうございます。室長」


 衣擦れの音よりもっと小さい声でクラーラがそう言えば、ヴァルラムは軽く眉を上げた。


「礼には及ばない。……と、言いたいところだけれど」

「え?」


 中途半端なところで言葉を止めたヴァルラムを、クラーラはじっと見つめる。


「結構、頑張った。君に良いところを見せたかったんだ」


 そう言いながら照れ臭そうに笑うヴァルラムの笑顔に、胸がぎゅっと締め付けられた。


 震える唇が、うっかり変な言葉を紡がないように下唇を噛む。


 学生時代、クラーラはヴァルラムと藤棚で出会うまでは、彼を伝説の存在程度にしか思ってなかった。


 学年も学科も違うため、接点は皆無。また欠点が無い人間など胡散臭いとしか思えなかったし、そもそも近づきたいと願ったところで水に浮かぶ月のような存在に、どうやって手を伸ばして良いのかわからなかった。


 ──そんな彼が、私なんかのために頑張ってくれた。


 室長部屋の光景が不意に蘇る。


 香木や香料。それから染料について書かれた沢山の専門書。研究員が書いた論文の写しの山。商品化された際に添付する歴代の仕様書。


 鉱石学しか専攻していないはずの彼が、研究員に向け的確なアドバイスをすることができたのは、室長としての業務以外にも惜しむこと無く研究員の為に───自分の為に、時間を割いてくれていたということ。


 じん、と胸が熱くなる。


 これは恋慕の情とは違う。純粋な敬意の念だ。


「うん。本当にありがとう」


 自分でもびっくりするくらい自然に紡ぐことができたお礼の言葉に、ヴァルラムは「どういたしまして」と茶目っ気のある笑みを返してくれた。

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