8
時は少し遡る。
午後の日差しが眩しい室長室の窓辺で、ヴァルラムは大変不機嫌な顔で外の景色を見下ろしていた。悶々とした気持ちと、無数の針で胸を刺される痛みを堪えながら。
研究棟の外では、かつて婚約破棄を告げる手紙を自分に手渡した男と、いつもより着飾ったクラーラが仲良く談笑している。
二人が醸し出す慣れ親しんだ空気が、否が応でも窓ガラス越しに伝わってきて、ヴァルラムは目を逸らしたいのに逸らせない。
──くそっ。学生時代、僕にだってこれほど甘ったれた顔なんてしなかったじゃないか。
憤慨しながら腕を組む自分のことなんて、クラーラは間違いなく気付いていないだろう。
切に願っていたカプチーノ色の髪と鈴の音のような声は、手を伸ばせば届く距離にいるけれど、もう彼女は自分と同じ想いは抱いていない。
「……なぁ、ちょっとはこっちを見てくれよ」
ヴァルラムは窓ガラスに手を当て、ポツリと呟く。
再会した初日、多少のぎこちなさはあるとは覚悟していたが、あそこまでクラーラに拒まれるとはヴァルラムは夢にも思っていなかった。
引きちぎられるように終わってしまった時間を元に戻したいと願ってくれていると信じていた。
けれどクラーラはヴァルラムを見た途端に怯え、あろうことか逃げようとしたのだ。
気持ちを踏みにじられたことに理性が飛んで、彼女に強引な真似をしたことは後悔している。けれど時間を巻き戻したとしても、きっと同じことをしてしまうだろう。
床に組み敷いたクラーラの身体から漂う甘い香りを思い出し、ヴァルラムはしてはいけない妄想をしてしまう。
あのまま彼女の涙を無視して既成事実を作って王都へと連れ戻せば、こんな辛い思いなんてしなくてすんだのに、と。
「……はっ」
ヴァルラムはここで己の思考に嫌悪し、自嘲した。そんなことできるわけがない。
なぜなら「婚約者であることは黙ってて」という要求は、、クラーラが自分にしてくれた初めての願い事なのだから。
どんなに困った時ですら「助けて」と言ってくれなかった彼女からの願いを、無下になんてできるわけがない。
しかし願いを聞き入れたとて、取り返しのつかないことをしてしまったのは事実だ。
上司と部下という関係になってから、クラーラはいつも緊張している。また何かされるのだろうかという疑いの眼差しを自分に向ける。学生時代とは別人のように。
そうさせてしまったのは間違いなく自分であり、彼女を責めるつもりはないが、遣る瀬無い気持ちを散らす方法が見つからない。
いっそ全てを諦めて距離を取れば良いのだろうか。求めず、与えず。ただの上司として。
少なくともそうすれば、彼女はこれ以上自分に向けて警戒心を持つことはしないだろう。
「……はっ」
できもしないことを考えてしまった己の愚かさに、ヴァルラムは再び笑った。今にも泣きそうに声を震わせて。
もうずっと自分ばかりが、クラーラを追いかけている。これを虚しいと言わずに何と言おう。でも、やめられない。
そんな自分がとても滑稽だとヴァルラムが強く目を瞑った瞬間、研究員の一人が部屋に入り込んで来た。
「すみませーん。失礼しますわよー」
「なんですか?」
ノックも無しに入室したリーチェに、ヴァルラムはつい非難の目を向けてしまった。
すぐさまリーチェは、片方の口の端を持ち上げた。
「あら、お邪魔でしたか?でも、急ぎの申請書をお願いしたかったもので。それに何回もノックしましたのよ?」
「……それは失礼した。すぐに目を通させてもらいます」
威圧的な笑みに圧倒されたヴァルラムは、即座に白旗をあげた。
「お願いしますわね、室長殿」
リーチェはそう言ってヴァルラムに書類を手渡したついでに、ひょいっと窓を覗き込む。
「ふふっ、クラーラちゃん、楽しそうですわね」
「……そうだろうか」
「あら?やきもちですか?」
さらりと図星を指され、不覚にもヴァルラムの肩がピクリと揺れた。
「……部下に対して、そのような邪な感情は……」
──持っている。ものすごく持っている。許されるなら、手刀で握り合った二人の手を切断したい。
後半は心の中で言った。
だが、無表情を決め込むには、まだ未熟だった。
「ご安心ください、あのジェラルドっていう男性はクラーラちゃんの保護者ですわ。この研究所で働くには、身元保証人は必須ですから。ま、ちょっとばかし彼は心配症で、定期的にクラーラちゃんの様子を見に来てるだけですわ」
「……」
ヴァルラムは何も言わなかった。いや、言えなかった。
婚約者であることを秘密にすると約束した以上、ほっとしたなど口が裂けても言えないし、上司という立ち位置でも正しい返答が見つからなかったから。
本心を隠す難しさにヴァルラムは、無意識に前髪をぎゅっと握りしめる。リーチェがすぐ傍にいることをすっかり忘れて。
「ふふっ……おかしいですよね、クラーラちゃんとっても可愛いのに恋人がいないなんて」
「……っ」
「ま、掃き溜め研究所では良い人が見つからないのかもしれませんね。でも、これはあくまで予想でしかないですけど」
もったいぶって言葉を止めたリーチェに、ヴァルラムは続きを急かすようにじっと見つめる。
無様にもこくりと喉が鳴る。余裕など何処にもない。
「学生時代の恋をまだ引きずっているから、誰かと恋仲になれないようですわ」
「……っ!!」
声を出さなかった自分を褒めてやりたかった。
だが今回も、無表情を決め込むことはできなかった。ただ、自分が今、どんな顔をしているのか想像できない。
少なくとも上司としての体裁は整っていないのはわかる。だから、ヴァルラムは咄嗟に手の甲で口元を隠した。
「申請書は……すぐに目を通して、共同研究室まで届けますので……」
「ええ、そうして下さいませ」
遠回しに「どうか今は一人にしてくれ」と訴えれば、リーチェはにんまりと笑う。
「では、失礼しますわ。ああ、室長。お暇をしているなら、そろそろクラーラちゃんを呼び戻しに行ってきていただけませんか?」
「ああ、わかった」
駆けだして行くヴァルラムの頭には、急ぎの申請書のことはすっかり消えていた。