テクノロジーの意味
前回書いた文章と矛盾するようだが、自分は理系の分野の捉え方ができていなかった、と急に気づいた。
どうしてそう思ったかと言えば、伊藤計劃を読み返していたからだ。伊藤計劃の問題意識については、私は(よくわかる)と思っている。それについては以前に書いているので、興味のある人は、アマゾンの伊藤計劃論とか、なろうの文章とかを読んでいただきたい。
私と伊藤計劃は、辿ってきた教養の種類が違っている。伊藤計劃は、SFや映画、ゲームなどがメインで、哲学や歴史も詳しいが、基本的にはSF畑の人と言っていいだろう。私は古典文学や古典哲学を基礎に、最近のサブカルにもある程度触れている、という感じなので、ジャンルは違う。
例えば、伊藤計劃が信奉する存在として、メタルギアの作者の小島秀夫がいる。私もメタルギアシリーズは途中までプレイしたのだが、3のラストだったか、甘ったるく通俗的なストーリーの作り方に耐えられず、途中で放り投げた過去がある。評価的には、メタルギア1→良かった メタルギア2→まあ良かった メタルギア3→ごめん、無理 という感じだ。
小島秀夫という人はエンタメ畑としては優秀な人だと思うが、彼が政治的問題をストーリーに持ち込んで、何か高級そうな事をやりたがっているのが、(間違っているなー)と私は感じていた。これはエンタメ系の人にはよくある話で、大衆に受けて、金も人気もできた人が今度は、高級な哲学とか文学とか、何かそういう事をやりたがるという指向だ。松本人志の映画は、そのいい例だ。しかし、これをまともに成功させた人は、私は北野武ぐらいしか知らない。
そんなわけで私の小島秀夫評価は低かった。しかし、私のリスペクトしている伊藤計劃は小島秀夫を高く評価している。この矛盾はどう解かれるのだろうか? 今まで、私はこの問題をまともに取り扱っていなかった。
この問題は未だにはっきり解いていないのだが、自分の中でぼんやり見えてきた事がある。それについて今回は記そうと思う。
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私は理系の事柄に関してはこれまでそれほど踏み込んでこなかった。ハイゼンベルクの「部分と全体」なんかは読んでいたが、基本的には古典ベースというか、古典的な考え方をベースにしようとしていた。
こうしたやり方が間違っているとは思わない。ただ、自分がテクノロジーの意味をわかっていなかったという事に気づいた。
結論から言えば、テクノロジーの進捗によって、世界が改変されるというのは、『この世界が幻想になる』という事を意味している。世界そのものが幻想・夢の如きものになるのであり、テクノロジーはそれに資するものだ。
伊藤計劃が著作で言っているのもそれだったんだな、と私は思った。これには説明が必要だろう。
私は、現代のテクノロジーを「神からその力を奪った」と評してきた。人間はもともと、宗教を持っていた。宗教の基礎は、変転する自然の背後に、何らかの存在を感知する事にある。自然は動いているし、生きている。生物ではない海も雲も空も常に変化しており、一定のパターンに拘束されない。それらは自由に変化し、動き続ける。
自然の背後に存在するものを「一者」と考えると一神教になり、これを複数のものと考えると、日本的な「八百万の神」となる。私は大まかにそう分類している。いずれにしろ、自然の背後に何らかの存在を想定するというのが宗教の基礎となっている。
この考え方は、科学において重要となる因果関係の考え方の前身と言える。何故かと言えば「神」→「自然現象」のような考え方が、単に現象が存在するだけではなく、その背後に何らかの動因が存在するという考えを呼び起こすからだ。
因果関係を突き止めていくと、背後に存在するのは神的な存在ではなく、純粋に物理的な現象であるのがわかってくる。雷光は、雷の神様が起こすわけではなく、粒子が引き起こす運動だとわかってくる。そうすると、人間が畏怖する神的なものは、外部にはなくなってくる。人間は、神を恐れていたが、神の存在を解明し、その力を我が物とする。こうして、人間は自然に怯える存在から、自然を改変する存在、自然を生み出す存在になっていく。だから私は「神からその力を奪った」と評したわけだ。
私はそんな風に整理して考えていた。ただ、ここからもう一歩先へ行けるとは考えてみなかった。
人間が手にした力は甚大なものだ。人はそれを意識しないが、その強さは、我々を無意識的に恐させている。この社会の進展、くるくると入れ替わっていく社会の中にいて、そこから剥がれ落ちるのを我々は怯えている。我々が怯える対象は、自然から社会に変わった。
これは、我々が跪拝する先が、神から社会へ変わったとも言える。神様が我々を救ってくれるのではなく、社会が我々を救ってくれる。これが近ー現代人の悲願である。多くの論考が、社会を良い方向に変えるべきだという結論を持っている事を思い起こそう。我々は、社会という概念を「最後の言葉」としている。良い社会が来れば、我々は救われると我々は思いたいのだ。
「社会」とは一体なんだろう? それは「我々」の願望を叶えてくれる存在である。叶えてくれるのは主に、テクノロジーの力であり、それが自然の改変を許し、更に最近では人間の内部にまで手を伸ばしている。人間の内面も、社会によって理想化した状態にまで持っていく事ができれば、もはや「意識」などなくていいのではないか? そうなってしまうのではないか? それが伊藤計劃の問いだった。彼は小説という表現でこうした問いを提起した。
私は、伊藤計劃とはまた違う視点を持ちたいと思っている。私は突き詰めていけば、現代の人間の意識そのもの(不要な改行が存在しています)
をバーチャルなものだとみなした方がいいのではないか、と考えている。これは私自身の意識も含まれている。
もちろん、この場合の「バーチャル」とは果たしてどういう意味かと問われるだろう。私はSF的な考えではなく、仏教的なイメージをしているのだが、この文章でそれが伝わるかはわからない。
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周囲の人間を見渡すと、彼らは宙に浮いたような生き方をしている。だが、自分が宙に浮いているとは考えてもみない。だから、彼らは安定して見える。
アイフォンが欲しい、という欲望が存在する。この欲望は一般的で、私のまわりはほとんどがアイフォンを所持している。しかしアイフォンのスペックを使いこなしている人は見た事がない。彼らは(何となくみんながアイフォンだから自分もアイフォン)だという欲望によって、それを持っている。
また、アイフォンという存在がなければ、そもそもアイフォンが欲しいという欲望も抱かないだろう。今の社会において、企業は商品を作り出すよりも、我々の欲望を作り上げていると言っていいだろう。その為には広告というものが重要になってくる。また、有名人がそれを使っている、といったメッセージが重要だ。
こうした無数のメッセージの中で、自分のものではない欲望を自分のものだと感じながら生きている人間というのは、その存在そのものがほとんどバーチャルと言っていいのではないか? この世界は、様々なものが作り変えられる。その際に、我々の内面を改造してしまうのが、一番手っ取り早い。
我々が望む事は、社会の力によって、たやすく実現する。あるいはそれが実現するようなビジョンを示される。そうして世界を改変する力が進捗する一方で、同じ力は、我々の内面を、社会が実現可能な方向に誘導しようとする。例えば、アイドルになる夢を持つ事は、この社会にとってプラスである。
孤独な芸術家というものは存在するが、孤独なアイドルというものは存在しない。孤独な芸術家になりたい、という欲望はこの社会に必要ない。それが必要だとすれば、それは「孤独な芸術家」というアイコンとして彼を利用する場合である。この場合、もちろん、彼は孤独ではない。孤独である事はこの世界では禁じられていると言った方がいいかもしれない。
最近の芥川賞小説は、我々がよく知っている日常生活をひとひねり加えて描いた、という作品が多い。私はその大半をつまらないと感じるのだが、どうしてつまらないかと言えば、上記で言ったような事柄が関係しているのだと思う。つまり、彼らの生活そのものがもはやフィクションと化しているのに、その事を登場人物も作者も全然意識していないからだ。
人間の生活を描くというのは文学の基本形と言っていいかもしれない。物語性がどうのと言う人が多いが、彼らは大抵、エンタメしか知らないのでそう言っている場合が多いので彼らに関しては割愛する。谷崎潤一郎「細雪」などは生活を微細に描いた作品で、物語性は希薄である。
それでは、生活をきちんと描いた作品が何故つまらないのか? そういう作品で優れたもの、面白いものだって存在する。…だが、それは人間が現に生きており、生きている実感を描いている限りの話ではないか、と私は思う。作られた欲望を持ち、他人と似たような事をするのを望む一群の人々(我々)を描く事は、果たして本当に人生を描く事になるだろうか? 最近の小説が「アップデート」され、仮想通貨や、アイドルの「推し」などを盛り込んだ所で、全く心を動かされない理由はそのあたりにある。そこに生きた人間は本当に存在しているだろうか?
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こうした事は、伊藤計劃のような優れた小説家が、人間関係よりもシステムを描く方により力を入れている、そういう理由にもなっている。
人間関係そのものは、芥川賞小説がつまらないように、もはや生産され、内面まで人工物によって侵されたものでしかない。だから人間関係を描く事に生き生きした葛藤はない。我々のだらけた精神的態度を振り返ってみよう。我々は三島由紀夫のような生真面目さを持たない。中村哲のような他人を救うための自己放棄も持たない。命をかけるなにものもなく、ただ何となく規範を守りながら幸福になれる道を探している。だがその幸福とは何であるのか。有名人に近づける事だったり、似たような他人との楽しい関係を築く事だったりする。
これらの関係を描いて、どこに真剣なものが出てくるだろうか? マーク・フィッシャー的に言えばいまや「資本主義リアリズム」一強であり、代替物は考えられない。我々は「その中」で生きているだけで、外部を想定する事はできない。外部がなく、内部での戯れだけが問題となっているわけだが、そこに一人の人間が魂をかけて闘うなにものも見いだせない。
いや、そもそも魂をかけた闘いといったものが古臭い、時代遅れのものなのではないか? なぜなら、世界のシステムは完成したのであり、それ以外は考えられないし、残余としての微細な発展だけしか許されていないからだ。人間の歴史はここで終焉を迎えたとなれば、人間の葛藤を描き続けた文学作品も、日常アニメとたいして変わらないものになっても仕方ないではないか?
伊藤計劃はこうした現状が分かっているので、人間関係は最低限しか描いていない。彼は、システムと主体(主人公の内的意識)の葛藤を描く事に注力する。というのは、もし、現在において魂をかけた闘いの場があるとすれば、人間の内面から魂が消去されていくその場所しか考えられないからだ。システムが内面の奥底まで浸していく、その現場だけがわずかに、我々とは何かを問う事が可能な最後の場だったのだ。
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この文章の始まりに話を戻そう。テクノロジーの意味とは、世界の幻想化だと私は言った。
我々の住む世界というのは、極めて迅速に変化していく。我々の欲望の変化に合わせて、世界は変化していく。巨大なビルがわずか数年でできてしまう。これはそもそも異常な事ではないか。このようにして世界が短期間で変わってしまう。しかも我々はそこに適応していかなければならない。
自然の変転は、人工世界のようなスピードを持っていない。変化はもっとゆっくりしており、かつての人間は、その中でいかに生きるかを試行錯誤していた。祖父や祖母の代と、自分達の代で人生はさほど変わらない。であれば、老齢の人間が蓄えた生活の智慧はずいぶんと役立っただろう。年を取って智慧を蓄え、それを次代に伝えるのは意義深い事だった。人生の形態はゆっくりした変化の中にあったからだ。
現在の世界では、老齢の人間はただの役立たずとみなされてしまう。老齢の人間はパソコンも使えないし、早すぎる世界の変化についていけない。老齢の人間が学んだ智慧はもう今では使えなくなっている。この変化のスピードで、世代はバラバラに切り裂かれる。
欲望によって速やかに変化していく世界というのは、我々が見る夢とよく似ている。一年で、景色が変わってしまう。夢は、脈絡もなく、自らの精神を体現する対象物が次々と現れては消えていく。同様に、この世界も次々に変化していき、自分が固執していたものもあっという間に消えてしまう。だが、一方では、大衆の固定的な欲望は繰り返し同じパターンで現れてくる。認識は進歩しないのに、欲望を実現させる物質は次から次に溢れ出てくる。成長する事ができない一群の人々は、椅子に座り、スクリーンの様々な変化を楽しむように人生の日々を過ごす。彼らは、自分の足で歩かない。いや、自分の足で歩こうとする人間は異常な人間として扱われるだろう。この社会では。
テクノロジーは、我々の欲望を充足させる道具として機能していくが、その機能により、我々は自分達の欲望と闘うという自由を奪われる。そのような聖者型の人間は、現在ではただの異常者でしかない。幼児的な集合体こそが人類の基本である。これらの人々の望むものから、我々は逃れられない。また、望むという事そのものについて真剣に考える事も許されない。そのような思考の苦痛を経験するよりも先に、自らの欲望を実現する物質が目の先に現れるから。
そうした物質は「新商品」のような形で現れるのが現在であるが、もっと進めば、脳内に散布される物質のような形になるかもしれない。そうなれば、我々は自らを対象化して思考する事が許されなくなる。我々は自分とは何かを考える以前に、自分が望むそのものを与えられる仕儀となる。この輪廻世界から逃れられない。
こうして世界は一つの悪夢に似たものになっていく。全ては迅速に変化して、ただそこについていこうとするしか選択肢はない。友人に先駆けてPS5を手に入れる事、それが客観的に見てどれだけくだらない事であろうと、周囲がそうした闘争を始め、巻き込まれたなら、自分もそのような行動に参与せざるを得なくなる。彼がそうした行動をくだらないと思って、(それに参加しない)という態度を表明した所で周囲は彼を「PS5を持っていないやつ」と認識するだけだ。
こうした全てをくだらないと感じた所で、世界の悪夢性から覚める事はできない。夢からは覚める事ができるが、現実という夢からは覚められない。我々は自分から逃れられない。それに苦痛を覚えない人間は世界にあまりに当てはまり過ぎており、既に自分を消失している人間だ。
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さて、私は以上のような事をつらつらと考えたのだが、考えていて、自分がSFをあまり読んでこなかったという過去に思い当たった。今更だが、SFを軽視せずに読んでいたら、もう少し、この世界をSF的な視点で見られただろうし、今、わかりつつある事にもう少し早く気付けただろう、と思った。
テクノロジーの進歩は、実際には、テクノロジーが何の為にあるのか?という問いを奪っていく事になる。「脳科学的に見て〇〇という子育てが正しい」というテーゼは、「子育てはどうすべきか? どういう人間が目指されるべきか?」という問いを奪って行く。AIが進歩すれば様々な答えを出してくれる、という期待が各所でされているようだが、実際には自分の頭で考える労苦をAIに預けようと、人類とかいう名の生物が頑張っているだけだ。預けられるAIこそ、いい面の皮だろう。
私が確認しておきたいのは、この世界は迅速に変化する夢に似ている、という事だ。我々は夢の住人であるのをやめられない。また、ここにおいて主体性というものが何を意味するかもほとんどわからない。周囲がみんな一つのゲームに参加しているのなら、自分だけがそれを否定したとしても、彼はゲームを棄権したとみなされるだけで、それ以上の事は意味しない。世界がかくも希望に満ち、同時に、一部の人間には絶望しかないのはその為だ。我々は自分達の夢を素早く置換していくこの世界のシステムから逃れられない。それを冷笑したところで、ゲームそのものをやめるわけにもいかない。
ゲームから離れるのは、ただ死ぬ時であるが、死はゲームからの離脱とみなされるだけだ。私は、この世界の内部の事柄をいくら精細に描いたとしても、既に決められた意味を決して出る事はないと思われる。芸術家に「思想」が必要なのはこの為ではないか。「思想」は、自分(ないしこの宇宙)が、一体世界のどういう位置にあるかを思索的に突き止めようとする行為だ。芸術家は世界を描かなければならないが、世界が先に一色に塗り潰されている以上、塗り潰された世界の意味について芸術家は考えざるを得ない。
最初から檻の中に入っている我々が、その中で一生懸命に努力する事は、はじめから自己を失う事しか意味しない。真面目にやる人間ほど次第に虚しさを感じていくのは、おそらくその為だろう。
この世界は一つの幻想と化しているが「正常な人間」である為には人々と同じ夢を見続けなければならない。我々の苦痛は、決して醒める事のない夢に耽溺している事からやって来る。それから逃れる方法は、自らの意識(思考)を失って、夢の一形象になってしまう事だ。要する「ハーモニー」が達成された世界、その一部になりきる事だ。