厨房と老婆
「フギャッ!」
自分の鳴き声に驚いて、私は目を覚ました。
ここはどうやらレナトス様のベッドの上だ。
猫の小さな心臓が自分の胸の中で、トトトトととんでもない速さで鳴り響いている。
(びっくりした、夢か……。)
途中まではレナトス様と結ばれる最高の夢だったのに、猫に成り代わられるなんて悪夢も良いところだ。
ふしゅと鼻からため息をついて、ゆっくりと起き上がった私は伸びをした。
(レナトス様は、いないか……。やっぱり仕事に戻ったのかな。)
窓の外の空は、もう夕暮れが近そうな色をしている。
私は予定通り自分の体を探しに行くことにして、部屋の扉のノブに飛びついた。
魔術で施錠されている扉は、外からは専用の指輪を使わないと開かないが、中からは簡単に開けられる。
何度かノブに飛びつくと、がちゃりと音を立てて扉は開いた。
(やったね!さてと、あの猫のいそうな所は……と。)
猫が夕方や早朝に動き出すのは、恐らく餌になる小動物が活発になるためだ。
そして猫というのは、案外縄張りが狭い。
(うん、猫のいる場所なんて大抵は決まっているもの!向こうは大きな人間の体をしているんだし、おまけに今は私は猫になってこの強い嗅覚がある。見つけるのなんて簡単よ!)
私は研究所の中の畑のあたりに狙いを定め、宿舎の廊下の端をこっそりと歩き始めた。
大丈夫だとは思うが、見つかって部屋に連れ戻されてはかなわない。
(多分まだみんな仕事中なのかな。人は少ないわね。)
朝から働くタイプの魔術師も、午後から起きてきて夜中が一番はかどるタイプの魔術師も、今はちょうどどちらも研究所にいるのかも知れない。
我ながら絶妙な時間を選んだな、と足取り軽く出口へと向かう。
(あっ……何かいい匂い。)
階段を降りると、一階の奥から食事の支度をしている匂いが漂ってくる。
食堂でお肉でも焼いているのだろうか、猫の鼻がひくひくとしてつい吸い寄せられて行ってしまう。
この猫の体はお昼にレナトス様に何か貰ったっきりなにか食べていないだろうし、ちょっとした食材でも頂戴できないだろうか。
無人の食堂を通り過ぎてひょこりと厨房を覗き込むと、その瞬間ドンという大きな音が鼓膜を直撃した。
(ひっ!)
驚いて見上げた視線の先で、ナタのような巨大なナイフが巨大な木製の調理台に刺さっている。
一抱えもあるような巨大なブラッドカボチャがぱかりと割れて、中から紅色のワタと種がとろりと内臓のようにこぼれ出す。
「この……ワタが……ヒヒ……。」
刃物を振り下ろしたのは、小柄で背中の曲がった、痩せた老婆だ。
ぎょろりとした大きな目とかぎ鼻が印象的で、頭をぴったりと三角巾で覆っている。
老婆はよくそんな重い刃物を振れたなと思うほど細い枯れ枝のような指で、実の薄いカボチャの中から大量のワタと種を引きずり出した。
(うわ……。何か怖っ……。料理っていうか昔の呪い系の危ない魔術師の薬作りみたい。)
指を血のようなカボチャの汁で染めた老婆は、それを両手ですくうと何やらぼこぼこと巨大な鍋で煮えたぎるスープの中にそれを入れた。
ずるりと手から滑り落ちたワタがぼちゃんと音を立てて鍋の中に消えると、白っぽかった中のスープが血を落としたかのようにもわりと赤色に染まってゆく。
「ヒヒヒ……ヒッヒ……。」
ほうき程もある大きな木の匙で、老婆は鍋の中身をかき混ぜ始めた。
混ぜれば混ぜるほどスープは赤く染まっていき、何がおかしいのか突然笑い始める姿はまるで人食い老婆だ。
(ひぃぃ、怖すぎる……!人を殺したりはさすがに無いだろうけど、猫ぐらいなら食べるんじゃ?この状態で食べられたら死ぬのって私なの?猫なの?)
「ヒヒ……ヒ、ヒーーーッヒッヒッヒ!!」
(ひぃ〜〜!無理無理怖すぎ!)
あわよくばつまみ食いなどと企んでいたが、そんな事をしてバレては殺されてしまう。
じりと後ずさりをすると、足元に置かれていたらしい何かを後ろ足で踏んでしまい、かちゃんと小さな音がなった。
(まずいっ……!こんな所になんでお皿が?!)
「?!」
はっとして青ざめるが、後の祭りだ。
老婆のその片方だけ白っぽい巨大な眼球がぎょろりとこちらを向いた。
私の姿を認めると老婆はがらんと手から巨大匙を放り投げ、ぶるぶると震える手で顔を覆い、うめき声をあげ始めた。
「お……おおお……。う、ふ……。」
(え……、なんか様子がおかしい!!)
「うおっ……、あっ、あっ……イイイィィィ!!」
「フギャーーーーッッ?!」
その老婆が奇声を上げたかと思うと突然こちらへと猛スピードで走り出して、私は度肝を抜かれて飛び上がる。
恐怖に腰を抜かしかけながらも、私は慌てて方向転換して廊下を全力で走り始めた。
「イイイィィ!!イイイィィ!!!」
前を見て死にもの狂いで走るが、真後ろに老婆の奇声が迫っている。
(ギャーーッ、何か叫んでるしめっちゃ脚早いぃぃぃ!死ぬ死ぬ死ぬ!!)
ちらと振り向くと老婆が背中を丸めたままの中腰の姿勢で手だけこちらに伸ばし、カサカサと思った以上の高速で追ってくる。
恐怖でパニック状態になりながらも、私は廊下を駆け抜けて外へと飛び出した。
***
「イイィィ!イイィィ!」
私を探す老婆の奇声を遠くに聞きながら、私は鼻からふぅと安堵のため息をついた。
私は白く長い毛の間から、顔だけをひょこりと出して外の様子を盗み見る。
真上ではヤギの大きな顔が、もしゃもしゃと草を咀嚼していた。
(外は|開〈ひら〉けてたけど、たまたまいい隠れ場所があって良かった……。)
魔術研究所の敷地は広大だ。
実験に使うための素材を育てるための立派な畑もあるし、魔法動物の家畜も飼育している。
筆に使う毛を収穫するために普段放し飼いにしているこのヒゲナガヤギも、大事な家畜の一種類だった。
私はこの全身の白い毛が地面につくほど長いヤギの腹の下に隠れ、前足の間から顔だけ出している。
垂れ下がる毛がカーテンのようになり、同じく白い猫の体を隠すのにぴったりだ。
(まだあの人が怖いから、できればまだここから出ずにヤギごとあっちの予定してた畑もの方に行きたいんだけどな……無理かな。)
目の前に垂れ下がる|一際〈ひときわ〉ふさふさとしたひげの束を咥えてぐいと片側に引っ張ってみると、ヤギの顔が横を向く。
(……。)
「…………べエエエ〜〜。」
向いた先に草が見えたのだろうか、ヤギは一声鳴くと、そちらにむかってゆっくりと歩き始めた。
(やった!操縦できそう!)
のっそりと歩くヤギの大きな歩調に合わせて、私 その体の下からはみ出ないようてくてくと歩き始めた。