目の前のわたし
(うう……いたた……。)
一瞬遠ざかっていた意識を取り戻して顔をあげると、目の前に髪をふり乱した女がうつ伏せに倒れていた。
(え?誰?)
この部屋にいたのは私とキャスと、乱入してきたのであろうレナトス様だけのはずだ。
視線を上げると、そこには床に手をついて青ざめた顔をしたレナトス様がいる。
(きゃーーっ?!こんな近くに!!私の研究室にレナトス様がいるなんてええ!!)
初めて至近距離で見た彼の顔に、私の胸は内心喜びに叫び声をあげた。
目の前には、やや切れ長なまぶたと黒く理知的な瞳、すっと通った細い鼻筋を持つレナトス様の美貌が燦然と輝いている。
形のいい薄い唇は酷薄そうで、視線の鋭さも相まってやや近寄りがたい雰囲気を醸し出してしるが、それがなんとも言えずセクシーだ。
一気に身体の中いっぱいに広がった恋の喜びに、私は言葉を失ってしまう。
「きみ……あの、大丈夫?ごめん、猫を追いかけてて、陣に入ろうとしたから止めようとして。きみが手前にしゃがんでいるのが見えなくて……起きてる?」
レナトス様が、倒れている女に恐る恐る声をかける。
なんだかやけにおどおどとした喋り方で、思っていたようなクールで理知的でスマートな天才魔術師のイメージとは随分と違う。
(何か、どっちかっていうと気弱なおたくみたいな話し方ね。……まぁ、気のせいかしら。)
ちょっとだけ違和感を感じて考え込んでいると、意識がないらしく何も言わない女の代わりに、横でキャスが返事をした。
「あ〜、そのひと体だけは丈夫なんで、転んだくらい平気ですよ。それより冷たい床にずっと倒れてるのはさすがに可哀想なので、抱き起こしてあげてくれません?」
(えーーっ?!何言ってんのよキャス!!友達だと思ってたのに!)
こんな訳の分からない不審な女を、レナトス様の聖なる腕に抱かせようだなんて一体どういう了見なのだ。
ここ数年キャスとはずっと一緒に研究をやってきたのに、なんという手酷い裏切りだろう。
自分は既婚者で夫との仲も良好なのだから、私の恋をもっと応援してくれても良いではないか。
「彼女、メイアーナ魔術師、だよね……。頭を打ってしまったかな。」
(……?!)
床に膝をついた彼が抱き起こした女の顔を見て、私は絶句した。
さらりとこぼれ落ちる栗色のつやのある長い髪、白くなめらかな肌、すっと通った鼻筋に花びらのような唇。
伏せられた瞼には長いまつげが揃い、薔薇色の頬に影を落としていた。
黒いローブの袖口からは細い手首がすんなりと伸び、その胸元には無色透明の水晶飾りが光っている。
現在この研究所であの色の飾りをつけている魔術師は、私一人のはずだ。
(わ……私……?どういう事、私が二人?)
「気付け用の『電気虫の針』があるんで今起こしますよ。目覚めたときに飛び上がって逃げるかもしれないんで……ちょっと強めに抑えててくれません?」
「えっ?飛び上がるのは電気虫を使うならそうだろうけど、逃げる?そ、そうか、知らない男が目の前にいたら怯えてしまうかな。」
よく分からないといった顔のレナトス様を尻目に、キャスが薬棚を漁る。
その普段よく見るキャスの後ろ姿に、私は違和感を覚えた。
(なんか、キャスが大きい……っていうか、やけに脚とかおしりばっかり近い。え、私の目線、キャスの膝裏ぐらいじゃない?)
不思議に思って目線を自分の足元に落とし、その景色にぽかんとする。
(え……。)
本来私の体があるべき場所に、真っ白な毛皮がある。
(えっ、えっ?!)
脚も腹も手もふわふわの被毛に覆われ、丸くて可愛らしい手のひらにあるのはピンク色の肉球だ。
その肉球で長いぴんとしたヒゲの生える頬を押さえ、私は絶句した。
「うにゃん……。」
うそ、と言ったつもりなのに、耳に届くのは小さな鳴き声だ。
(私……猫になっちゃった。どうしよう、術は失敗したんだ……。)
きっと術が発動した瞬間、ネズミのいるべきだった陣の上には乱入してきた猫がいた。
そして私はちょうど、ネズミが送られるべきだった方の陣の上に倒れ込んでしまったのだろう。
召喚というのは、肉体と魂が移動するのに少しのタイムラグがある。
先にやってきた猫の魂が、到着すべき場所に私の肉体を見つけたせいで、何らかの|問題〈エラー〉が起こってしまったに違いなかった。
と言う事は、目の前の私の中身は……と視線をやると、そこにちょうどキャスが小さな瓶を持ってやってきた。
「じゃ、レナトス様、安全のためしっかり肩を抱きしめておいてあげて下さいね。メイアーナ様、起きた瞬間またぶっ倒れるかな……。」
「う……俺にあまり触れられたら、メイアーナ魔術師は嫌がるんじゃないかな。」
渋るレナトス様に、キャスが彼女の身のためだからと言って丸め込む。
確かに電気虫の針は実際に電気が通っている訳ではないが、刺されると気を失っている人でも飛び上がる事がある。
ただ一瞬とても痛いだけで毒性は無いが、転んで頭を打つ事が危険なので体を固定するのは大切だ。
二人はしばらく揉めていたが、やがて押し負けたレナトス様が、ローブを纏う私の肩に回した腕に恐る恐る力を込めた。
(ああああレナトス様の抱擁ぅぅ!!私の人生で一番素敵な出来事なのに、自分の肌で感じていたかった!!)
「……ッ!!」
キャスが瓶から長く曲がった針を取り出しそれを女の手の指の先に刺すと、幸運な自分……もとい自分の姿をした猫が、カッと目を開く。
そしてその瞼をぱちぱちと何度か瞬き、はっとして彼の腕の中から飛び退いた。
「ギャッ!!」
「あ、あの、ごめん!違……っ、これは変な意味じゃなくて!」
驚愕の表情で飛びのいた私の姿の猫は尻餅をつき、唖然としたまま固まる。
レナトス様はあたふたと両手を上げ、何もしていないとアピールする。
(あぁレナトス様、相変わらず猫に全然好かれてない……。しかも、思ったよりもずっと女慣れしてない人みたいな態度取るのね。ちょっと、何か……思ってたのと随分違う感じの人だったなぁ……。)
私の姿の猫は、腰を抜かしたように床にぺちゃりと座り込みながらも、じり、じり、とレナトス様から距離を取っていく。
「……あのっ、メイアーナ魔術師!」
「!!」
レナトス様が何かを言おうとして手を伸ばすと、猫は体をびくりと揺らした。
そしてそのまま、四つん這いになって床を走り出した。
「あっ、ちょっ?!」
ずどどどどという擬音がピッタリだろうか、とんでもないスピードで這い這いをした私は、廊下へつながる扉へと突進した。
廊下へと消えていく自分の姿を見送って、私はまずいことが起こったと思った。
「あーあー。メイアーナ様、刺激に耐えられなかったか。まぁ、夜には戻ってくるでしょ。」
「……俺のせいだ。やっぱり女性に対して良くなかった。」
拒否されたと思ったのか、レナトス様はがっくりと肩を落としている。
(えっ……!もしかして私に嫌がられたと思って傷ついたの?!ずっと想像してた孤高の天才魔術師の格好良いレナトス様とは全然違うけど……。)
落ち込む姿に何だか胸がきゅんとして、思わず吸い寄せられるように彼に近づく。
床についた彼の膝にちょんと前足を乗せて、ばつの悪そうな困ったような彼の表情を下から覗き込んだ。
「……スピエ。きみ、ついさっきまであんなに嫌がって逃げてたのに。」
この白い猫にはどうやら、いたずら好きの妖精と同じ名前をつけられているらしい。
声をかけられた事が嬉しすぎてにゃあと返事をすると、頭にそっと彼の大きな手が置かれた。
壊れ物を扱うようにそっと毛並みを撫でられ、思わず喉から猫特有のごろごろという音が漏れてしまう。
「助手の、キャスさん、だったかな。ごめん、日を改めて謝罪に来る。その、魔術研究中に邪魔してしまった事も、その後の事も。」
「え、よく私の名前知ってますね。メイアーナ様と違ってただの助手で、まだ正規の魔術師ってわけじゃないのに。」
「あ、うん……たまたまかな。明日また来るけど、もしその前に彼女に会ったらそうやって伝えておいて欲しい。謝罪を受け入れてもらえるかは、わからないけれど。」
彼の手がそっと脇の下に回り、ふわりと浮いたような感覚がして、気づけば彼の腕の中に抱えられていた。
(……!…………!!)
感激に打ち震えていると、目の前でキャスがにっと笑う。
「ははは、そんなに責任感じなくて大丈夫です。まぁ、夕方私が自宅に帰るまでに会えたら、言っときますよ。」
「うん、頼むよ。じゃあ。」
レナトス様はそう言うと、私を抱えたままくるりとキャスに背を向けて廊下へと向かった。
背後でばたん、と扉の閉じる音が聞こえて、彼に触れる事が出来て有頂天の私もさすがにはっとする。
(あっ、どうしよう。これってキャスも猫の中身が私だって分かってない感じ?え?じゃあどうなるの?)
猫に乗っ取られた私の体も、ただ私がレナトス様の抱擁に興奮しすぎて逃げただけだと思われている。
ただ、中身は自由気ままな猫だ。
一体どこに行って何をしてしまうのか、想像がつかない。
(どうしよう。夜フラフラ出歩いて犯罪に巻き込まれたりしたら……!すぐに体を取り戻さないと!)