魔術実験
「なんっっっだアイツ!!」
ヒューゴルの去った研究室で、こめかみに青筋を浮かべたキャスは握った拳を震わせていた。
「メイアーナ様、あんな下らない奴に好き勝手言わせといていいんですか?!あそこまでコケにされて、ただ誘いを断っただけで文句も言わないなんて信じられないですよ!!」
下町育ちのキャスは、血の気が多い。
元々アカデミックな事とは無縁の生活をしていた彼女だったが、大人になってから魔力が発現し、私の助手として働きながら魔術の勉強をしている苦労人だ。
「まぁ魔術師なんて私も含めて元々根暗が多いからね。ネチネチしたやつも割といるよ。」
キャスみたいなタイプの方が珍しいんだよと笑い飛ばすが、彼女はまだ納得していない。
まなじりを吊り上げ、ぶつぶつと文句を言っている。
「信じられない。あんな最低野郎、研究所の中じゃなかったらぶっ飛ばしてる……。」
「私も同じ気持ちだけど、クビになるからやめてね〜。」
実際有名な魔法学園の出身であるヒューゴルは、やたらと同業との繋がりの多いやつだ。
顔もスタイルも良くやたらと派手で、あいつを持ち上げるような取り巻きの魔術師も多い。
デートのお誘いなんて受けるわけは無いが、あまり表立って敵に回すのは得策ではないだろう。
「……あの猫しか友達がいないレナトス様がまともに見えてきました。冷たくて愛想も何もなさそうですけど、勘違い野郎と比べたら余程ましですよ。」
「彼の良さキャスもわかってきた?!実は猫も懐いてないけど、猫に人間の男性の格好良さは分からないものね。」
キャスにレナトス様の素晴らしさがようやく少し伝わったようで、私は嬉しくなってしまう。
きゃっきゃとレナトス様の話をしながら、少しだけ不機嫌が和らいだキャスと一緒に午後の研究の準備をした。
キャスが床に銀色に輝く大きな翼竜の一枚革を敷き、|均〈なら〉すようにブーツの底で踏む。
その間に私は部屋の戸棚から、特製のインクの入った大きな壷を出した。
その漆黒の柔らかな液体をイトスギで作った木べらで混ぜると、細かな光の粒子が雲母のように輝く。
「うーん、やっぱり気温差でちょっと煮詰まってる気がする。」
ヒゲナガヤギの毛で作った筆でインクをすくうと、想定していたよりもややもったりとした感触がする。
やや固めのそれが筆先から一滴ぽたりと壺の中に垂れると、青白い光の輪が小さく広がった。
「メイアーナ様、こっちはいいですよ。」
「ありがとキャス。じゃあ、描きますか。」
私は壷を脇に抱え、銀色の革の上に立った。
ふうと一度息をついて集中すると、一発勝負とばかりに筆でぐるりと大きく足元に円を描く。
そして小さく呪文を呟きながら、円の中のあるべき場所に必要なシンボルを配置し、それらを線で結ぶ。
魔法の言葉は体の芯を伝い、指から筆先へ、そして薄ぼんやりと青白く光るインクへと流れ込んでゆく。
星の軌道のように緻密に描かれた魔法陣に、私はほっとして額の汗を拭った。
顔をあげると、少し離れたところでキャスももう一つの魔法陣を描き終わったようだ。
「いつ見てもキャスの魔法陣は上手いわね。こっちの陣より簡単なものとは言え、線が私よりもよっぽど正確よ。」
美しい魔法陣に感心して言うと、キャスは少し照れたように鼻の頭を掻いた。
「へへ、うちの父ちゃん大工だったんで。兄貴は彫刻だし、手先は器用な家系なんです。まぁ、メイアーナ様に教えて貰ったやつの丸写しなんで、この陣に何が描いてあるのかは全然わかんないんですけど。今日こそ召喚されますかね?」
「そうね、って言っても今日は、そっちの陣からこっちの陣に対象を呼び寄せるってだけだけど……。呼ぶのはこれね。」
私が用意したのは、かごに入った大きなネズミだ。
「上手く行けば、そのネズミが一瞬でこっちの陣に移動するはず。陣が発動する瞬間にネズミにはキャスの描いたそっちの陣の中にいて欲しいの、カゴから出た状態で。」
「わかりました。カゴから出して、逃げ出すのが間に合わないぐらい直前に陣の上に置けばいいんですね。」
「そういう事。タイミングが難しいけど、キャスはそういう反射神経いいもんね。期待してる。」
ネズミをかごごとキャスに手渡すと、私は仕上げに取りかかった。
陣の一番外の円から少しだけ直線を伸ばし、その終わりのインクだまりに指を浸ける。
「―――――――。」
私の指先と陣が繋がり、魔法陣を発動させる呪文を唱え始めると陣の発する光はどんどん強くなっていく。
「――――、――――――。」
私とキャスの顔が照らされ、目の前で膨れ上がる魔力の圧で髪が風に吹かれたように靡く。
最後の一節を唱えようとして、キャスがネズミの首根っこをつまんで身構えたとき、廊下からバタバタと足音が聞こえた。
「ま、待ってスピエ!そっちはだめだって!!」
(?!)
足音と共に響く、焦ったようなその声に聞き覚えがあり動揺する。
聞き間違いでなければ私の尊敬するレナトス様のものだが、何だか喋り方が思っていた感じと違う。
それでも今更この魔術を途中で止めるわけには行かず、真後ろに足音が迫っているのを聞きながら、私はそのまま唱詠を続けた。
「あーーっ!まずいまずい、陣が発動しかけてる!!戻って!」
そんな叫びと同時に、背中にどすんと衝撃を感じる。
バランスを崩して前のめりに転がりかけた私の視界に最後に映ったのは、慌てた顔のキャスの手から放たれて宙を舞うネズミと、それに向かって突進する白い猫、そして部屋を飲み込む眩しい光だった。