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近くを歩いて思うこと

作者: チャラン

 散歩というものは、私の中では生活の一部になっています。歩かないと一日が何か物足りなく感じ、拍子が抜けたようになります。


 そうなったのは、実家を出て一人暮らしをしていた頃に体を壊し、仕事を辞めて故郷に戻ってからのことでした。しばらく休養を取ることになったので、もともと嫌いではない散歩を、ライフワークのような趣味として取り入れてみようと考えたのです。そしてそれから十数年が経ち、今に至ります。


 私の実家はいくらか郊外にあり、自然がなかなか残っています。すぐ近くに川が流れていますし、広葉樹の森が作られている山もまたあります。また、実家の目と鼻の先には、近所の農家の方々が作物を作られている田畑もあります。いずれも毎日眺めるともなく観察していると、近隣の四季の移り変わりが見て取れるものです。


 川の春は川辺の芽吹きと、水の温もりで感じることができます。そこに住む魚の泳ぎも活発になり始めます。夏は、川の水がさらに温み、草の生い茂り方からも暑さとエネルギーを感じ取れます。秋はエネルギーが次第に落ち着いていき、魚の泳ぎもゆっくりとなり、最も寒くエネルギーが低くなる冬へと変わっていきます。草花も枯れていくものがあり、川辺の彩りは少なくなります。


 川とコントラストを見る形で山の四季を思い浮かべると、春には新芽の芽吹きと、鶯の鳴き声。その鳴き声も春が深まるにつれ、だんだん上手になっていきます。山からは植物のたくましさ以外に、そこに住む動物達の活動から移り変わりを感じることも多くなります。夏には、木々の葉が生い茂り、蝉しぐれはしきりです。秋は柿などの木に実りが付き、私達や動物達の潤いや糧になります。そして、冬に向けてひっそりと寒くなる山で春を待つのです。田畑においても、作物の成長と収穫から、うつろいを見るともなしに感じられます。


 周りを見ながら散歩することにより、近隣ではこれらのような四季の変化を感じることができます。人工物が多い都市部では、それらから四季を感じることができますが、おそらくそれは急な変化によるものでしょう。年末年始のイルミネーションなどにしても、ありかなしかの二つになると思われます。人工物の情緒も良いものですが、自然から感じられる季節の変化はゆったりとしたものがあり、何とも言えない安心感があります。


 人工物のある部分を否定しているわけではありません。ありかなしか。その両極端さが長所になることもあります。その二面性があるということは、自然にはない、人が作ったことによる機能的な便利さが人工物にはあると、私は考えています。実家がある郊外にも、自然以外に数多くの建物、電柱、高架橋、舗装道路など、人工物が機能的に存在しています。多くの地域は自然と人工物が調和して住環境が成り立っており、私が住んでいる地域も然りです。


 散歩をするときも、舗装された道を歩くことがほとんどです。そして、家や町工場、店舗などがどのように機能しているかを、歩きながら見るともなしに見ています。平日と土日などの休日では、工場と店舗からの人の出入りは、前者は平日で多く、後者は休日で多くなります。住宅に関しては、やはり休日の方が人の出入りが多くなり、集会所や公民館、神社などで催しが行われることもあります。これらの様子から、近隣地域の活発性を見ることができ、昔と今で、それがどう移り変わったかも、記憶の中で何ともなしに比較ができます。


 実家に戻って十数年が経ち、その間で人工的な部分が近隣地域で非常に綺麗に整備されたと感じることができます。まず生活に直結するレベルでの変化を言えば、すぐ近くにゴミ処理場のような施設があるのですが、それがほとんど使用されることがなくなりました。そして、上下水道が敷設され、浄化槽を使うことがなくなりました。この二つは住環境の衛生面で非常に改善された大きな点です。他の部分では、砂防ダムの構築、舗装道路の整備、川や山の整備の実施など、いずれも十数年間で大きく改善された点で、以前より住みやすい環境に変化しました。


 時間が経ったことによるマイナス面の変化を挙げるとすれば、やはり一部の都市圏以外どの地域でも避けられない、少子高齢化になります。これは、毎日の散歩からも見て取ることができます。休日に公園など、子供を多く見かける場所でも、子供たちの声や姿を認めることが、散歩が習慣になった当時より少なくなりました。反対に高齢者の方々が、私と同じように散歩を楽しむ姿が増えてきています。元気にお年寄りの方々が歩かれていることは、非常に良いことだと思います。ただ、これからこの地域を支えていくであろう子供たちが、あまり多くはいないことが、やや心配や不安として感じられ、私が高齢者になるころには、その傾向がますます顕著になるだろうと考えながら歩くこともあります。


 個人的なことですが、時間が経ったことにより、歩いていて寂しく感じる大きな点が一つあります。仕事で体調を崩し、辞めて実家に戻った当時はまだ私もかなり若く、地元の近隣地域に多くの同級生が残っていて、散歩の途中に偶然出くわし、懐かしい話などに興じることも度々ありました。しかし、時間が一年、二年少しずつ経つにつれ、同級生達も地元から離れたり、結婚をしたりして、私とは疎遠になっていきました。散歩の途中でも、彼らに会えることはほとんどなくなり、また、休日など時間がある日に旧交を暖め一緒に遊ぶこともなくなりました。私は独り身ですが、同級生達はほとんどが結婚して所帯を持っているので、家庭が優先になります。昔の学生時代のように、一緒に遊べるわけではなく、彼らとの考え方の隔たりのようなものも感じ、寂しく感じることが多くなりました。私に子供の部分が多く残りすぎているからかもしれません。個人的なマイナス面といえば、それになります。


 話が人工物のことに戻りますが、車の流れも散歩時に見ています。この十数年で、この流れもかなり変わりました。特徴の変化を言えば、流れは多く頻繁に、そして山間部に上る車は特に増えてきています。年が経つにつれ道路を走る車の量は徐々に増えてきますが、山間部に工場関連施設が多くでき、雇用がそこで多く生じたので、朝の通勤ラッシュや、夕方から晩にかけての帰宅ラッシュ時は、車の流れが以前よりかなり多くなっています。山間地域の活性化が、雇用の創出により行われた形ですが、急激に大きく変化した点だろうと思われます。


 人工物の変化による地域の変遷は、建物の建築状況や、不要になった建物施設がどのようなものにまた変わったかを見ることによっても感じ取れます。私が住んでいる郊外も例外的ではなく、移り変わりが年数を重ねるごとで見て取れます。近隣地域に移り住んできた人たちが多くなったので、必然的に一戸建てやマンスリーマンションなどの住宅が増えていきました。また、高齢者が増えたことにより、老人介護施設も新たに空いた土地に少しずつ建てられていき、その数も以前より多くなってきています。反対になくなった主要な施設はガソリンスタンドです。交通量や、周辺地域で所有されている車の台数自体は多いのですが、景気が良かったころよりガソリンの消費量が減っているのが主な要因で、近くのガソリンスタンドが閉所しました。郊外でも人口が増えてきているのはやや例外的かもしれませんが、建物の変遷からも、日本の各地域が抱えている問題がやはり現れており、歩きながら変わってきたなと、少し思いをはせることもあります。


 便利になった、住環境が整ってきたと感じられる一方で、自然との調和も保っている地域ですが、近年、非常に自然により困っていることがあります。イノシシや猿などによる、鳥獣からの農作物の被害がそれです。農作物以外にも、現在はまだ人に対する危害を鳥獣が加えたという報告は、近隣では出ていませんが、イノシシの数が近くの山でかなり増えているようで、いずれそれらが、人を害することもあると考えられます。散歩中でも、小さなイノシシ(ウリ坊)や猿に出くわすことが稀にはありますし、イノシシが畑や田を荒らした痕跡を発見することは度々あります。それらを追い返すために、近隣の人たちで、鳥獣ハザードマップを作り、大きな音が出るピストル型のツールや、ロケット花火のようなものを使っていますが、効果はあるものの、それらも決定的なものではありません。自然が多く残っていることにより、このような問題も年月が経つことで増えてきました。


 また、自然と人工物の調和とも関係しますが、この十数年で地域の平均気温も上がってきたように感じます。冬近い秋でも、歩くことによってかなり汗ばみますし、真夏などは日中に散歩をすることは、可能なものではなくなりました。これも年々その傾向が顕著になってきており、温暖化が他人事ではないと認識されます。豪雨などの異常気象による災害も増える傾向があり、日本自体の熱帯化が進んできているのだろうとも感じられます。


 自分の心身的な変化についてですが、長年散歩を続けることによって、良い方向へ向かって行ったと実感できています。帰ってきたころは、心身共に疲弊していましたが、生活では家族の支援を受けながら、そして散歩も続けながら、地元での暮らしを続けていくことによって、それらのバランスは次第に回復していきました。家族を代表とする色々な人の支えと、日々の散歩により自分と向き合うことで回復が進み、今まで見えてこなかった自分の部分も見つめなおせたと感じています。


 近隣を十年以上歩くことにより、地域の発展の様子や住環境的なもの、友人たちとの関係、自分の心身的成長など、様々な大きな変遷を観察及び見つめなおすことができました。私が歩いている所は広島の郊外ですが、それぞれの方々が住まわれている地域によって、見えてくるものもまた違ってくると思います。長年歩くことを続ければ、それぞれの視点で見つめなおす機会になるでしょう。

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