第6話 小さな侵入者 前編
何も見えない。何も聞こえない。
頭が、白い靄がかかったようにぼんやりとしている。殴られた衝撃がまだ抜けないらしい。
ここはいったいどこなのだろう。
朔也は起き上がろうとした。が、思うように身動きが取れない。
そこで初めて、麻縄のようなもので後ろ手と足首を縛られていることに気がついた。
「クソッ……」
もがいていると、弾みで頭に被せられていた袋が外れた。
まず思ったのは、薄暗いということ。次いで、カビ臭く埃っぽい臭いが鼻を突く。目が慣れてくると、ぼんやりと白い空間がいくつもの縦線で区切られているのが見えた。水の滴る音の他に聞こえる音はもう一つ、壁にもたれかかった監視官のいびきだ。
寝そべったまま視線を巡らせる。監視カメラの類は見当たらなく、他に構成員の姿もないようだ。
朔也は覚悟を決める。逃げるなら今しかない。
幸か不幸か、朔也はただの人間ではない。変化を持ってすれば、拘束を抜けるのはそう難しいことではないのである。目測した限り、鉄格子の隙間を抜けるのも問題なさそうだ。
しかし、ことはそう簡単に進まなかった。
「嘘……だろ」
朔也の頬を冷や汗が伝った。
変化が、できない。
人間と獣の二つの姿を併せ持つ変化獣。
彼らにとって、その間を行き来するのは息をするのと同じように当たり前で、容易い行為である。はずなのだが……。
唐突に知覚する。首筋に違和感が、身に覚えのない痛みがある。まるで注射針でも刺されたかのような――。
「……薬か」
変化を無効化する薬――そんなものの一つや二つ、裏社会では出回っていてもおかしくない。
しばらくの間、身をよじって格闘したが、もがけばもがくほど麻縄は肌に食い込むばかりだった。ただ体力と精神力だけが消耗されていく。
朔也は、ぱたりと全身の力を抜いた。汗ばんだ額に前髪が張りついた。
拘束は抜けられず、変化もできない。そもそも、ここがどこなのか、自分を拉致したのが何者なのかすらも分からない。
万事休すかと思われた、そのときである。
朔也が身につける上着のポケットが、何やらもごもごとうごめき始めたのは。
「な、何だ……?」
満足に抵抗もできない朔也は、ただおろおろと視線を彷徨わせることしかできない。程なくして、ひょこりと顔を覗かせたのは――
焦げ茶色の毛並みを持つ、ごく小さな獣だった。
ハツカネズミ。哺乳類、齧歯目ネズミ科ハツカネズミ属。学名 Mus musculus。
ネズミは朔也の体を乗り越え、背後に回った。かと思うと、朔也の手首を縛る麻縄をかじり始めた。困惑しつつも、獣の行動に身を委ねる。どうやら敵ではないらしい。
手際よく、手首と足、すべての縄を噛み切ると、ネズミは朔也の目の前にとことこと歩いてきた。
そして、姿を変えた。
小さな体の輪郭がぼやけ、歪み――すらりと伸びる。
「まったく、世話の焼ける人っすね」
朔也は目を見開いた。
好奇心を湛えた大きなオレンジ色の目。変化してなお、十分に小柄な部類に入る体躯。
「――桂?」
にわかには信じられない光景だった。
「お前、どうして……」
桂はしーっと人差し指を唇に当てた。視線で監視を指し示す。朔也は口をつぐんだが、疑問に満ちた目を向けるのはやめられなかった。桂は腰を屈め、いたずらっぽく笑んだ。
「残念。俺から逃げようなんて百年早いっすよ」
「ずっと隠れてたのか?」
赤く蚯蚓腫れした手首をさすりながら尋ねる。
「そうじゃなきゃ、俺も薬を打たれてないとおかしいでしょ? 朔也さんが殴られるところから見てましたよ」
朔也の非難の眼差しに気づいたのか、弁解するように続ける。
「すぐに助けてもよかったんすけど、せっかく奴らのアジトが分かるチャンスですから、逃すのは惜しいと思って」
「こいつらの正体を知ってるのか?」
こくりと頷く。
「そこそこ名の知れた密輸組織ですよ。通称『朧』。特別強いわけではないんすけど、なんせ逃げ足が速くて」
ここで、桂はふと表情を曇らせた。
「ただ、不思議なんですよね」
朔也は手首を触る手を止める。
「ここ最近、妙におかしいんすよ」
「何がだ?」
「『朧』はその名の通り、何もかもが謎に包まれた組織――それはつまり、慎重で臆病ってことなんす。初めてなんすよ、こいつらが、こんなに派手に行動を起こしたのは」
朔也は顎に指を添え、その言葉の意味を考える。
「まあ、今はとにかく、ここから脱出しないと」
朔也はとっさに、桂の腕を掴んでいた。
「何すか?」
怪訝そうに振り返る。続く言葉が思いつかなかった。桂は小さく溜息をついた。
「ひとつ、教えてください」
しゃがみ込んだ彼の眼差しは真剣だった。
「どうして逃げたんすか」
僅かな逡巡の後、朔也は目を伏せたまま呟くように口にした。
「⋯⋯大切な人を亡くしたんだ。俺のせいで」
朔也は千弦のことをかいつまんで話し始めた。彼のことを誰かに話すのは初めてだった。火事の話になると桂ははっとした表情になったが、最後まで口を挟まずに聞いてくれた。
「……これ以上、何かを失うのは嫌なんだ。だから逃げた。俺はもう、ずっと一人でいい」
「それは違います」
きっぱりとした言葉に、思わず顔を上げる。
「失うのが怖いからって、得ることに臆病になっちゃ駄目っす。それが自分のせいだと感じているならなおさら」
「なら、俺は、どうすれば⋯⋯」
「簡単なことっす。大切なものを守れるくらい、強くなればいいんすよ」
桂はにっこりと笑って、手を差し伸べた。
「俺と一緒に行きましょう」
その言葉が『ブレーメン』への入隊を意味していることは言うまでもなかった。
朔也はためらった。
「俺なんかがいいのか?」
「『ブレーメン』はみんなの居場所ですから。それに、朔也さんの不幸になんか負けないくらい、みなさんめちゃめちゃ強いっすよ。だから大丈夫」
朔也はまだ躊躇していた。同時に、これが最後のチャンスであるだろうことも頭のどこかで悟っていた。やがて鞄の中のイヤホンのように絡まっていた思考がほどけていき、一つの強い思いに収束した。
強くなりたい。
意を決して、朔也は桂の手を取った。
「そうこなくっちゃ」
強く握り返し、引っ張り起こしてくれる。体は小さいが、力は人並み以上にあるようだ。先ほどの彼の言葉に説得力が増した。