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70年前の傷跡、75年目の夏

作者: 成瀬昭彦

小雨が降る日曜日の朝、僕は大阪住吉区田辺の恩楽寺に来ていた。ある追悼式に初めて参加していたのだ。その追悼式とは、「7・26田辺の模擬原爆の追悼の集い」である。終戦から75年目の2020年7月26日、75年前のこの日、実は大阪にも原爆が投下されていた。広島に原爆が投下される11日も前に。だが実際は本物の原爆ではない。模擬原爆という名の爆弾だった。アメリカ軍は、広島、長崎に原爆を投下する為の訓練(練習)として日本全国49ヶ所に模擬原爆という爆弾を投下していたのだ。そのうち一ヶ所が大阪東住吉区の田辺だった。その模擬原爆は、長崎に投下された原爆ファットマンと同じ形で(パンプキン)と呼ばれていた。1945年7月26日木曜日、朝9:26に模擬原爆(パンプキン)は、今の田辺小学校の北側に投下された。7名の犠牲者を出したという。10年以上前、終戦記念直前の特集として放送されたテレビのニュース番組の中で「実は、大阪にも原爆が投下されていた・・・」と放送されていたのを観て初めて知った。放送されていたのが7月26日だった。2001年4月に、こういう悲惨な事実を多くの人に知ってもらいたい、と、石碑を建立したと言う。後日の休日に、その場所に行ってみると、確かに、真新しい石碑が建っていた、そのすぐ横の掲示板に、その場所に投下した模擬原爆(パンプキン)の写真が掲示されていた。地下鉄谷町線田辺駅から南へ100mほど行った、長居公園東筋と言う車道沿いに建っていた。そして、毎年7月26日に石碑の前で追悼のつどいを行っていたという。その後も数回、その場所に立ち寄ったりしていた。しかし、追悼のつどいに参加する1年ほど前、マンション建設によって石碑が無くなっていた。石碑のあった場所に、その石碑のシルエットが描かれ「石碑は移動しました」と書かれていた。どこに移したのか解らなかったが、2~3か月後にまた行ってみると「石碑は恩楽寺に移動しました」と書かれて、現在地から恩楽寺までの道順も書かれていた。恩楽寺に行ってみると、門の前に移動させられていた。2020年度の追悼のつどいに参加してみたいと思ったのだが・・・。2019年5月、明仁天皇陛下の退位により、30年続いた平成時代が終わり、徳仁天皇即位により令和と元号が代わった。その年の12月頃から、中国の武漢から、コロナウィルスが世界中に猛威を奮った。僕がコロナウィルスの現実を知ったのは2020年の1月末だった。2019年12月、中国の武漢にて突然発生したコロナウィルス。誰もがこんな重篤な騒ぎになるとは思わなかったはずだと思った。今まで、Sarsや鳥インフルエンザ等、世界中で猛威をふるい騒がれていたが、今回のコロナは、世界中でかなり深刻な事態になっていた。自分にとって、初めての体験だと思った。正直言って、Sarsのように日本にあまり影響が無いだろうと、あまい考えでいたのだが…。3月ごろから、日本全国で猛威をふるい始めた。自分自身、コロナウィルスの事をまだあまり把握できていなかった。しかし、学校は休校になり、企業も休業するところも多く、世界中で外出自粛等、かなり深刻な事態になっていたのだ。普段、マスクをしない自分も外出時にはマスクをしなければならない事態にもなっていた。4月から6月頃まで、不要不急の外出を控えるように言われていたのだが、7月には、緩和されていた。そして、7月26日、初めて模擬原爆の追悼式に参加したのだ。最初は、関係者のみしか参加できないと思い、行っても追い出されるだけだろうと思ったのだが、とりあえずマスクをして、恩楽寺に向かい、名前を記入、検温を受けたあと、中に入る事が出来た。中に入ると、やはりコロナの影響もあって、参加者はかなり少ないみたいだ。以前の追悼式のテレビのニュース映像で観た時よりも確かに少ないように感じた。しかし来た時間が早かったせいか、すんなり入れてくれたみたいだ。関係のない自分を入れてもらえたのが奇跡のように感じた。他には、田辺中学校の生徒代表もオンラインにて参加していた。模擬原爆が投下された時間9:26に黙とう、その後、一緒に参加された御年95歳の龍野繫子さんが、模擬原爆が投下された時の体験談を話してくれた、そして「戦争は酷く、惨めなもの、二度と逆戻りしてほしくない」と訴えた。8月に入り、全国で遅い梅雨明けも発表され、その後、連日35℃以上の猛暑日が続いた。猛暑日でのマスク着用は、かなりきついものだ。この年の、広島、長崎の平和祈念式典は、やはりコロナウィルスの影響が大きく、関係者のみの参加になったはずだ、ほかの市民達は、オンラインでの参加になっていたようだ。毎年、平和祈念式典のニュース映像を観ると、かなり大勢の参加者を観受けられた。70年目を迎えた5年前も、しかしこの年はいつもと様子が違っていた・・・ここからの話は、今から5年前、コロナウィルス等も想像していなかった2015(平成27)年、終戦70年目の夏を迎える頃にまで、さかのぼる事にした。・・・2015(平成27)年、「70年前の傷跡」・・・僕が初めて広島を訪れたのは、25年前、二十歳(はたち)の夏だった。原爆が投下されてから、45年経った夏の日、広島市内は、太陽か゛照り付け、街も活気付いていた。原爆が投下され、死の街となった面影は無く、オフィスビルや百貨店等が建ち並ぶ市の中心街は、車や人でごった返していた。広島・長崎に原爆が投下され、終戦を迎えてから25年後に僕は産まれた。つまり、自分も戦争を知らない子供たちの一人である。原爆の事を知ったのは、小学校低学年の時、テレビで放送された戦争に関する番組の中で、原爆投下直後の広島市内の悲惨な映像を初めて見た時、戦争の悲惨さを目の当たりにした。その当時の僕は、まだ原爆の事を知らなかった、テレビで「原爆投下直後の広島」と聞いて、原爆って何だろう?と疑問に思っていた。その数年後、小学校の歴史の授業で原子爆弾の事を知ってから、広島であんな悲惨な事になっていたのだと痛感した。さらに、原爆の悲惨さを物語る映画やドラマ、アニメなどを鑑賞するにつれ、原爆の恐ろしさを徐々に解ってきた様な気がした。あれから約10年後のこの日、、初めて広島を訪れた。広島駅から、路面電車に乗り、オフィスや百貨店のビル群が建ち並び、車や、人で賑わっている中心街をすり抜け、しばらく行くと、木々が生い茂ったその隙間から、廃墟となった建物が見えてきた。これが原爆ドームと言われる建物だった。初めて目の当たりにした原爆ドーム、ここだけ、45年前のあの日から、時間が止まっているかのようだった。25年前、初めて広島を訪れた時は、原爆ドームと平和記念資料館を見て回っただけだった。それ以降、約10年間は広島を訪れていない。その間、原爆ドームは、終戦から半世紀を超えた平成8年に世界文化遺産に登録された。最初、原爆ドームが世界遺産候補に挙がった時は、原爆を投下したアメリカが猛反対していたのだが,原爆の恐ろしさを伝え続けて、もう二度と、こんな過ちを繰り返さないと言う願いを込めて「負の世界遺産」として登録された。僕は、大阪で産まれたのだが、実は大阪にも原爆が投下されていた。広島に原爆が投下される11日前の7月26日、朝9:26に模擬原爆という、広島・長崎の原爆よりも破壊力のかなり小さい爆弾が東住吉区田辺に投下された。その模擬原爆は、「パンプキン」と呼ばれた。アメリカが原爆投下の訓練用として開発された大型爆弾である。その模擬原爆「パンプキン」は、長崎に投下された「ファットマン」と同型だったが、中身は火薬のみで、広島・長崎の原爆よりも破壊力は小さかった。パンプキンは大阪だけでなく、京都の舞鶴や、神戸等、日本全国50発も投下された。田辺に投下されたパンプキンによる犠牲者は、7名だった。今では、投下された田辺の街角に、石碑が建てられている。そのことを知ったのは、今から10年近く前、終戦記念の特集で、大阪にも原爆(模擬原爆)が落とされていた事を初めて知った。次に広島を訪れたのは、4年程前の8月の終戦記念日。この日は快晴で、かなり蒸し暑かった。この日に訪れたのは、原爆ドーム、平和記念資料館、あと、旧日本銀行広島支店、袋町小学校平和資料館、さらに爆心地にも行ってみた。原爆ドームから少し東に行った、島外科のビルの前に爆心地の石碑が建っている。原爆投下の目標は当初、T字型の相生橋だったが、風の影響で流され、大きくずれたという。爆心地の前に来た時、空を見ると、日光が照りつけていた、あの日も快晴で日光が照りつけていたのだが、600m上空で太陽の100万倍と言われる強烈な閃光に襲われたと思うと・・・。広島中心街、紙屋町から大通りを南下すると、旧日本銀行広島支店が見えてきた。この建物も原爆の被害を受けている。しかし見た目は、わりと、しっかりした建物のように見えた、原爆ドームのように被爆したようには見えなかった。堅牢な建物だったので構造的な被害に至らなかったという。原爆投下翌々日には、支払い業務を開始していたらしい。中は、ガラーンとした感じ、この支店は、平成4年に基町に移転し、しばらく空屋になっていたが、重要文化財である建物を広島市は、日銀から借り受けて、市民の芸術や文化活動発表の場として活用している。文化ホールの様になっているところだろうか。そこから、中の路地に入り、しばらく行くと、袋町小学校が見える。ごく普通の小学校だが、実は原爆の被害に遭っていた。しかし、よく見ると、校舎は真新しくなっている、実は、平成12年に老朽化の為、被爆した旧西校舎を解体、2年後の平成14年4月に新校舎が完成。その校舎に挟まれる様に、平和資料館がある。おそらく被爆した校舎の一部だと思う。旧西校舎を解体する際、壁の漆喰や黒板の下から、避難した人の消息を伝える被曝伝言が数多く発見された。当時この学校は救護所として使われていたという。最近になって、この被曝伝言という原爆資料が発見されたらしい。中は、階段の横の壁に書かれた被曝伝言が、写真パネルになって展示されている。一部だけ小窓のようになって、当時の伝言が書かれた壁が見れるようになっている。階段の隣の部屋には、伝言が書かれた当時の壁が残されていた、おそらく、教室の黒板に書かれた被曝伝言だと思う。この貴重な原爆資料も残して原爆の悲惨さを伝えようと、平成14年、新校舎が完成したと同時に袋町小学校平和資料館も創られた。さらにもう一ヶ所、原爆の被害に遭った小学校がある。原爆ドームから太田川を挟んで反対側にある本川小学校。原爆ドームから相生橋を渡ってすぐの所にある。爆心地に一番近い小学校だった。原爆が投下された時、校舎は外部を残し、全焼、倒壊し、400人の児童と10人の教職員の生命が一瞬のうちに奪われた、被爆した校舎の一部を残し被爆の「証」として保存させている。ただ、見学は予約制なのだろうか?中に入ったことはない。一度でいいから、見学してみたいと思った。そして、元安橋の前に平和記念レストハウス(休憩場)があるが、この建物も原爆の被害に遭っている。平和記念公園に来た時、立ち寄っているのだが。被爆前は、大正呉服屋だった。原爆が投下された時、屋根が押し潰され内部も破壊。地下室を除き全焼。建物は後から建て直させた様だが、地下室は、被爆当時のまま残されている。。他にも被爆建造物はありそうだが、知ってる限りの建造物は見て回ったと思う。あれから月日が流れ、終戦から70年目の2015年を迎えた。やはり70年も経つと、戦争体験者の高齢化が目立ってきた。70年目のこの年はどんな年になるのだろうか?イスラム過激派組織によるテロが、世界中で立て続けに激化しているが、終戦70年目のこの年は、邦人も過激派組織の餌食になってしまった。何とも言い切れない気持ちだ。戦争の引き金になってしまう恐怖を感じてしまった。戦後70年目のこの年、広島へ再び訪れようとした。最初は8月の終戦記念日頃に訪れようと思ったのだが、4月5日に訪れる事にした。実は、この日は、原爆ドームが、竣工100年目を迎えたのだった。つまり、100歳の誕生日である。チェコの建築家、ヤン・レツル氏の設計により建設され、1915年4月5日に完成した。ヤン・レツル(ヤン・レッツェル)氏は、1880年、オーストリア・ハンガリー帝国(現チェコ共和国)生まれの建築家。1907年にハンガリーの都市を訪れた後、来日。横浜のゲオルグ・デ・ラランゲの設計事務所で働いていた。広島市では、日清戦争で大本営がおかれたことを契機に軍都として急速に発展していった。経済規模の拡大とともに、広島県産の製品の販路開拓が急務となっていた為、拠点として計画されたのが、ヤン・レッツェルが設計した「広島県物産陳列館」(後の原爆ドーム)である。1910年に広島県会で建設が決定、5年後の1915年4月5日に竣工、4か月後の8月5日に開館した。レッツェルの生まれた、チェコの首都プラハのヴルタヴァ川の河畔には、原爆ドームによく似た、チェコ通産省庁舎という建物がある。広島県物産陳列館、今でいう物産展みたいなものを開催していたのだろうか?1921(大正10)年4月には、お菓子の博覧会(全国菓子飴大品評会)も行われていた。さらに2年前の1919(大正8)年3月4日には、日本で初めて、バウムクーヘンの製造販売もしていたという。原爆ドーム、最初は、原爆投下前まで、広島産業奨励館と聞いていたのだが・・・。最初は、広島県物産陳列館だった。1921年に広島県立商品陳列所と改称された。さらに1933年には広島産業奨励館と改称された。盛んに美術展が開催され、広島の文化拠点として大きく貢献した。しかし戦争が長引く中、1944年3月いっぱいで奨励館業務を停止した。その後、原爆投下まで、行政機関・統制組合の事務所として使われていたという。チェコの建築家、ヤン・レッツェル氏の設計した、当時としては、立派な建物だったのだが。完成から30年後に、まさか原爆ドームという悲惨な建物になるとは・・・。最初、原爆ドームは残されずに、解体される予定だった。もしかしたら今、原爆ドームは存在しなかったのかも知れない。しかし、1歳の時に被爆した、中学生の日記によって、原爆ドームの保存が決まったのだという。原爆投下の後、広島産業奨励館(原爆ドーム)は、しばらく放置されていた。倒壊のおそれがあったのだろうか、いや、それよりも、放射能を含んだ危険性の高い建物だったので、取り壊しを検討していたのだろうか。さらに、一部の市民からは、原爆ドームを見る度に、原爆投下時の惨事を思い出すので、取り壊してほしい。という意見もあったという。しかし、1歳の時に被爆した、楮山ヒロ子さんの日記によって、原爆ドームの保存運動が開始された。彼女は、1歳の時、平塚町の自宅で被爆、1960年4月5日に白血病で亡くなった、16歳の若さだった。原爆ドーム(広島産業奨励館)の竣工から、ちょうど45年経った日だった。残された日記の1959年8月6日のページには「八時十五分、平和の鐘が鳴り外国代表のメッセージを読み終わり、十四年前のこの日この時に広島市民の胸に今もまざまざと、記憶されている恐るべき原爆が十四年たった今でも、いや、一生涯残るだろう。~あの痛々しい産業奨励館(原爆ドーム)だけが、いつまでも、恐るべき原爆を世に訴えてくれるだろうか」と記されていた。ヒロ子さんの日記に心を打たれた、映画「千羽鶴」の制作をきっかけに作られた「広島折鶴の会」の子供たちは、いち早く原爆ドーム保存運動を始めた・・・。投下された原爆によって、放射能汚染された原爆ドームだったのだが、保存が決まった時、やはり反対もあったのだろうか?しかし放射能汚染されているのは原爆ドームだけではない。広島市全体が放射能汚染されているはずだった。この先100年間は緑が生えない(育たない)と言われたほどだったので。しかし、原爆投下から1ヶ月経った時、原爆ドームが放置されていた9月17日に枕崎台風が広島を襲った、原爆投下で悲惨な目にあった広島市にも台風被害が出てダブルパンチの状態だった。だが、この台風が放射能汚染された広島市を洗い流した為、人が住めるようになったという。100年間、緑が育たないと言われたが、70年たった今、広島市内に緑(草木)も結構存在している。2015年4月5日、日曜日。朝からあいにくの雨だったのだが、完成から100年経った広島産業奨励館を見ようと広島へ。もう何度も訪れているのだが。100歳になった産業奨励館は、何も変わらないと思ったのだが。桜が見ごろの平和記念公園から見た原爆ドーム、いつもとは違っていた、補修工事をしていた、どうやら健全度調査をしていたようだった。人間ドックみたいなものらしい。永久保存が決まった産業奨励館(原爆ドーム)、しかし原爆の爆発による衝撃を受けて、損傷もかなり酷かった、さらに、1960年代には風化が進んで、崩落の危険も生じた。これまでに、幾度も保存工事をしていたようだが。原爆被害から、これまで70年間、崩落も無く、持ち堪えてきたものだ。2001年3月に、震度5弱の地震が広島を襲ったのだが、原爆ドームは、大きな被害は無かったという。崩落の危機があった原爆ドームが地震にも耐えたのだった。やはり保存工事を進めてきたからだろう。原爆ドームで、竣工100年経ったのだが、それよりも、かなり古い、老朽化した建物は、幾らでもある。2014年6月に、世界遺産に登録された、群馬県の、旧富岡製糸場も、その一つである。築140年も経っている。しかも、木造レンガ造りで、太平洋戦争の時には、防空壕の役目を果たしていた。戦争の被害は、さほど無かったようだが。世界遺産に登録される前、一度は訪れたのだが、木造とは思えないような、立派な建物だった。これまでに広島を何度も訪れていたのだが、もう一つの原爆被爆地、長崎には、あまり訪れていなかった。長崎には、これまで2回程しか行っていなかった。終戦70年目ということともあるので、6月に、訪れようとした。実は、長崎の軍艦島や高島炭鉱、小菅修船場跡等、明治の産業遺産として、世界遺産登録の候補に挙がっていた。しかし、世界遺産登録に、韓国が猛反対していた。韓国側からすれば、明治の産業遺産は戦時中に「朝鮮人が強制徴用された施設」であった為、つらい思いをしていたのだろう。しかし、7月に軍艦島を含む、明治の産業遺産は世界遺産に登録された。まだ、世界遺産登録が決まっていなかった6月初め、久々に長崎を訪れた。最初に訪れたのは、平和公園、平和記念像があるこの公園は、原爆が投下されるまで、刑務所が建っていた。因みに、広島は平和記念公園だが、長崎は平和公園となっている。長崎刑務所浦上刑務支所で、今でも、刑務所が建っていた痕跡がある。公園内には、拘置所の遺構があり、外塀の遺構も見られる。1927年9月に新設された長崎刑務所浦上刑務支所、原爆投下時は、庁舎と周囲の塀は一瞬にして崩壊、瓦礫の山となった。唯一、炊事場の煙突1本が残ったという。刑務所内の職員18人、官舎住居者35人、受刑者81人の計134人が犠牲になった。広島に原爆が投下された3日後の8月9日、11:03に、B29「ボックスカー」が広島に次いで2つ目の原爆(ファットマン)を長崎に投下。最初の投下目標は小倉だったのだが、小倉上空に霞または煙が漂っていた為、投下目標確認を失敗した。当時、広島への原爆投下の情報を聞いた、八幡製鉄所の職員が敵機が近づいて来る情報を聞き、新型爆弾を警戒して、コールタールを燃やして煙幕を張り、視界を悪くしたようだった。小倉上空で3回も爆撃航程失敗した為、燃料も少なくなり、余裕が無くなった。燃料系統に異常が発生した為、予備の燃料に切り替えた。その間に天候が悪化、日本軍高射砲からの攻撃も激しくなり、零式艦上戦闘機が10機も緊急発進したのを確認されたので、第2目標の長崎に変更された。長崎は、原爆投下を警戒していなかったのだろうか?平和公園にある平和記念像、北村西望によって造られた。神の愛と仏の慈悲を象徴し、垂直に揚げた右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を、横にした足は原爆投下直後の長崎市の静けさを、軽く閉じた目は原爆犠牲者の冥福を祈っている。平和記念像は、3000万(+台座は2000万)の費用をかけて、4年がかりで制作された。すべて国内外から募金で集められた資金だった。平和記念像の顔を見ると、外国人のように見えたのだが、この像のモデルは、プロレスラーの力道山ではないか?と言う説があるらしい、しかし、はっきり特定されていない。平和記念資料館に行くと、広島同様に被爆した品々が展示されている。その中に長崎に投下された原爆(ファットマン)の模型も展示されている。訪れた時は、濃い緑色をしていたのだが、最近になって(ファットマン)の本当の色は、黄色だったということが分かったらしい。今は、黄色に塗り替えられているみたいだ。広島の原爆ドームのように、被爆した建造物は長崎にはないのだろうか?浦上天主堂は、原爆投下で、ほぼ原形を留めぬまで破壊され、今は建て直されている。以前訪れた時に初めて見た、山王神社の二の鳥居が唯一の原爆の被爆建造物だろうか?この鳥居は、原爆の爆風により片方の柱が吹き飛ばされ、今は片方の一本柱だけで立っている、片足の鳥居と言われている。長崎市内、坂本町にある山王神社、1638年、島原の乱の鎮圧の為長崎に赴いた松平信綱が、浦上街道沿いの地を通りかかった際、その景色が近江の比叡山に似ており、地名も比叡山の鎮守である山王権現(現、日吉大社)鎮座地坂本(滋賀県大津市坂本)と共通する事から山王権現の観請を思い立ち、長崎代官の末次平蔵と計って「山王神社」と創祀されたと伝わる。そういえば、坂本町という地名も大津市坂本からついたのだろうか?山王神社には、一の鳥居と二の鳥居があったという、階段坂の前に一の鳥居があった痕跡がある。原爆投下の時は無傷で残っていたのだが、1962年に交通事故で倒壊した。倒壊後は撤去された、被爆遺構に対する関心が低かった為だったという。階段坂を昇ったところに一本柱の鳥居がすぐ目の前にそびえ立っている。原爆に被爆してから今日まで、70年もバランスよく立っていたものだ。鳥居をくぐり抜け、山王神社本殿に向かう途中の参道の片隅に、爆風で吹き飛ばされた鳥居の残骸が展示されているかのように置かれていた。山王神社本殿までは行かなかったが、本殿の敷地内に巨大なクスノキがあるみたいだ、このクスノキも、原爆の被爆に遭っていた。被爆クスノキと呼ばれているようだ。次に向かったのは、大浦天主堂とグラバー園、グラバー園は長崎を訪れた1ヵ月後に、世界遺産登録された。大浦天主堂は、原爆で一部は破損はしたものの、爆心地から、比較的離れていた為、焼失、倒壊は免れた、1952年に修理が完了した。グラバー園は原爆の被害は無かったのだろうか?どうやら被害は無かったようだ、アメリカ進駐軍の司令官公社として接収していたという。1859年長い鎖国が終わりを告げ長崎・横浜・函館の3港は、世界に門を開き、同時に諸外国の商人たちは大浦遺留地の周辺に住居を構え貿易を営み始めた。この貿易商人の一人、スコットランド出身のトーマス・ブレーク・グラバーの住居は、数多い洋風建築の中でも独特のバンガロー風様式を持つ、日本最古の木造洋風建築である。スコットランドから渡来したトーマス・ブレーク・グラバーは、1863年に、この南山手の丘に住まい(グラバー邸)を建設した。原爆ドームより古く、100年以上経っているようだ。しかし、100年以上経った1966年1月に、老朽化の為、解体修理工事をしていた。グラバー園から、長崎港の方に目をやると、巨大な客船が停泊していた。三菱重工場長崎造船所があるところだ。1861年に、長崎製鉄所と改称。戦艦「武蔵」が造られたところだ。グラバー園とともに「小菅修船場跡、第三船渠、ジャイアント・カンチレバークレーン、旧木型場、占勝閣」が、明治の革命遺産として世界遺産に登録された。ジャイアント・カンチレバークレーンは、設置から100年以上経っているが、いまだに稼働している、原爆ドームより古くから存在しているようだ。長崎は、古くから外国への玄関口として発展してきた港湾都市、鎖国体制だった江戸時代には、国内唯一の江戸幕府公認の国際貿易港だった、特にオランダ・中国との貿易が盛んであったという。、長崎市内にも、横浜・神戸とともに中華街がある、そして、オランダ坂と言われる場所もある。また、出島を持つ港町であった為、異国情緒に満ちた港町として有名である。出島とは、1634年江戸幕府の鎖国政策の一環として長崎に築造された人口島、扇型になっていた。ポルトガル人を管理する目的で幕府が長崎の有力者に命じて作らせた島だった。また、長崎はカトリック教徒の数が比較的多く、カトリック教会は長崎単独で一つの大詞教区を形成している、カトリックは、1549年に、フランシスコ・ザビエルにより伝えられ、キリシタンやキリシタン大名が増加した。その後、江戸幕府は、キリスト教を禁教として、カトリック信徒を炙り出す手段として、踏み絵を実施した。しかし、一部の者は「隠れキリシタン」として、密かに信仰を受け継いだ。1873年の明治政府による禁教令撤廃で再び宣教が行われるようになった。長崎市内に浦上天主堂や大浦天主堂があるのは、カトリック教会が盛んだったと言うことが伺える。2015年夏、終戦から70年目の夏を迎えた。毎年夏は、猛暑が続いたのだが、この年の夏は、エルニーニョ現象の影響で、雨も多く、冷夏になる予報が出ていた。しかし、この年の夏も、猛暑となった。70年前の、あの夏はどうだったのだろうか?広島・長崎では、どんな気持ちで、70年目のこの夏を迎えたのだろうか?8月6日、木曜日、広島市内で、3日後の8月9日、日曜日には長崎市内で、70年目の平和祈念式典が行われた。快晴で猛暑の中での式典だった。70年前の夏、いったい何があったのだろうか・・・?太平洋戦争のきっかけとなった真珠湾攻撃、1941年12月8日未明。ハワイ時間では7日、日本海軍がハワイ真珠湾に停泊するアメリカ海軍太平洋艦隊と海軍基地を、九七式艦上攻撃機で攻撃を行った。この真珠湾攻撃を提唱したのは、山本五十六、連合艦隊司令長官だった。五十六は「真珠湾攻撃は私の信念」と言って、実行に移した。当時は日曜日で、ほとんどの島民は、休暇を楽しんでいた。そこに突然、日本海軍の九七式艦上攻撃機の編隊がハワイ真珠湾上空に到着。それを見たハワイ島民は、おそらく最初は、軍隊の演習だと思ったのだろう。しかし、九七式艦上攻撃機の編隊は、、真珠湾を攻撃、停泊していた戦艦「アリゾナ」が撃沈された。真珠湾攻撃を成功させた日本海軍は「トラ・トラ・トラ」と旗艦:空母「赤城」に発信させた。それが、第二次世界大戦「太平洋戦争」の始まりだった。自分自身、「太平洋戦争」や「真珠湾攻撃」の事は、あまりよく知らない。実際、ハワイに行った事も無いのだが、テレビ等で真珠湾攻撃の映像をよく目にしたことはある。ハワイと聞けば、常夏の休暇を楽しむリゾート地と思い浮かぶのだが、その一方で、戦争という悲惨な過去を背負っていた場所だったとは。戦艦「アリゾナ」が撃沈された場所に、「アリゾナメモリアル」と言う記念館があるみたいだが。よくわからないけれど、写真や遺品等が展示されて、戦争の悲惨さを伝えようとしているのだと思う。おそらく、広島・長崎の平和記念資料館と同じようなところだろうか。一度は足を運んでみたいものだ。なぜ日本はアメリカ、ハワイの真珠湾を攻撃したのだろうか?自分自身、元々歴史が苦手だったので、アメリカと日本の間で、何があったのかわからなかった。真珠湾攻撃の事をインターネット等で調べてみることに!当時日本は日中戦争の真っ只中で、中国と戦争していた。この日中戦争において一応中立という立場を守っていたアメリカだったが「日本・満州・中国を統合した経済圏を作ることに示俊し、後に東南アジアを含めた大東亜共栄圏というスローガンにまで発展する」と、この声明にアメリカは強く反発。やがてアメリカは日本に石油や物資を輸出しない!と。当時日本は石油の8割はアメリカからの輸入に頼っていた。アメリカからの石油の輸入が無くなると。中国との戦争ところでは無くなってしまうという。日本も中国との戦争に勝つには石油が必要だった。アメリカが石油を輸出しないとなると・・・。当時、首相に就任した東条英機は、ハワイの真珠湾攻撃を決意したという。真珠湾攻撃を成功させた日本海軍は、旗艦「赤城」に「トラ・トラ・トラ」と打電した。なぜ虎だったのだろうか?「トラ」は縁起がいいのかな?と思った。しかし、由来として「突撃(トツゲキ)」と「雷撃(ライゲキ)」の頭文字を繫げて「トラ」だったらしい。日本国内ではラジオで、臨時ニュースとして、真珠湾攻撃成功のニュースが流れただろう!おそらく日本国民のほとんどが、戦争が始まったと確信したのだと思う。真珠湾攻撃を成功させた日本は、この時点でもう日本の勝利を確信したのだろうか?日本は、神の国だから、アメリカに負ける訳が無いと言い切った国民も多かったと思う。それまでの辛抱で、贅沢を控えていた日本国民だった、「ぜいたくは敵だ」とか「欲しがりません、勝つまでは」等の言葉が流行していた。戦時中は、食事は配給制だった。しかし、配給米だけでは物足りないので、「闇米」というのがかなり出回っていたらしい。闇米とは、密かに農民に着物等とお米を物々交換をしてもらい、自分専用の食べる為のお米を隠し持っていたという。今でいう「へそくり」みたいな物だろう。それが警察官に見つかると、処罰を受けていたという。当然そのお米も取り上げられてしまう。その為、必死にお米を隠し持っていたという。その当時は、食べていく為に死にものぐるいだったのだろう。更に、「神の国」と言われていた日本、必ず戦争に勝つと確信していた為、お国の為に命を授けるという人も多かったのだろうか?特に若い男性は兵隊に駆り出されることも多かった。日本は、必ず戦争に勝つと信じこまれていたのだろう。広島・長崎に原爆が投下されるまでは。1945年8月6日、週明けの月曜日。広島市内はもちろん、日本各地では、いつもと変わらない朝を迎えていた。空襲の恐怖はあったものの。実は、広島市は、空襲の被害が無かったのだ。ほかの地域は空襲の被害があった、大阪も3月から、何度も空襲に遭っていた、しかし広島市だけ空襲の被害が無いので、市民は逆に不気味がっていた。その不吉な予感が的中するとは。原爆を投下した時に威力を確かめたいので、傷を付けない様にしていたという。原爆投下の決断をしたのは、当時のアメリカ大統領、ルーズベルトだったと聞いたのだが。当時は、京都に原爆を投下する予定だったという。なぜ、広島が原爆投下の目標になったのか?広島には、軍隊、軍事施設、軍需工場が集中しており、それらがまだ破壊されていなかったからだという。7月には、原爆投下の準備を進めていた。その時のアメリカ大統領はトルーマンになっていた。トルーマンは、日本への原爆投下計画を承諾。8月6日未明、マリアナ諸島テニアン島で、原爆リトルボーイ)を積み込んだB29(エノラ・ゲイ)は、日本に向けて飛び立った。同時に偵察機も飛び立った、偵察機は、原爆投下目標地の天候等を確認、エノラ・ゲイに知らせる為のB29だった。快晴でないと原爆投下は出来なかった。広島市内では、朝早く、空襲警報が鳴り、市民は、すぐに防空壕に避難していた。しかし、数機の偵察機が上空を飛来しただけで、空襲等は無かった、広島市民にとって、あのB29の編隊がなんだったのか解らなかったのだろう。まさか、この直後に悲劇がおこるとは予想していなかったのだろう。空襲警報はすぐに解除となり。広島市民は、朝の陽射しを浴びながら、1日が始まった。そんな中、偵察機からの快晴だという知らせを受けたエノラ・ゲイは、原爆投下目標を広島に決定、広島上空に向けて飛行していた。8時過ぎ、広島上空に差し掛かったエノラ・ゲイ。広島市内では、B29(エノラ・ゲイ)が近づいて来るのに、空襲警報を発令しなかったのだろうか?おそらく、また上空を通過するだけだと思ったのだろう、この後、とんでもない物を落とされるとは知らずに、広島市民は、また上空を通過しただけに見えたのか、しかし、B29から、落下傘が降りて来るのを見た人もいたという、それが恐ろしい原子爆弾という、核兵器とは知らずに。8:15に、エノラ・ゲイから放たれた原爆リトルボーイ)は、43秒後に、島外科ビルの600m上空で炸裂、凄まじい閃光とともに、巨大な火の玉になり、広島市をのみこんだ、太陽の100万倍もの威力で、広島市を壊滅状態に。そして、巨大なキノコ雲をつくり上げた、1万m上空まで、キノコ雲は立ち昇った。おそらく、原爆を投下したB29は、そのキノコ雲を撮影していたのだろう、テレビ等で、キノコ雲の映像をよく目にした。600m上空で原爆が炸裂した時、広島市内はどんな風になったのか?炸裂した瞬間に紫色の不気味な光が放たれたかと思うと、そのすぐ後に強烈な閃光が走り、直後に100万℃の巨大な火の玉となった。100万℃の高熱によって発せられた熱線が広島市内を焼きつくし、そのすぐ後、爆発音と共に、衝撃波が市内を襲った、木造家屋等、半径2km以内の建物は衝撃波によって破壊され、爆風によって吹き飛ばされた。産業奨励館は爆心地から、僅かしか離れていなかったはずだったが、全半壊を免れていた。その周辺の建物は、ほとんど跡形もなく破壊されていたみたいだが。そして巨大な火の玉は、しだいに灰色の雲となり上空へ昇っていった、それがキノコ雲へと成長していった。更に、大量の放射線も降り注ぎ、多くの広島市民に浴びせられた。その為、放射能汚染に被爆して、死に至らしめられた市民が多かった。被爆当時、体に異変が無くても、数日後に突然異変が出てきた人も・・・。一方、エノラ・ゲイの乗組員は、こんな恐ろしい物を落とすなんて、複雑な気持ちもあっただろうか?国からの命令とは言うものの。原爆投下に向けて出発する前、、テニアン島では、アメリカ軍第509混成部隊の隊長、ポール・ティベッツ陸軍大佐は、乗組員にこう告げたという「いま我々が落とそうとしている爆弾は、これまでの爆弾とは違うものだという事をよく覚えていて欲しい」と。原爆を投下した後、キノコ雲を目の当たりにした乗組員はどんな気持ちだったのだろうか?後に、ティベッツ氏は日誌に「驚いた。いやショックを受けたといっていい。わたしが想像したより、はるかに大きい破壊が行われたということだ」と書いていた。原爆投下された広島市内は、ほとんどの建物が破壊され、街中では火の海となっていた。そして被爆した人々が無残な姿になっていた。全身黒焦げで絶命した人々や、皮膚が焼け爛れ、うめき声を挙げる人々、あるいは、倒壊した建物の下敷きになって亡くなった人等、まさに地獄絵図そのものだったという。全身大火傷を負った人は、水を飲ませて欲しいと言っていた、しかし、川の水しかなかったのだが、放射能汚染された川の水は、猛毒化していた、その為、、その水を口にした人は、その後、動かなくなってしまった。そのまま、息をひきとってしまったのだった。原爆が投下された数分後に、放射能を含んだ黒い雨が降ってきたという、黒い雨とはどんな雨だったのだろうか?墨汁のような感じだったのか、あるいは、重油のようなネバネバしたような雨だったのか?放射能という有害物質を含んでいるので、人体にかなり悪影響を及ぼしていたという。原爆投下された広島市内、産業奨励館(原爆ドーム)周辺は、ほぼ壊滅状態に。おそらく生存者はいなかったと思う、ほとんどの人々は、ほぼ即死状態だったに違いない、しかし、数km離れた場所では、かろうじて生存者がいたのだろうが、その人達は、何がおこったのか解らなかったのだろう。投下されたのが原子爆弾とは思わなかったのだろう。原爆が投下されたと知ったきっかけは、日赤病院(後の原爆病院)に保管されていたレントゲンフィルムが被爆によって感光していた為、原子爆弾だと判明された、フィルムは、原爆が炸裂した時の閃光によって感光してしまったという。救助活動もすぐに始まったのだろうか?臨時に設けた救護施設に運びこまれた被爆者達、全身大火傷を負った人達、見るも無残な姿になっていた。広島市内は数日間、火災がおさまらなかった、そんな中、生存者達の早く復興したいと言う意思はかなり強かった。原爆投下の3日後には、路面電車を運行させていたという。廃墟となった広島市街を1日でも早く復興させたいと言う願いをこめて、8月9日に路面電車は走り始めた。運転士は10代半ばの女性、電鉄会社の家政女学校で学び、働いていた。一番電車の運転士は、雨田豊子さんだった。彼女も被爆していたのだが、比較的軽傷だったのだろう、頭に包帯を巻いていたが、一番電車の運転台に立ち、路面電車を走らせた。この路面電車の運行は絶望的になっていた広島市民にとって生きる勇気を与えたことになったのだろう。この被爆電車は、つい最近まで、現役を務めていたという。2006年6月で定期運行は終了したが、今では、特別運行プロジェクトとして、日曜日等に特別に運行しているみたいだ。これまでに、何度か広島を訪れているが、被爆電車を見た事は無い。更に、後で知ったのだが、国鉄広島駅は、原爆投下の翌日の8月7日から、もう運行を開始していたという。広島で路面電車を運行し始めたこの日、二つ目の原子爆弾が長崎に投下された。8月9日、11:02に、B29(ボックス・カー)は、長崎市に、二つ目の原子爆弾(ファット・マン)を投下、長崎も広島と同じように壊滅状態に。アメリカに、二つの原爆を投下日本、もうだめだと絶望的に、8月15日、日本敗北によって終戦を迎えることになった。この日はラジオから流れる、天皇陛下のお言葉を聞き入った日本国民、日本敗北を信じたくなかったのだろう、蝉の鳴き声に紛れて、すすり泣きの声も聞こえたという。終戦後の日本、戦争による犠牲者は330万人だった。広島原爆の犠牲者は14万人、長崎原爆の犠牲者は7万人だと言われている.さらに生き残った被爆者は、後に原爆の後遺症に苦しめられ、亡くなる人も。広島平和記念公園にある、平和の子の像のモデルになった、佐々木貞子さんもその1人だった、彼女も2才の時に被爆したが、身体に異変はなく、元気で活発な女の子だった、しかし、まだ11才の時に首にしこりができはじめ、12才になった時にしこりがおたふく風邪のように顔が腫れ上がった。詳しく調べると、原爆の後遺症による白血病だった、日赤病院(原爆病院)に入院生活を送っていた彼女は、折り紙で千羽鶴を折れば元気になると信じていた、しかし、その願いもかなわず、12才の若さで亡くなった。他にも、70年経った今でも、原爆の後遺症に苦しめられている人も多い。終戦から半月後、マッカーサー元帥が来日し、連合国軍による占領下におかれた日本、GHQによる日本の非軍事化、占領政策がはじまり、東条英機等、戦犯容疑者を逮捕する等の処置がとられ、日本を新しく生まれ変わらせる計画が薦められていた。そんな中、日本国内はまだゴーストタウンのような、さびれた状態でバラック等が多かった。原爆が投下された広島・長崎も、しかし、戦後の日本は復興も早かった。終戦から約20年後の日本、高度経済成長によって、暮らしが豊かになってきていた。しかし、その一方で、世界中では、戦争が無くならなかった。被爆国である日本はもう戦争には、一切関わらないと宣告しているが。自分の記憶にあるのは、ベトナム戦争、イラン・イラク戦争や湾岸戦争等、70年たった今でも、世界のどこかで、絶えず戦争が勃発しているように思う。記憶に新しいのは、2001年9月11日、ウサーマ・ビン・ラディン氏率いるイスラム過激派組織による、アメリカ同時多発テロが勃発、それが引き金となり、アメリカ軍は報復としてアフガニスタン紛争、イラク戦争を行った。世界中でイスラム過激派組織による無差別テロが多発、戦争に発展しているように思う。戦後70年経った2015年11月13日には、フランスのパリで同時多発テロが発生している、今のところ、原爆等を使った核戦争にまで発展していないものの、世界中から戦争が無くなる希望は絶望的なのだろうか?日本国内は、イスラム過激派組織によるテロに巻き込まれずにはいるものの、日本人ジャーナリストが世界各国で勃発している戦争に巻き込まれ、犠牲になっている。2012年シリア内戦の取材中に山本美香さんが政府軍の銃撃によって殺害された。享年45歳、今の自分と同じ年だった。今、世界中で勃発している戦争では、核兵器を使用した戦争にいたっていないが、北朝鮮では、核ミサイル発射実験を行い、世界中で深刻な問題になっている。1993年5月29日に、ノドンミサイルを日本海に向けて発射。着弾地点は能登半島から350km付近だったらしいが。さらに、1998年8月31日には、テポドンと呼ばれるミサイルを日本海に向け発射していた。テポドンは津軽海峡付近から日本列島を超え太平洋に落下したという。最近では終戦から70年以上経った2016年2月27日に地球観測衛星(光明星2号)のロケット打ち上げと称して、飛翔体を南に向け発射、沖縄上空を通過。上空を通過している映像をテレビのニュースで流れていた。北朝鮮では、地球観測衛星のロケットと言っているが、テポドン2号改良型とみられている。アメリカをはじめ世界中で核問題廃絶を訴えている中、北朝鮮では、核ミサイル発射実験が行われている。世界中で起きている戦争やテロ、北朝鮮の核実験等、さまざまな問題がある中、アメリカのバラク・オバマ大統領が、アメリカ大統領としては、初めて広島を訪問している。オバマ大統領も核問題を訴えている。「核なき世界」を提唱。2016年5月27日、伊勢志摩サミットの後広島を訪問、原爆死没者慰霊碑で献花した後、演説した「71年前、明るく、雲一つない晴れ渡った朝、死が空から降り、世界が変わってしまいました。閃光と炎の壁が都市を破滅し、人類が自ら破滅させる手段を手にしたことを示したのです。なぜ私たちはここ、広島を訪れるのか、私たちはそう遠くない過去を解き放たれた恐ろしい力に思いをはせるために訪れるのです」。演説の後に被爆者と握手をしたり、抱き寄せるシーンもあった。オバマ大統領と交わした被爆者は、85歳、90歳と、かなり高齢だった。70年が過ぎて、71年目の夏を迎える前、自分は、また広島を訪れた。このところ、毎年広島を訪れている。必ず訪れている原爆ドームと平和記念公園、相変わらずの人手だった。しかし、今回は、市街中心部から南に降りた所にある御幸橋と、広島赤十字・原爆病院に行ってみた。御幸橋は、見たところ、ごく普通の橋のように見えた。1969年に、老朽化の為、架け替え工事が始まったが、幹線道路だった為、一度に改築できず、上下半分ずつ架け替え工事を行ったので、長期間かかり、21年後の1990年に竣工した。橋のふもとに、一枚の絵が飾られたモニュメントがある。原爆投下された時の写真みたいだ。爆心地から2270m離れていたが、爆風で大きな被害を受けた、しかし落橋自体は免れた為、宇品方面に避難する被災者が橋に殺到し混乱と凄惨をきわめた。原爆投下当日の午前11時頃、カメラマン松重美人によって撮影された。松重美人は、勤務先の中国新聞に向かう途中、橋の西詰で爆心地方面から逃れて応急手当を受けていた被爆者の群衆を目の当たりにして写真を撮影した、この写真が被爆当時の広島市街中心部を撮影した唯一の写真となった、原爆投下当日の悲惨な光景が写し出されている。御幸橋から少し行くと、広島赤十字・原爆病院がある。原爆投下時、病院に保管していたレントゲンフィルムが被爆で感光していた為、、原爆の使用が立証された、また、佐々木貞子さんが入院していた病院でもある。1939年に日本赤十字社広島支部病院として開院、原爆被爆時、3階建ての病棟は外郭を残して大破したが、類焼は免れた。しかし1993年に老朽化の為、、旧建物を取り壊し、新病棟に移行。原爆の被害を受け、爆風により、ねじ曲げられた窓枠や窓ガラスが突き刺さった壁の一部が、広島市の被爆建物保存事業の第1号として、保存されている。さらに、2013年に病院の改築に伴い病院から140m先に「メモリアルパーク」を設け、壁の一部は移設された。広島を何度も訪れ、原爆の傷跡を見て回り、戦争の悲惨さが、解ってきたような気がしてきたようだ、しかし戦争は無くならないようだ。最後にあまり知られていないかと思ったが、大阪の吹田市にある公園に、「平和の薔薇」が咲いている、吹田市内の片山公園に咲いている「平和の薔薇」は、広島の名誉市民、原田東岷さんが「地上をバラでいっぱいにし、争いのない世界を」と願い、広島市の名前を冠した新品種のバラを作り、世界中に栽培を呼びかけた。バラの名前に、「ヒロシマ・チルドレン」「ヒロシマ・アピール」「ピース・ヒロシマ」等があるみたいだ。原田東岷とは、日本の外科医、原爆投下直後に、爆心地にバラックの外科病院を作り、被爆者の医療を開始、被爆によるケロイド治療等、被爆者医療に尽力した。外科医として活動している傍ら、平和運動に参加。1955年体にケロイドの残る「原爆乙女」に付き添い訪米。渡米治療に道を開くとともに、原爆の惨禍を世界に伝えた。しかし、この「平和の薔薇」は、吹田市の公園にしか咲いていないのだろうか?広島・長崎にも、咲いているのだろうか?・・・・あれから5年後の2020年·秋、コロナウイルス感染者が再び増え始め、第3波に突入したと騒がれ始めた。そんな中、11月に、アメリカ大統領選挙が行われた。トランプ大統領とバイデン氏との争いで、バイデン氏の勝利がほぼ決まったようだ。バイデン氏と、大阪に繋がりが有りそうな感じがする。大阪中心街(キタと言われている)は、梅田と呼ばれている。江戸時代、泥土を埋め立て田畑を拓いた事で「埋田」と呼ばれる様になったが、後世になり字面が悪いみたいで、曾根崎村の露天神社や北野村の綱敷天神社にて梅が有名だったみたいで「梅田」となったようだ。「梅田」を音読みにすると、梅は(バイ)、田は(デン)となり梅田(バイデン)と読めてしまう。自分自身、バイデン氏とは、どんな人なのか、よく分からない。11月20日産まれで、2020年11月で78歳に、翌2021年1月20日にアメリカ大統領に就任、アメリカ歴代大統領の中で最高齢での大統領就任になるようだ。・・・これまでは、広島・長崎の原爆の傷跡を何度も訪れたのだが、戦争の傷跡は、あまり訪れていない。ハワイに一度も行った事も無く、真珠湾パールハーバー)にも訪れていない。唯一、訪れた事があるのは、沖縄のひめゆりの塔ぐらいだろう。2019(平成31)年1月に沖縄へ訪れた、沖縄のシンボル、首里城公園にも行ったのだが、その首里城が10カ月後に火災で消滅してしまうとは、想像も出来なかったはずだ。首里城観光の後、ひめゆりの塔方面へ、自分としては、なんとなく太平洋戦争での犠牲者の慰霊塔としか思っていなかった。「ひめゆり」とは、ひめゆり学徒隊にちなんでいるという。植物のヒメユリとは関係なく、学徒隊の母校、沖縄県立第一高等女学校の高誌名「乙姫」と沖縄師範学校の高誌名「白百合」とを組み合わせ「姫百合」だったが、ひらがなで「ひめゆり」となったようだ。第二次世界大戦中の沖縄地上戦にて犠牲になった学徒隊や兵隊の慰霊塔としか知識が無かった。慰霊塔の前に大きな穴があったのだが、「ガマ」と呼ばれる自然で出来た防空壕だそうだ。この中でアメリカ軍の攻撃によって87人も犠牲になったようだ。ひめゆり学徒隊と言われていたので、おそらく10代と言う若さで犠牲になったのだと思う。訪れた時、献花をしたのだが、何とも言いきれない気持ちだった。10代で犠牲になった兵隊と言えば、神風特攻隊もその一つになると思う。お国「大日本帝国」の為、片道(往路)分の燃料しか積まなかった戦闘機に乗り込み、そのまま敵の軍艦に突っ込み、自ら命を犠牲にした若い兵士の事だ。鹿児島県の知覧という場所に飛び立つ為の滑走路があったらしい。知覧という所に行った事は一度も無いのだが、知覧特攻平和会館があるみたいだ、おそらく、自ら命を絶った若い兵隊の遺影があると思う。いつかは訪れてみたいものだ。他にも、日本全国には、戦争の傷跡がたくさんあるのだと思う・・・。最後になりましたが、終戦から75年目の2020年、この年は世界全体にて新たなる戦争が始まっているようだ、コロナウィルスという見えない敵と・・・。

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