６１ 最初で最後の嘘
「いくら攻撃したところで、私を倒すことなどできませんよ」
新田を小馬鹿にしたように、ラゼがほくそ笑む。
先刻から、新田は何度もハンマーで彼を殴りつけている。それにもかかわらず、悪魔は死なない。たとえ骨を砕かれ、内臓を潰されようとも、すぐさま肉体を修復する。
「いちいち、うるせえな。自信過剰なのは良くないぜ」
一方で、新田は疲れの色が見え隠れしていた。連続攻撃を仕掛けたからだろう、僅かに息が上がっている。
隙を突き、ラゼが新田の間合いへ飛び込む。鋭い蹴りを胸部へ見舞い、相手を倒れ込ませた。
「させません！」
馬乗りになり、さらに殴りかかろうとしたときだった。奈央がロープを放り、悪魔の全身を縛り上げる。
「……同じ手が通用するとでも？」
だが、それは瞬時にほどかれる。黒いオーラを纏ったラゼは、波動を放つことで拘束を脱した。
再生能力以外にも、彼はいくつかの戦闘技能を有している。単に動きを止めれば対処できるわけではない。
ラゼはほどかれたロープを掴み、強い力で引っ張ることで、逆に奈央を近くに引き寄せた。
「わわっ。は、離して下さいっ」
尻餅をついた彼女の胸倉を掴み上げ、白くて細い首筋にロープを巻き付けていく。奈央は必死に抵抗し、ロープを自分の意志で動かそうとしたものの、縄に込めた力をラゼの腕力が上回った。
一重、二重とロープが首に巻かれていき、奈央が苦しそうに咳き込む。目は涙で潤み、口は空気を求めて喘いでいた。
「宮内っ」
どうにか起き上がり、彼女の元へ駆け寄ろうとする新田。彼を手で制し、ラゼは意地の悪い笑みを浮かべた。
「彼女の命が惜しければ、その場から動かない方が賢明ですよ。その物騒な武器も捨てていただきたい」
奥歯を噛みしめ、新田は一瞬だけ考えた。結論は言うまでもなかった。
「……分かった」
小型ハンマーを無造作に放り、アスファルトの上に落とす。それから両手を挙げ、抵抗する意思がないことを示した。
「これでいいんだろ」
「ええ。君は話が早いですねえ」
ラゼは奈央を引きずったまま、新田の側まで歩み寄った。ハンマーを拾い上げ、恍惚とした表情を浮かべる。
「ヴィルディアスの残した『盗人の七つ道具』。その一つが、ようやく取り戻せました」
「……駄目です、先輩。武器を渡しちゃいけません」
喉を圧迫する縄に手を当て、奈央は掠れた声を振り絞った。
「忘れたんですか。七つ道具を奪われたら、トリックスターは歴史改変を自由に行えるようになるんですよ」
「言われなくても、そんなことは分かってる」
目を伏せ、新田は悔しそうに呟いた。
「けど、だからって……目の前でお前が殺されるのを、黙って見てられるわけねえだろ」
「やかましい。口を慎みなさい」
まだ何か言おうとした奈央を、ラゼはロープを引っ張って黙らせた。さらに縄が喉へ食い込み、彼女が声にならない悲鳴を上げる。
けれども、ロープは出し抜けにほどかれた。解放された奈央は、地面に突っ伏して激しくむせている。目尻から涙が零れていた。
「一応、約束は守りましょう。君たち二人の命は取りません。その代わりハンマーとロープ、二種の七つ道具は頂いていきます」
勝ち誇った表情で、悪魔は宣告した。
「おい、大丈夫か。しっかりしろ」
奈央の元へ駆け寄り、新田はしきりに背中をさすってやっている。その様子を横目に、ラゼは遥か向こうでの戦況にも目を凝らしていた。
ロルモンドと交戦しているのは、くさび使いの男と鏡使いの女か。だが両者とも、反アウフヘーベン領域に囚われている。ほとんど何もできないまま、ロルモンドの技を受けて命を散らそうとしている。
これは二つの意味でチャンスだ。
一つには、トリックスターが歴史改変を行う絶好の機会である。彼らを倒して七つ道具を奪えれば、ラゼが奪還したものと合わせて四つになる。このまま残りの鍵束、かぎ爪、パールも回収できれば、歴史改変の妨げになるものは何一つなくなるのだ。計画は大きく前進すると言えるだろう。
もう一つは、メラリカの仇を討つ機会。もしかすると、今後二度と訪れないかもしれない機会だ。
どちらを優先するかは、言うまでもなかった。否、最初から決めていた。
（……すみません、エドマ。あなたを騙すのは、これが最初で最後ですね）
覚悟を決め、ラゼは疾駆した。
新田たちの側を離れ、ロルモンドの元へ一直線に駆ける。
ロルモンドが反アウフヘーベン領域を展開したのを見て、エドマは束の間、動きを止めた。八束の繰り出した斬撃を躱し、考えを巡らせる。
漆黒の怪人は、闇の中に山下と薫を捕らえていた。身動きの取れなくなった彼らへとどめを刺すべく、ゆっくりと歩みを進めている。
白い光がロルモンドの脚部を包むのを見て、エドマは「今しかない」と思った。ラゼとの約束通り、奴を打ち倒すのだ。たとえこの身が滅びようとも、自分には果たさなければならない使命がある。メラリカの無念を晴らし、ジェルで操られた同胞たちを解放することだ。
手のひらに火球を浮かべ、それを続けざまに放つ。直撃こそ避けたものの、爆炎の中に呑まれかけ、八束と谷崎は怯んだ様子を見せた。
機を見て駆け出そうとしたエドマだったが、事態は彼の思惑通りに進まなかった。
何故なら、彼よりも先にラゼが動いていたからである。
破壊エネルギーを帯びた蹴りを叩き込もうと、ロルモンドが右足を振り上げた瞬間だった。どこからか伸びてきた縄が首に巻きつき、きつく締め上げてくる。
「おのれ。不意打ちとは、卑怯な真似を」
ロルモンドはロープを外そうと躍起になるが、びくともしなかった。虚しい抵抗を嘲るように、さらに強く締めつけられる。
苦しそうに喉元を押さえながら、彼は襲撃者の正体を見極めようとした。やはり、七つ道具の使い手だろうか。
しかし、その予想は裏切られる。鬼のような形相で迫ってくるのは、配下であるはずのラゼだった。片手に握られた縄が、ロルモンドの首元まで伸びている。
「このときをずっと待っていましたよ、ロルモンド」
アスファルトを蹴った一瞬ののちに、蔦を纏った悪魔は眼前へ移動している。
奈央の使っていたロープは、持ち主の意のままに伸縮できる。通常は長く伸ばし、敵を絡めとるのに使うのだが、今回に限っては例外だった。すなわち、敵に巻きつけた状態でロープを縮め、かつ足を地面から離すことで、敵との間合いを一気に詰めたのである。
「……貴様、裏切るつもりか⁉」
ロルモンドは動揺を隠せなかった。そのせいで意識がロープに集中し、ラゼのもう片方の手に握られた武器へ気づくのが遅れた。
「ええ。そのつもりです」
ふと、にこやかに笑み、ラゼは縄から手を離すと同時にハンマーを振り上げた。至近距離から繰り出された全霊の一撃が、ロルモンドの腹に叩き込まれる。
「あなたのような人間に、トリックスターを率いる資格はない。私が認める指導者は真の英雄、エドマただ一人ですから」
呻き声を上げ、ロルモンドの体が宙を舞う。
エドマの推測は正しかった。地面から足が離れた状態で動いた場合、領域の位置座標は変更されない。
数少ない弱点を突かれ、ロルモンドは自身が展開した反アウフヘーベン領域の中へ落下した。まとわりつく闇に、苦痛に満ちた叫びを漏らす。
「私の能力を逆用するとは、小癪な」
闇に力を吸収され、ロルモンドの声から徐々に生気が抜けていく。足首より下がヘドロ状の闇に浸かり、彼は動けなくなっていた。
だが、まだ全ての力を吸い取られたわけではない。死に物狂いでもがき、ロルモンドが闇から足を引き抜く。這うようにして進み、領域外へ脱しようと試みた。
「逃がしません！」
ロープとハンマーを放り捨て、ラゼも躊躇なく闇の中へ飛び込む。高く跳躍したのち、反アウフヘーベン領域内に着地した。後ろからロルモンドに近づき、羽交い締めにする。
「……一体どういうつもりだ。こんなことをして、委員会から罰せられないとでも思っているのか。離せ。離したまえ」
喚き散らし、ロルモンドはめちゃくちゃに腕を振り回した。けれども、力を抜き取られているせいでラゼを振り払うことができない。
無論、ラゼも覚悟の上だ。この闇の中では、彼の不死身の能力も封じられる。領域内で致命傷を負えば、再生することなく死に至る。
「今のうちです、エドマ」
離れた位置に立つ友へ向け、ラゼは声を張り上げた。
自分が特攻するはずだったのに先を越されたことで、エドマは戸惑ったような表情を浮かべていた。
「私もろとも、ロルモンドを倒すのです。チャンスは今しかありません！」
漆黒の怪人を羽交い締めにしたまま、ラゼが叫ぶ。
彼は自分に代わって役目を果たそうとしているのだと、エドマはようやく悟った。
