02 侵攻開始
数日後。
その日の授業を終えて、八束が帰路に着いていたときだった。どこからか響いてきた声が、大地を震わせる。
『人類へ宣戦布告する』
八束は最初、耳を疑った。日本へ、ではなく人類へ、と声は確かに告げた。
街を歩いていた人々は皆足を止め、恐る恐る空を見上げた。
『我々は船団トリックスター。今この瞬間から、地球は我らの侵攻を受けることとなる。間もなくトリックスターの兵士が世界各地へ向かい、破壊活動を行うだろう』
声の響き方は、あの鍵束から聞こえたものと似ていた。しかし、今空から降り注いでいる男の声は、それよりもずっと悪意に満ちている。
声が止んだのとほぼ同時に、空に歪みが生じた。
シュールレアリスムの絵画のようにぐにゃりと歪んだ青空から、無数の影が降り立つ。
シルエットは人に近いが、体を覆うのは、岩のようにゴツゴツとした黒い皮膚。異形の怪人たちは、赤く細長い目で辺りを見回した。
音もなくアスファルトへ着地し、彼らが破壊活動を開始する。
八束はただ、事態を眺めることしかできなかった。
建物の陰に隠れ、息を殺す。心臓の脈打つリズムが速まるのが分かる。恐怖のあまり、通学鞄を持つ手が震える。
(あの変な声の言うことは、本当だったんだ)
視界の端では、怪人たちが闊歩していた。
デコボコして不格好な拳の一撃は、ビルの外壁を容易く砕く。人を何メートルも吹き飛ばし、車を叩き潰す。
至る所から人間の悲鳴が聞こえる。
夕暮れの繁華街は、瞬時に殺戮現場へと変わった。
(これで分かっただろう)
鞄の中から、うっすらと光が漏れている。はっとしてファスナーを開けると、そこには例の鍵束があった。
家に置いてきたはずなのに、どういうわけか鍵は八束の鞄に収まっていた。
(君が戦うしかないんだ。君が戦わなければ、この星は奴らに支配されてしまう。それでもいいのかい)
「別に構わないさ」
再三の説得にも応じず、八束は頑なに首を振った。
「この世界がどうなるかなんて、僕には関係ない」
(関係あるさ)
警察の機動隊が出動した。防弾シールドを構えた集団が怪人たちの前に立ちはだかり、果敢に銃撃を浴びせかける。
しかし、弾丸を受けてもなお、岩のような皮膚をもつ彼らには傷一つつかない。
船団トリックスターの有するテクノロジーは、この星のそれの遥か先を行っている。通常の武器で倒すことは不可能に近かった。
奴らに唯一有効な武器は、謎の声が人類に託した魔道具だけなのだ。
(人は、一人では生きていけない。世界と関わらなければ、人は生きていけないんだ)
「うるさいな」
苛立ったように、八束が声を荒げる。
「僕は戦わない。大体、こんな鍵束でどうやって戦えって言うんだよっ」
声はまだ何かを語りかけようとしていたが、八束は耳を貸さなかった。無理やり鞄のファスナーを閉め、声を遮断する。
ほっとしたのも束の間、右方に視線を感じた。
振り向くと、一体の怪人がこちらを見ている。向かいの通りでテナントビルを破壊していたのを中断し、通りを横切ってずんずん近づいてくる。
(まずい。気づかれたか)
冷や汗が首筋を伝う。八束が後ずさり、異形の怪人がじりじりと距離を詰めてくる。
情けないことに、この期に及んでも八束に戦うという選択肢はなかった。否、そもそも戦い方さえも分からなかったのだ。
彼は恐怖に呑まれ、上手く体を動かすことができなかった。
十分に間合いが縮まったとき、ついに怪人が地面を蹴り飛ばし、八束へ飛びかかった。思わず、八束が目を閉じる。
けれども、予想された衝撃や痛みは訪れなかった。
代わりに聞こえたのは、何か鋭いものが空を切る音。続いて、怪人のものと思われる断末魔の叫び。
恐る恐る目を開ける。
八束に背を向ける格好で、一人の少女が立っていた。セーラー服を着ていることから推測するに、中学生か高校生だろう。八束と近い年齢であることが窺えた。
セミロングの黒髪を風になびかせ、彼女は倒れ伏した怪人を見下ろしていた。
その両手には、かぎ爪状の武器が装着されている。手甲の上に金属製の爪がついているタイプで、黄金に輝くかぎ爪からは緑色の液体が滴っている。
おそらく、彼女が敵を屠ったのだ。それも、ほとんど一撃で。
「大丈夫?」
くるりと振り返り、少女が尋ねる。顔立ちは整っているが、気が強そうな第一印象を受けた。
「ここは危ないから、早く逃げた方がいいわよ」
それじゃ、と駆け出しかけて、彼女は足を止めた。
「……ちょっと待って。もしかして、あんたも選ばれたの?」
「えっ?」
少女の視線の先には、微かな光が零れている八束の通学鞄があった。
セーラー服の少女(名前はまだ出てきませんが)も登場しました。今作のヒロインたちは、精神的にも肉体的にも強いです。
なお、プロローグと第一話は少し短めにしましたが、これ以降については今回と同じくらいの分量にするつもりです。よろしくお願いします。